第3話:ある午後の出会い
昼を、少し過ぎた頃。
軒先に吊るした小さな看板が風に揺れ、乾いた木の音を立てるたび、ミエルは帳簿から顔を上げて通りの様子を確かめる。
昼食どきを過ぎた商店街は、いつもどおりのんびりしたものだ。向かいのパン屋から漂ってくる焼きたての匂いに、かえって自分の腹が刺激されるばかりだった。
店の奥にある小さな作業台には、午前中に届いた茶葉の包みがいくつか積まれている。
仕入れ先から送られてきた品は品質に問題がなかったものの、伝票の数量が一箇所だけ合わなかったので、ミエルは確認の手紙を書こうとしていたところだった。
「……ああ、もう。こっちが二つ多いのか」
指先で伝票を押さえながら、ミエルは棚に並べた小箱を、もう一度数え直した。
茶葉は湿気を嫌うため、雨の多い時期には扱いに少し気を遣う。特に、今回届いた東方産のものは香りが繊細で、保存状態によって味が変わりやすいと聞いていた。数の確認が済んだら、すぐに密閉容器へ移してしまいたい。
もっとも、店主が一人で切り盛りしているような小さな店では、客が来れば作業を中断するしかない。
それでも面倒だと思ったことは、あまりなかった。
ミエルは客と話すのが好きだったし、顔なじみが買い物のついでに世間話をしていくのも、この店を構えてよかったと思う理由のひとつだった。
ちょうど数を確かめ終えたところで、入口の鈴が鳴った。
「いらっしゃい」
顔を上げたミエルは、戸口に立っている客に目を留めた。背の高い青年だった。
黒っぽい上着の下に白いシャツを着て、ゆったりした長ズボンを合わせた、ごく普通の街着姿。
肩から斜めに掛けた鞄はまだ真新しく、使い込まれたものではないようだ。清潔で、身なりにはそれなりの余裕が感じられる。
ただ、目を引いたのは服装ではなかった。
柔らかそうな灰色の髪の間から、やや濃い色をした大きな耳が左右に伸び、その上には短い黒い角が二本、控えめに覗いていた。
ニホンカモシカの獣人だろうか。新都市ではさまざまな種族を見かけるが、ミエルの店に来る客としては珍しい。
そして何より、美しい顔立ちをしていた。
整った鼻筋に、涼しげな目元。萌木色の鮮やかな瞳をしているのに、そこに宿る表情はひどく気だるげだ。
眠いのか、退屈しているのか、あるいは単に何も考えていないのか、初対面では判別しにくい。
その青年は店内をひととおり見渡してから、ゆっくりと棚のほうへ歩いてきた。
「何か、探してる?」
「煙草」
返ってきたのは、短いひと言だった。
少し低めの、耳に心地よい乾いた声で、気だるげな話し方のわりに発音は明瞭だった。
だが、必要以上に喋るつもりがないのだろう。伝えたいことだけを伝えたら、それで十分だと思っているような響きがあった。
「煙草ならこっちだよ。いつも吸ってる銘柄は?」
「特に決めてない」
「じゃあ、軽めのやつがいい? それとも香りが強いほう?」
「どっちでも」
ミエルは一度青年の顔を見て、棚に並んだ煙草の箱へ視線を戻した。
こういう客は、ときどきいる。
本当に何でもいいと思っている場合もあれば、好みはあるのに、説明するのが億劫な場合もある。どちらにしても、店主としては少々困る返事だった。
「どっちでもいいって言われると、こっちが困るんだけどな」
「じゃあ、おすすめで」
「それなら最初から、そう言ってくれればいいのに」
青年は特に気にした様子もなく、棚の端に置かれた小さな缶へ目を向ける。ミエルは何種類かの箱を取り出して、作業台の上へ並べた。
「このあたりかな。こっちは癖が少なくて吸いやすい。隣のはちょっと香りが強いけど、後味がいいんだよ。値段は少し上がるけどね」
説明を聞いている間、青年は相槌らしい相槌を打たなかった。
それでも話を聞いていないわけではないらしく、ミエルが箱を指し示すたびに視線はきちんと動いていたし、最後には迷うことなく、真ん中のひとつを手に取った。
「これで」
「はいよ。ほかには?」
「ない」
青年が財布を取り出すのを待ちながら、ミエルは代金を確かめた。
革製の財布は質素だったが、縫製が妙に丁寧だった。青年が中から硬貨を選び出す手つきにも無駄がなく、長い指先が一枚ずつ正確な額を揃えていく。
受け取った代金を数えていると、ふいに青年が口を開いた。
「これ、いつからここに置いてるの」
「ん?」
顔を上げると、彼は入口に近い棚を見ていた。
そこには茶葉や菓子の小袋を並べてあり、通りから入ってきた客の目に、最初に入る場所でもある。
「そこの茶葉」
「ああ、昨日からかな。新しく入ったんだよ」
「ふうん」
青年はそれだけ言って、しばらく棚を眺めていた。
ミエルは釣り銭を渡しながら、何となくその視線の先を追った。
「気になる? 東方から仕入れたやつなんだけど」
「知ってる」
「へえ、詳しいんだ」
「少し」
青年は受け取った硬貨を財布にしまい、それからもう一度棚を見た。
「それ、あんまり日が当たらないところに置いたほうがいいよ」
あまりにも自然な口調だったので、ミエルは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「え?」
「香りが飛ぶから。特にその茶葉、光に弱い」
青年は商品の入った小袋を指先で示したが、触れることはせず、少し離れた位置から棚の奥を見た。
「売るなら、あっちの棚のほうがいいと思う」
視線の先には、店の中央に置かれた低い陳列棚があった。確かに、そこなら直射日光は当たりにくい。
ミエル自身も茶葉の保存には気を遣っていたが、入口近くの棚は客の目につきやすいため、新商品を置く場所として使っていたのだった。
「……なるほどね」
ミエルは棚へ歩み寄り、小袋をひとつ手に取った。
窓から差し込む午後の光が、薄い包装紙の表面を照らしている。日差しそのものは強くなかったが、今後もこの場所へ置き続けるなら、確かにあまりよくない。
「詳しいんだね。茶葉屋で働いてたとか?」
「別に」
「じゃあ、家でよく飲んでた?」
青年は答えなかった。ただ、質問が聞こえなかったわけではないらしく、ほんの少し眉が動いた。
ミエルはその反応を見て、追及するのをやめた。
この新都市には、いろいろな事情を抱えてやってくる者がいる。
生まれ育った土地を離れた者もいれば、仕事を探してきた者もいるし、単にここで暮らしてみたくなったという者もいる。
店を開いてから、それなりの数の客と接してきたミエルには、聞かれたくないことがある相手の顔くらいは、わかるようになっていた。




