第7話:手が足りない日
月に一度の定期市が開かれる日は、朝から街の様子が少し違う。
広場へ向かう荷馬車が、まだ薄暗いうちから石畳を行き交う。店が戸を開ける頃には、焼きたてのパンや煎りたての豆の香りに混じって、遠くの露店から客を呼ぶ声が聞こえてくる。
市場そのものは、中央広場で開かれる。
だが、そこへ続く旧街道沿いの商店にも、人の流れが生まれるため、普段は近所の常連客が中心となるミエルの店も、この日ばかりは朝から少々、慌ただしくなるのだった。
ミエルは開店前に店先を掃き、昨日のうちに小分けにしておいた菓子や茶葉を棚へ並べると、カウンターの下から釣り銭の箱を取り出し、硬貨の枚数を確かめた。
定期市の日には、細かな買い物が増える。
旅の途中で立ち寄った者が飲み物を買い、広場で店を出す商人が、腹ごしらえのために保存食を求め、親に手を引かれた子どもが、色とりどりの砂糖菓子を欲しがる。
普段なら一人ずつゆっくり相手をするところだが、今日ばかりはそうもいかない。売れ筋の商品を手の届きやすい位置へ移し、包装紙もあらかじめ、まとめて切り揃えておいた。
これで、多少は楽になるだろう。
そう思って扉を開けた直後、通りかかった常連の女性に声をかけられ、ミエルは早くも、その見通しが甘かったことを知った。
「ミエルちゃん、今日は早いねえ」
「おはよう。今日は市の日だからね。何かいる?」
「孫が来るから、蜂蜜の飴をちょうだい。それと、いつものお茶も」
「はいよ。飴は小さい袋でいい?」
「大きいほう。どうせすぐ食べちゃうから」
「虫歯になっても知らないよ?」
軽口を交わしながら商品を包んでいるうちに、次の客が入ってきた。その客の会計を終える頃には、さらに二人。
ミエルは尻尾の先を軽く揺らしながら、カウンターと棚の間を行き来し、客の顔と手元の商品を交互に確かめては、必要なものを揃えていった。
忙しいのは嫌いではない。店を開いたばかりの頃は、誰も来ない時間のほうが長かった。
棚を拭き、商品を並べ直し、窓の外を眺めながら、いつかこの店にも客が増えるだろうかと考えていたことを思えば、こうして休む間もなく声をかけられるのはありがたい話だった。
もっとも、ありがたいことと、疲れないことは別である。昼を過ぎる頃には、朝から立ちっぱなしの足が、少し重くなっていた。
◆
入口の鈴が鳴ったのは、ミエルが三人分の会計をまとめているときだった。
「いらっしゃい。ちょっと待ってね」
顔を上げずに声をかけ、釣り銭を数えてからようやく入口へ視線を向けると、見覚えのある灰色の髪と、短い黒い角が目に入った。
「あ、スオウくん」
スオウは扉の脇に立ったまま、店内の様子を眺めていた。ゆったりとした黒い上着に薄い色のシャツ、足元には歩きやすそうな革靴を履いている。
白樺荘へ移ってから数日が経っていたが、こうして顔を合わせるのは、部屋を紹介した日以来だった。
「こんにちは」
「こんにちは。下宿、どう? ちゃんと落ち着いた?」
「うん。静かでいいところ」
「そっか、よかった。女将さん、面倒見いいだろ」
「朝、ちゃんと食べていけって言われた」
「あはは、言いそう」
ミエルは笑ったものの、すぐに別の客から声をかけられ、申し訳なさそうに片手を上げた。
「ごめん、今日はちょっと混んでて。何か探してる?」
「ん、今日も茶葉」
「前に言ってたやつだね。奥の棚に入ってるから、見てていいよ」
「わかった」
スオウは頷き、棚のほうへ歩いていった。
それからしばらく、ミエルは彼のことを気にかける余裕もなくなった。
定期市の帰りらしい客がまとめて入ってきたうえ、贈答用の茶葉を選びたいという女性が現れたからだった。
相手は年配の男性へ贈る品を探しているらしく、好みを尋ねても、苦いものはあまり得意ではないという程度しかわからない。
ミエルは産地の違う茶葉をいくつか取り出し、香りを確かめてもらいながら、普段どんなものを飲んでいるのか、食後に飲むことが多いのかと、少しずつ話を聞いていった。
高価な品を勧めるのは簡単だったが、贈られた相手が気に入らなければ意味がない。
結局、女性が選んだのは中ほどの価格帯にある、香りの柔らかな茶葉だった。
「これなら飲みやすいと思いますよ。気に入ってもらえるといいですね」
「ありがとう。ずいぶん迷っちゃったわね」
「いえいえ。大事な贈り物ですから」
包装を終えて品物を渡すと、女性は満足そうに笑い、何度も礼を言って帰っていった。
ミエルがようやく息をついたところで、店の奥から別の客の声が聞こえた。
「あら、助かったわ。ありがとうねえ」
振り向くと、高い棚の前に立っていた小柄な老婦人へ、スオウが瓶詰めの蜂蜜を渡しているところだった。
老婦人は何度も礼を言いながらカウンターへやってきたが、スオウはそれを追うでもなく、元いた茶葉の棚へ戻っていく。
どうやら、手が届かず困っていたところを助けてくれたらしい。
「スオウくん、ありがとね」
会計の合間に声をかけると、スオウは軽く首を振った。
「届かなそうだったから」
「それでも助かったよ」
「うん」
それだけ答え、また棚へ視線を戻す。あまりにも何でもないことのように振る舞うので、ミエルは少しおかしくなった。
愛想がいいわけではないし、自分から進んで誰かと話すようにも見えない。
けれど、必要だと思えば迷わず手を貸す。
どうやらスオウは、そういう青年らしかった。
◆
午後の二時を回った頃、予定していた仕入れの荷物が届いた。
本来なら夕方になるはずだったのだが、市場の混雑を避けるために配達の順番を変えたらしく、運送業者は申し訳なさそうな顔で、店先に荷馬車を止めた。
「すみません、ミエルさん。ちょっと早いんですが、今下ろしても大丈夫ですか」
「ああ、うん。大丈夫、……って言いたいところなんだけど」
ミエルは店内を振り返った。
カウンターには会計を待つ客が二人、奥の棚では別の客が商品を選んでいる。
荷物を運び込むには、一度手を止めなければならないが、運送業者にも次の配達があるだろうし、店先へ積み上げたままにしておくわけにもいかない。
「先に下ろしてもらっていい? すぐ片づけるから」
「助かります。今日はどこも忙しくて」
「市の日だからね。お互い大変だ」
笑って応じたものの、木箱の数を見て、ミエルは内心、少し困った。




