第2話:きみが眠れるなら
店内へ意識を戻すと、通りの向こうで子どもたちが走り回る声が聞こえていた。
スオウは帳簿を閉じ、先ほどの老婦人が買っていった茶葉の在庫を確認してから、陳列棚の空いた場所へ新しい包みを補充した。
その間にも何人か客が訪れ、菓子や煙草を買っていった。
どの客もスオウの姿を見ると一度は驚いたような顔をし、それから決まって、ミエルのことを尋ねてきた。
どうやらこの店の客たちは、店主がよほど好きらしい。
スオウはそれぞれに同じ説明を繰り返し、必要な品を包んで渡した。
客が途切れたところで時計を見ると、ミエルが二階へ上がってから三時間近くが経っていた。予定より、ずいぶん長い。
スオウはしばらく時計を眺め、階段のほうへ視線を移した。
起こしに行くべきだろうか。ミエルは、わからないことがあれば起こしていいと言っていた。
だが、今のところ困ったことは何もない。
売上も問題なく記録できているし、商品の場所もわかる。釣り銭が不足することもなく、閉店まであと一時間ほどなら、このまま一人でも十分に回せるだろう。
それにあの男は、普段からよく働く。
朝から店を開け、客の相手をし、仕入れの確認をして、必要があれば自分で荷物を運び、合間には近所の人間の用事まで引き受けている。
それでいて、疲れた顔を見せることは滅多になかった。今日のように、昼間から眠いと言い出すのは珍しいことだ。
スオウは時計から目を離し、カウンターへ戻った。
「よく寝てるなら、いいか」
椅子へ腰を下ろし、次に届く予定の商品が書かれた紙を手に取る。
しばらくして、二階から床板の軋む音がした。
スオウが顔を上げると、階段の途中にミエルが立っていた。
いつもより髪が乱れ、片側の耳が少し寝ている。寝起きらしく目元はぼんやりしていたが、スオウの姿を見つけると、どこかほっとしたように口元を緩めた。
「……あれ。まだいたんだ」
「店番頼まれたから」
「いや、そうだけど。もう結構経ってるだろ」
「三時間くらい」
「さん、じかん?」
ミエルは驚いたように目を見開き、階段の手すりへ手を掛けた。
「うわ、そんなに寝てたのか。ごめんな、スオウくん。起こしてくれてよかったのに」
「別に。困ってないし」
「でも、ずっと一人で店見てたんだろ」
「そんな大変じゃなかった」
ミエルは階段を下りきると、カウンターの前で足を止めた。
スオウが開いていた帳簿を覗き込み、きちんと記入された数字を見て、また少し驚いたような顔をする。
「……すごいな。ちゃんと全部やってくれてる」
「頼まれたから」
「いや、そうなんだけどさ」
ミエルは笑いながら帳簿を手に取り、数行を目で追った。その横顔を見て、スオウはふと気づいた。
先ほどまで目元に残っていた疲れが、少し薄くなっている。
もちろん、完全に消えたわけではないが、それでも、階段を上る前よりは顔色がよかった。
「よく眠れた?」
何気なく尋ねると、ミエルの手がほんの一瞬だけ止まった。すぐにいつもの調子へ戻り、帳簿を閉じながら頷く。
「うん。久しぶりに、よく寝た気がする」
「そっか」
「……なんか、不思議だな」
「何が?」
ミエルは答えるまでに、少し間を置いた。カウンターの上に手をつき、開け放した窓の向こうへ目を向ける。
午後の陽射しは少しずつ傾き始め、通りを歩く人々の影を長く伸ばしていた。
「いや。誰かが店を見ててくれるって、思ったより安心するもんなんだなって」
スオウは萌木色の瞳を細めて、ミエルを見つめた。リカオンの大きな耳が、窓から入る風にわずかに揺れている。
その言葉が、単に店を任せられて助かったという意味なのか、それとも別の何かを含んでいるのか、スオウにはまだわからなかった。
ただ、ミエルが穏やかな顔をしていたので、余計なことは聞かなかった。
「また必要なら言って」
「え?」
「店番。暇なときなら、やるよ」
ミエルは目を丸くし、頬を持ち上げて笑った。犬歯がのぞく、愛らしい笑みだ。
「……そっか。ありがとな、スオウくん」
その笑顔を見て、スオウはなぜか、すぐには視線を戻せなかった。
珍しいものを見たわけではない。ミエルはよく笑う男だ。
客にも、近所の人間にも、初対面の相手にだって、ああして気軽に笑いかける。
それなのに、今の笑顔は少し違って見えた。スオウはその理由を考えかけ、途中でやめた。
どうせ、考えたところでわからないだろうから。
「……茶、もう一杯もらっていい?」
「もちろん。今淹れるよ」
ミエルは帳簿を置き、奥の作業台へ向かっていく。その背中を見送りながら、スオウは椅子へ深く腰を下ろした。
最初にこの店へ来たときには、まさか自分が店番をすることになるとは思っていなかった。
そもそも、あの日は煙草を買うつもりで、たまたま通りかかっただけだったのだ。
あのとき、店の扉を開けなければ。あるいは、別の店へ入っていたなら。
今頃、自分は何をしていただろう。
スオウは窓の外へ、眠たげな目を向けた。石畳の通りには、いつもと変わらない街の景色が広がっている。
あの日のことを思い出す。まだ、この店の名前も知らなかった頃。
蜂蜜色の髪をしたリカオンの男に、初めて声をかけられた日のことを。




