第5話:育ての親
昼を少し過ぎた頃、ミエルの店先に、一台の荷馬車が止まった。
車輪が石畳の継ぎ目を越えるたびに軋んでいた音が途切れ、代わりに、御者台から誰かが飛び降りる重たい足音が響く。
ミエルはちょうど、量り売りの砂糖を小袋へ移しているところだったが、窓の外に見えた荷台の幌と、その脇から伸びた黒い尻尾に気づくと、手元の匙を置いて息を吐いた。
今週は何も、頼んでいないはずだった。もっとも、あの男が注文の有無を気にしたことなど、これまで一度もない。
「おい、ミエル。生きてっか」
扉を開けるより先に、声が飛んできた。
「生きてるよ。店先で大声出すなって、いつも言ってるだろ」
「聞こえりゃいいんだよ。ほら、そこ空けろ」
返事を待つこともなく入ってきたのは、黒豹の亜人だった。黒い耳の片方と、日に焼けた頬には、古い傷が残っている。
農場仕事で鍛えられた腕は太く、袖を肘まで捲ったシャツには乾いた土がついていたが、本人はそれを気にする様子もなく、両腕に抱えた木箱を店の奥へ運び込もうとしていた。
「待って待って。何それ、また野菜?」
「見りゃわかるだろ?」
「わ、わかるけど。今週はまだあるんだって。こないだもいっぱい持ってきたのに」
「いいから食え」
理屈になっていない返事をしながら、フランツは作業台の空いたところへ、木箱を下ろした。
蓋のない箱には、土を落としたばかりの根菜と、青々とした葉物、それから紙に包まれた果物が詰まっている。どれも傷みがなく、葉先まで張りがあり、農場で売り物として選別された品と変わらない状態だった。
ミエルはその中からひとつ、丸く太った根菜を持ち上げた。
「これ、俺が好きなやつだ」
「だから持ってきてやったんだろ?」
「おっさん、いつもありがとね」
このやり取りも、もう何年繰り返しているかわからない。
フランツは農場を営んでいる。街の外れからさらに西へ進んだところに広い畑と果樹園を持ち、季節ごとに作物を育てては、市場や商店へ卸していた。
農場の規模を考えれば、店一軒に届ける野菜などほんのわずかなものだろうが、忙しい時期であっても、こうして自分で荷馬車を走らせてくることがある。
ミエルが幼い頃から世話になっている相手で、今では遠慮なく悪態をつける、数少ない家族でもあった。
「で、飯は食ってるのか?」
「食べてるって。昨日は魚焼いた。あと、豆の煮込み」
「野菜もちゃんと食えよ」
「入ってるよ。玉ねぎと人参。おっさん、俺のこと何歳だと思ってる?」
「飯食わねえときは五歳だな」
フランツはそう言って、作業台の端に積まれた空き箱を勝手に片づけ始めた。
ミエルはその背中を見て、もう一度笑った。この男に何を言っても無駄だということは、とうの昔に知っている。
こうして店へ顔を出してくれるのは、なんだかんだで嬉しいものだ。
ただ、持ってくる野菜の量については、そろそろ本気で相談する必要がありそうだったが。
◆
午後の客足が落ち着き始めた頃、入口の鈴が鳴った。
ミエルが顔を上げると、開いた扉の向こうから、見覚えのある灰色の耳が現れた。
「あ、いらっしゃい」
青年は店内を見回し、それからカウンターのほうへ歩いてきた。
柔らかな灰色の髪に、短い黒い角。萌木色の瞳は相変わらずどこか眠たげで、ゆったりした黒い上着の下には、襟元の開いた薄い色のシャツを着ている。
数日前に初めて店を訪れた、カモシカの亜人だった。
「この前の」
「……覚えてたんだ?」
「もちろん。今日は何か探してる?」
「茶葉を見に来た」
「そっか。ちょうど新しいのが入ったところだよ」
ミエルはカウンターから出て、奥の棚へ青年を案内した。
前回、陽の当たる場所に置いていた茶葉は、あれからすべて棚の内側へ移してある。青年はそれに気づいたらしく、並んだ硝子瓶へ視線を向けたあと、何も言わずにひとつを手に取った。
「これ、開けてもいい?」
「いいよ。香りを確かめたいんだろ」
蓋を外して差し出すと、青年は瓶の口へ顔を近づけ、短く息を吸った。その仕草には、どこか見覚えのある慎重さがあった。
茶葉を扱い慣れた商人が、品質を確かめるときの動作に似ている。
「悪くないね」
「ほんと? それ、俺も結構気に入ってるんだ」
「焙煎が浅いから、香りが残ってる」
「そうそう。渋みも少ないんだよ。飲んでみる?」
青年は瓶から目を離し、ミエルを見た。
「試飲できるの?」
「まあ、そんなところ。俺も飲みたいし」
ミエルは笑って蓋を閉め、茶葉を少量だけ取り分けた。
店の奥には小さな湯沸かし台がある。客へ茶を出すためのものではなく、ミエルが仕事の合間に使っているだけだったが、常連の中には、買い物のついでに一杯飲んでいく者もいた。
湯を沸かし、茶器を温め、葉を入れる。青年はその一連の動作を、特に口を挟むこともなく眺めていた。
