血のバレンタイン事変
「くっさ! 口くっさ! 生きてて恥ずかしくないの?」
吸血鬼リゼルは、こめかみに青筋を立てて息苦しそうだ。後ろで束ねた銀の髪が、生き物のように揺れている。
「ニンニクは、私の大好物だ。代えが利かない」
執務机で手を組み、祈るように囁いた。彼女の顔から血の気が引いていくのがありありと分かった。
「……貴方が何を言っているのか分からないの」
「胃袋から肺を巡り、硫黄の香りが再誕なさるのだ」
「ぶっ飛ばされたいの?」
突き出された小物は、実にフローラルな香りを放っていた。歯ブラシである。
香木を柄にしたそれは、毛先にエーテルを染み込ませていた。彼女の執念がうかがえる。
「麺の道を往くのは、この薫りを連れて試練の頂きを登るということだ」
「……もう一度言ってくれる? お姉さん、聞こえなかったんだ」
さらさらと髪をかきあげて、流し目でこちらをすっと見やる。この世界が止まった気がした。
「すいません。歯磨きはさぼらないので、ニンニクのことを大目に見てやってください」
「もうすぐアンタのお披露目なんだからね? 夜会忘れてないよね?」
真実を告げるのは忍びなかった。私は意味ありげに咳払いをしてみる。
「……全く。バレバレなのよ。嘘が下手なのは自覚して」
顔から火が出そうだった。レシピをめくる手が震えた。
「食後に絶対磨くのよ? ハッカを使えば少しはマシになるから」
そう言って彼女は研究室を後にする。真紅のドレスに身を包んだ彼女は、本当は服の講評をしてもらいたかったのではないだろうか。
◇
「……ギリギリ。ううん、やっぱりアウトかも」
幌馬車の中で、リゼルは頭を抱えながら花占いを繰り返していた。
「でも、絶対に連れていくって決めてるんだよね」
なんて晴れやかな笑顔なんだろう。止めて欲しい。まるっきりフラグみたいじゃないか。
「無理することはないんじゃないか? 毎年開かれるのだろう?」
「きっと来年も同じことを言うと思うわ」
彼女はカードを切っていた。死神のカードが手札から覗いたのを目の端で捉えてしまった。
「……まだ口臭が取れないのか」
「天敵だからね。ニンニクは。ごまかすのはまず無理よ」
「――なら」
「麺の道を行くのでしょ? 面倒くさいのよ。貴方は」
リゼルは、太陽のカードを私に見せた。これは――
「分かる? ちょっと魔導を使っただけ」
彼女はバツの悪そうな笑みを浮かべて舌を出した。
「待てよ。じゃあ魔導を使えば!」
「言ったでしょ? 面倒って。魂レベルでニンニク臭いのよ」
私の血を口にするのは辛くはないのか。いたたまれない想いがした。
車窓を流れる夜の闇は深い。彼女の瞳に満月の明かりが浮かんでいた。
◇
舞踏会の大広間は、仮面を付けた礼装の男女で溢れかえっていた。花柄の民族衣装から純白のドレスまで実に様々な服装が見受けられた。誰も彼もが吸血鬼だというのだから驚きである。
「けほけほ、香水の臭いがキツすぎないか?」
血の匂いを消すのだとリゼルから聞いた。彼らとしても建前は大事なことらしかった。身分の高い人間と繋がりがあるのだろう。
「し! おしゃべりは、控えて」
リゼルが口に人差し指を当てると、背の高い金髪の男が近寄ってきた。
「こんばんは。リゼル嬢、そちらの方が例の?」
碧い目をした男は、手巾で鼻をつまんでいた。私に冷ややかな視線を寄越す。
「ごめんなさい、ヴァレリウス。大目に見て欲しいのよ……」
「ふむ、まぁ。君が言うなら。ただ喧嘩を売ってるとしか思えないが」
弁解の余地がない。吸血鬼の群れの中に、ニンニク臭い半端者が飛び込むのだから。
私が感傷的な気持ちに浸っていると、ヴァレリウスがソプラノめいた声を張り上げた。
「本日お集まりいただいた紳士淑女の皆様! お初にお目にかかるデザートがございます!」
割れんばかりの拍手と歓声が、大理石の室内に反響した。リゼルのお菓子に違いなかった。
ひな壇の給仕が銀のクロッシュを恭しく上げると、そこには真っ赤な心臓を模したゼリーがあった。
「……すごい! 結構な大きさじゃないか」
私が感嘆の声を漏らすと、給仕は料理蓋を宙に放り投げ、デザートナイフで素早く切り分けた。
彼の仲間たちが手際良く皿に盛り付け、招待客へ丁重に配って回った。
「グレイト! この上品な血の酸味が堪らないよ!」
隣のテーブルにいた筋骨隆々の中年男性がゼリーをスプーンですくっていた。すまない。それ私の血なんだ。
「人間でもないし、ましてや我々でもないね。うーん、かなりスパイシーでもある……」
止めろ。その分析は私に効く! 私が頭を抱えたとき、リゼルがその男性に歩み寄った。
「ムッシュ、こんばんは。それを作ったのは私です」
「おお、こんな可愛いお嬢さんが?」
リゼルはスカートの裾を軽くつまんで会釈した。
「はい。眷属の血を使っています。実に不思議な味でしょう?」
彼女の顔に挑戦的な笑みが浮かんでいた。今までに見たことのない表情だった。
「……なるほどね。首の皮一枚で共食いを回避したつもりかい?」
男性の声が昏く沈んだ。二人の間に険悪な空気が流れた。その時――
「いかん、セーフティが外れてしまった……」
特大の密やかな放屁を祝祭の空間に解き放ってしまったのである。
阿鼻叫喚の地獄絵図となったのは言うまでもない。
後の世に言う、血のバレンタイン事変である。
史上最悪と名高い我が社交界デビューであった。




