第4話:浅い眠りと気になる客
「教えてくれてありがと。あとで場所を変えとくよ」
「ん」
青年はそれだけ返し、煙草の箱を上着のポケットへしまった。もう用事は済んだらしい。
入口へ向かう背中を見送りながら、ミエルは何となく声をかけた。
「また来てね」
青年は振り返らなかったが、灰色の耳がわずかにこちらへ向いた。
「気が向いたら」
ぽつりと呟くと、青年は店を出ていった。鈴が鳴り、扉が閉まる。
通りへ消えていく背中を窓越しに眺めながら、ミエルはしばらくその場に立っていた。
「……変わった子だなあ」
口に出してみると、何となくおかしくなった。無愛想で、面倒くさそうで、客商売をしている人間からすれば、少々扱いにくい部類に入るだろう。
けれど、わざわざ商品の置き場所を教えてくれるあたり、別に不親切なわけでもないらしかった。
何より、あれだけ面倒くさそうにしていながら、茶葉の品質についてはきちんと気づくのだから、なかなか面白い。
ミエルは棚から小袋をいくつか取り出し、青年が示した場所へ移してみた。
並べてみると、思っていたよりも見栄えが悪くない。中央の棚は客が店内を歩く際に自然と目に入る場所でもあり、商品を手に取りやすい高さになっている。
「ほんとだ。……こっちのほうがいいかもな」
独り言を漏らして、ミエルは笑った。名前も知らない客に、いきなり店の陳列を直されるとは思わなかった。
けれど不思議と腹は立たず、むしろ、次に来たときには何を言うのか、少し楽しみなくらいだった。
その日の夕方、最後の客を見送ったミエルは、店の扉に掛けていた札を裏返した。
通りには夕食の支度をする家々から煙が上がり、近くの食堂では、仕事帰りの客たちが集まり始めている。遠くから聞こえる話し声や食器の触れ合う音は、夜が近づくにつれて少しずつ賑やかになっていった。
ミエルは入口の鍵を掛け、売上を確かめてから、棚に残った商品を軽く整えた。
昼間に移動させた茶葉は、思いがけずいくつか売れていた。
もともと興味を持っていた客が買っていっただけかもしれないが、場所を変えた効果があった可能性もある。
「……あの子、何者なんだろ」
帳簿へ数字を書き込みながら、ミエルは昼間の青年を思い出した。
灰色の髪に、短い黒い角。気だるげな、萌木色の瞳。
あれだけ整った顔をしていれば、街を歩いているだけでもそれなりに目立つだろうに、本人は周囲からどう見られているかなど、まるで気にしていないようだった。
それに、身のこなしにも妙な品があった。
財布の扱い方、商品を見るときの距離、話を聞く姿勢。何気ない動作の端々に、きちんとした教育を受けてきた人間特有の落ち着きがあったように思える。
本人の態度は、それとは正反対だったが。
「まあ、いっか」
いくら考えたところで、彼が答えを教えてくれるわけでもない。ミエルは帳簿を閉じ、椅子から立ち上がった。
今日は仕入れの確認に少し手間取ったせいで、思ったよりも疲れていた。夕食を作る前に、少しだけ横になろうかと思い、店の奥にある階段へ向かう。
二階の住居は、決して広くはない。
小さな台所と居間、それに寝室がひとつ。窓辺には鉢植えがいくつか並び、古いソファの背には、洗濯したばかりの薄い上着が掛けられていた。
ミエルは靴を脱ぎ、上着を椅子へ放りながら、居間の窓を少し開けた。夕方の空気が流れ込み、昼間にこもっていた室内の熱を押し出していく。
外で誰かが笑う声を聞きながら、ミエルはソファへ腰を下ろした。
少し、休むだけのつもりだった。背もたれに身体を預け、目を閉じる。
仕事を終えたあとの心地よい疲労が手足に広がり、耳に届いていた街の音が少しずつ遠くなっていく。
眠れそうだ、と思った。そう思ったところまでは、覚えている。
次に意識が浮かび上がったとき、ミエルは自分が何を見ていたのか、すぐには理解できなかった。
喉の奥が、ひどく乾いている。
胸の内側では心臓が速く打ち、呼吸を整えようとしても、吸い込んだ空気がうまく肺の奥まで届かない。
身体を起こした拍子にソファの布地が擦れ、その小さな音にさえ、肩が反応した。
窓の外は、まだ薄明るかった。
見慣れた居間に、使い込んだ家具。自分で選んだ食器の並ぶ棚も、何も変わっていない。
ミエルは膝に手を置いたままで、ゆっくりと息を吐き出した。
「……またか」
声に出してみると、喉の乾きがいっそうはっきりした。
何を夢に見たのか、細かなところまでは思い出せない。ただ、誰かの背中を追いかけていたような気がした。
呼び止めても振り返らず、どれだけ足を動かしても距離が縮まらない。そんな感覚だけが、目を覚ましたあとも身体の奥に残っている。
ミエルは片手で顔を覆い、指先を額から頬へ滑らせた。
いつものことだ。昔から、何度も繰り返している。
眠りが浅い夜は多いが、何事もなく朝まで眠れる日だってある。
だから、特別に深刻なことだとは思わないようにしていたし、実際、今の生活に大きな不満があるわけでもなかった。
店は順調で、街の人たちとも仲良くやれている。
困ったことがあれば相談できる相手もいるし、少し足を延ばせば、いつでも飯を食わせてくれる農場主だっている。
それなのに、眠っている間だけは、どうしても昔の感覚が戻ってくる。
目を覚ましたとき、自分の居場所がなくなっているかもしれないという、あのどうしようもない恐怖が。
ミエルはゆっくりと立ち上がり、台所へ向かった。
水差しからコップへ水を注ぎ、半分ほど飲んでから、残りを流しへ捨てる。冷たい水が喉を通るにつれて、ようやく呼吸が落ち着いてきた。
窓の外では、街灯に明かりがともり始めていた。
夕食を作らなければ。明日の仕入れも確認しなければならないし、朝には常連客が茶葉を受け取りに来る予定もある。
やることは、いくらでもある。
ミエルは台所の棚を開け、残っていた野菜を取り出した。包丁を手に取ると、慣れた動作でまな板の上へ並べていく。
夕食には、簡単な煮込みでも作ろう。そう決めて鍋を火に掛けたところで、ふと昼間の青年の顔が浮かんだ。
灰色の髪と、萌木色の瞳。あの、ひどく美しいのに、何もかもが面倒そうな顔。
「……気が向いたら、か」
明日も来るだろうか。来たら、名前くらいは聞いてみてもいいかもしれない。
鍋の底で油が温まり始め、小さな音を立てる。ミエルは刻んだ野菜を流し込み、木べらでゆっくりとかき混ぜた。
窓の外には、いつもの街の灯りが広がっている。
明日も店を開けよう。そう思いながら、ミエルは夕食の支度を続けた。