やがて、薄い琥珀色の茶が、二つのカップへ注がれる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
青年はカップを受け取り、湯気が落ち着くのを待ってから口をつけた。
香りを確かめるように目を細めて、ひと口、もうひと口と味わっていく。
ミエルは自分のカップを持ちながら、その反応を待った。
「どう?」
「おいしい」
「よかった」
「淹れ方、うまいね」
思いがけず率直な言葉が返ってきたので、ミエルは少しだけ目を丸くした。
「そりゃどうも」
「うん」
青年は短く相槌を打つと、また茶を飲んだ。褒めたつもりなのか、単なる感想なのか、表情からはよくわからない。
それでも、気に入ってもらえたことは確かなようで、ミエルは嬉しくなった。
「そういえば、名前聞いてなかったな」
カップを作業台へ置き、ミエルは改めて青年へ顔を向けた。
「俺はミエル。ここの店主」
「……スオウ」
「スオウくんか。よろしく」
「よろしく」
短い返事だったが、声には初めて会ったときほどの硬さはない。ミエルはそのことを少々意外に思いながら、茶葉の入った瓶を棚へ戻した。
「東方の名前、だよね。こっちへは来たばっかり?」
「うん。まだそんなに経ってない」
「そっか。どう、こっちは」
「静かでいい」
「静か?」
思わず聞き返すと、スオウは窓の外へ目を向けた。
通りでは荷車が行き交い、向かいの店からは客を呼ぶ声が聞こえている。決して騒がしくはないが、静かと呼ぶには少し賑やかな場所だった。
「人が多いわりに、……放っておいてくれるから」
スオウはそう言って、残っていた茶を飲み干した。
ミエルは、すぐには返事をしなかった。その言葉が妙に耳に残ったからだ。
この街は、確かにそういうところがある。
東方から来た商人も、南の港町で生まれた職人も、遠くの山間部から仕事を求めて移り住んだ者も、みな同じ通りを歩いている。
出身を尋ねることはあっても、それを理由に特別扱いする者は少なく、誰がどこから来たのかなど、商売の上では大した問題にならない。ミエル自身も、そういう街だからこそ、ここで店を開くことができた。
「そうだね。俺も、そういうところは好きだよ」
答えると、スオウは少し目を細めた。その表情が笑顔だったのかどうかまでは、今のミエルにはわからなかった。
◆
「おい、ミエル」
奥の倉庫からフランツが戻ってきたのは、ちょうどそのときだった。
持ってきた木箱を片づけ終えたらしく、袖を下ろしながらカウンターのほうへ歩いてくる。
「空き箱、まとめといたぞ。次来たとき持って帰るから、勝手に捨てるなよ」
「はいはい。ありがと」
「あとあの棚の下、板が浮いてる。客が引っかけたら危ねえから、早く直せ」
「ああ、そこね。あとで直そうと思ってたんだ」
「思ってるだけじゃ直らないだろが」
「わかってるって」
言い返しながら、ミエルは茶器を片づけ始めた。
フランツはその横を通りかかり、そこで初めてスオウの存在に気づいたようだった。
「お、客が来てたのか」
「そうだよ、お客さん。スオウくん」
「ふうん」
フランツは遠慮なくスオウを眺めた。
スオウもまた、特に気にした様子はなく、軽く頭を下げる。
「こんにちは」
「おう、ゆっくりしてけ」
それだけで会話が終わってしまい、ミエルは二人を見比べ、少しおかしくなった。
「おっさん、スオウくんはこの前から来てくれてるお客さんなんだ。東方の茶葉に詳しくてさ」
「へえ」
フランツは鼻を鳴らし、スオウへ視線を戻した。
「東方から来たのか」
「はい」
「商売やってたのか?」
「少し、手伝っていました」
「ほう」
短いやり取りだったが、フランツは何かを確かめるようにスオウの顔を見た。
スオウは視線を逸らさず、ただ静かに立っている。
ミエルはその様子を眺めながら、二人が何を考えているのか少し気になったが、特に口を挟まなかった。
やがてフランツが先に視線を外した。
「まあ、茶がわかるなら悪くねえな」
「何その基準?」
フランツはそれだけ言って、店の奥へ戻っていった。
スオウはその背中を見送り、首を傾けた。
「知り合い?」
「うん。まあ、家族みたいなもんかな」
「そうなんだ」
「昔から世話になっててさ。ちょっと大雑把なんだけど、いい人だよ」
「見ればわかる」
「え?」
「野菜、持ってきてたでしょ」
ミエルは一瞬、言葉に詰まった。
それから、作業台の上に置かれた木箱へ目を向けた。
「ああ。そういうことか」
確かに、フランツの世話焼きはわかりやすい。それから、ああ見えて案外、人をよく見ている男だ。
スオウの雰囲気を感じ取り、詳しい事情は聞かなかったのだろう。
「うん。そういう人なんだ」




