ようこそ! 新世界へ
我が主君リゼルの顔が蝋燭の揺らめく炎に照らし出される。グツグツと煮えたぎる鍋は、不穏な香気に満ちていた。率直に言おう。トイレの芳香剤である。
「……リゼル、本気か?」
「病める時も、その命ある限り真心を尽くすのでしょう?」
いや、断じて結婚した覚えはない。だが、彼女は菜箸でよく分からない塊をつついている。
「ボーア! ダイスを振って!」
魔導の誘惑をこらえ転がしたダイスが、木卓の上で乾いた音を立てた。出目は六だった。
「……いかん! これは」
双六のマス目に大書されていたのは――
「ふっふーん、ボーア? チョコレート追加ね……」
リゼルは、足元に用意したドロドロの液体をこれでもかと鍋に注ぎ込んだ。
血の気が引いた。こんな物を食べたら血糖値が振り切って、二度目の転生に至るのではないか。
「さて、私の番だけど? 覚悟はいいかしら?」
「煮るなり焼くなり好きにするがいいさ」
放たれた賽が優美な放物線を描くと、机の縁に当たって床へと転がっていった。
「あら? ごめんなさいね」
出目は一だった。どうにも腑に落ちなかった。
卓上でキングの駒が歩みを進めた。光る文字が浮かび上がる。
――煮詰めたミントの出汁で風味をつける
淡い黄緑色の液体が鍋へと放り込まれた。蒼穹を想わせる香りが鼻腔を突き抜けた。
この時、私に一つの決意が芽生えたのだ。
「……リゼル!」
そっと彼女の手を取ると、つぶらな目をまじまじと見つめた。
「な、何よ?」
「そんなに俺の血はしょっぱいか?」
「……バカ」
リゼルは頬を赤らめながら、顔を背けた。
「君が望むなら、甘党へと宗旨変えもしよう。だが……」
振り向いた彼女の顔が薔薇色に輝いていた。
「そのダイスをもっと明るい所で見せてくれないか?」
「嫌よ」
「イカサマをしたという理解でいいかい?」
我が主君は泣き崩れた。はらはらと銀の髪が揺れた。
転がり落ちたダイスを拾えば、一と六の目しかなかった。
「……だって! 貴方の血、豚骨出汁みたいでえぐ味がキツいんだもん」
「それは、リゼル……」
「研究が煮詰まっているのは知っているわ。でも旨味を取りすぎよ!」
彼女が私に抱きついてきた。小さく震えていた。
「飴一個からでいいかい? 甘い物は、結構苦手なのだよ」
「……へぇ? 相変わらず、立場が分かってないのね」
彼女の目は虚空をさまよい、焦点を結んでいなかった。虚ろな声が微かに聞こえた。
「最初から一流を知りなさい。芸術なのよ、甘味生活は」
その鍋は俗悪な魔物である。笑いを取りに行くナニカだ。
「死にたくねぇ、御代官様! 堪忍してくれ! この通りだ!」
リゼルが邪悪な微笑みを浮かべると、私は金縛りにかかっていた。
どす黒い粘液を絡め取った銀の匙が口元に運ばれた。
「はい、あーん!」
ではないだろう。血涙滴る想いで、それを飲み下した時のことである。
思考が非常に冴えわたり、確かな幸福感に包まれていくのが分かった。
今、私にできないことは何もない。至高の存在へと生まれ変わったに違いなかった。
「……凄い」
「ようこそ! 新世界へ」
銀髪の少女は実に愛くるしい笑みを浮かべていた。




