↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
8/10

第8話 婚約を戻して差し上げてもよろしくてよ

第8話 婚約を戻して差し上げてもよろしくてよ


白い離宮から救済金の流用を示す帳簿が押収されてから、王宮の仕事はさらに滞った。隣国は返書の遅れだけでなく、救済金を私的に使った王太子への不信を表明し、予定されていた通商会談を延期した。収穫祭へ招く客の名簿も完成せず、すでに亡くなった侯爵へ招待状が届き、その未亡人から黒い縁取りの返書が送られてきた。


王太子執務室では、机の上だけでなく床にも書類が積み上がっていた。窓辺の白い薔薇はすっかり枯れ、花瓶の水から湿った布のような匂いがしている。ジェラルドはそれを片づけるよう命じたが、侍従たちは会計院の調査を受けており、以前の半分しか出仕していなかった。


「なぜ、誰も私の命令を聞かない。王太子である私を、会計院の下役より後回しにするのか」


「殿下の御命令により行った支出について、証言を求められております。侍従長も財務官も、会計院へ出頭中です」


「では、残った者が働けばよい。セシリアがいなくとも、王宮には何百人もいるだろう」


「セシリア様は、その何百人へ仕事を割り振り、期限を確認しておられました。現在、その役目をなさる方がおりません」


ジェラルドは返事の代わりに、机の上の鐘を鳴らした。しかし呼び出された若い侍従は、収穫祭の席順を決める権限を持っていない。苛立ってもう一度鐘を鳴らすと、今度は持ち手が外れ、銀色の鐘が書類の山を転がって床へ落ちた。


そのころミレーヌは、王太子妃の居室から自分の荷物を運び出していた。監査によって真珠の首飾りも外国製の鏡も押収され、室内には空になった衣装棚と、蜂蜜の染みが残った絨毯しかない。彼女はジェラルドが訪ねても扉を開けず、「体調が悪いので休みます」と侍女に答えさせた。


「私はこれほど困っているのだぞ。君まで私を見捨てるのか」


「ミレーヌ様は昨夜から熱を出しておられます。医師から面会を控えるよう申しつけられました」


「扉越しに聞いているのだろう。せめて収穫祭の招待者名簿だけでも確認しろ」


扉の向こうから返事はなかった。代わりに衣装箱の蓋が閉まる音と、硬貨を数える小さな音が聞こえた。ジェラルドはようやく、自分の仕事を代わりにする者が王宮に一人も残っていないと知った。


翌日の午後、アルヴェイン侯爵邸の庭では、庭師が金木犀の枝を剪定していた。切り落とされた小枝から甘い香りが立ち、軒下には洗濯係が干した白い布巾が風に揺れている。居間ではセシリアとリディアが、冬を前に慈善院へ送る毛糸の靴下を数えていた。


セシリアは小豆色の長衣を着て、髪を一本の三つ編みにしていた。王宮へ通っていたころは一時間かけて髪を結い上げていたが、今は朝食のあとに自分でまとめている。慣れないため編み目の一部だけが太くなっており、リディアはそこへ指を入れたくなるのを我慢していた。


「大人用が四十二足、子供用が五十八足。ちょうど百足です」


「右と左を別に数えていないでしょうね。以前、お兄様が片方ずつ数えて、二百足あると報告したことがあったわ」


「今回は私が数えました。お兄様は領地へ行く朝、自分の靴下を左右違う色で履いていましたから、数える係から外しました」


二人が笑ったところで、玄関の呼び鈴が激しく鳴った。執事が応対する声に続き、聞き覚えのある男の声が廊下へ響く。先触れもなく訪れたジェラルドは、止めようとする使用人を従え、居間の扉を開けた。


彼は王太子の正装ではなく、紺色の上着と黒い外套を着ていた。目の下には薄い隈があり、襟元の釦を一つ掛け違えている。以前のセシリアなら、挨拶より先にそれを直していただろうが、今日は毛糸の靴下を膝へ置いたまま動かなかった。


「殿下、御約束のない訪問はお断りしております。お帰りください」


リディアは椅子から立ち、姉とジェラルドの間へ入った。手には子供用の黄色い靴下を片方持っているため、威厳のある姿には見えない。それでもジェラルドは、夜会で突きつけられた金貨三万二千枚の請求を思い出したのか、足を止めた。


「私はリディアに用があるのではない。セシリアと二人で話をしたい」


「姉はございません。王太子妃の仕事も、もうございません。お帰りの際に、持ち帰り忘れないよう御注意ください」


「リディア、座っていて。私が答えるわ」


セシリアは妹の肩へ手を置いた。手袋をしていない指先は温かく、以前のように震えていない。リディアは何か言いかけたが、黄色い靴下を握ったまま元の椅子へ戻った。


ジェラルドは二人の向かいへ勝手に座り、卓上の茶へ手を伸ばした。自分のための茶が用意されていないと気づくと、セシリアの茶器を取ろうとする。セシリアはそれより早く、自分のカップを手元へ引き寄せた。


「単刀直入に言おう。過去のことは水に流してやる。私との婚約を戻し、再び王太子妃にしてやろう」


「過去のこととは、何を指していらっしゃいますか」


「婚約破棄や、会計院での騒ぎだ。君も少し感情的になっていたが、私にも言葉が足りない部分はあった。互いに忘れれば、それで済む」


ジェラルドは謝罪を口にせず、外套の埃を指で払った。横領の疑いをかけられ、騎士に拘束されかけたことまで、セシリアの感情の問題として片づけるつもりらしい。リディアは声を挟まず、黄色い靴下と対になる片方を籠の中から探し始めた。


「ミレーヌ様は、どうなさるのですか」


「彼女には白い離宮で暮らさせる。君が正妃となり、ミレーヌを側妃にすればよい。公務は今までどおり君が行い、公式の行事では三人で協力しよう」


「白い離宮は、会計院によって封鎖されています。それにミレーヌ様は、公務をなさらないのですか」


「彼女は身体が弱く、難しい仕事には向いていない。君は七年も続けてきたのだから、慣れているだろう」


セシリアは卓上の茶を一口飲んだ。庭から金木犀の香りが入り、温かな茶からは林檎と肉桂の匂いが立っている。以前はジェラルドが肉桂を嫌うため、王宮では一度も飲めなかった茶だった。


「条件がございます。それをお受けくださるなら、婚約を戻して差し上げてもよろしくてよ」


「ようやく分かったか。多少の条件なら聞いてやろう」


「では、こちらをお読みください」


セシリアは椅子の横に置いていた鞄から、三枚の契約書を取り出した。一枚はジェラルドの前へ置き、残りの二枚は手元へ伏せておく。リディアは黄色い靴下の片方を見つけ、二つをそろえて膝へ並べた。


「第一条、ジェラルド殿下は横領した金貨を全額返済すること。第二条、王位継承権を放棄し、王族としての特権を返上すること。第三条、私の補佐として七年間、報酬を受け取らず勤務することです」


「何だと?」


「病気の日も、休日も、私が必要と判断すれば出仕していただきます。私の代理で作成した書類は、すべて私の功績として報告いたします。失敗した場合には、殿下お一人の責任として謝罪してください」


ジェラルドは契約書を持つ手を震わせた。読み進めるほど顔が赤くなり、最後の条項まで届く前に紙を卓へ叩きつける。セシリアは茶器へ落ちた小さな飛沫を布で拭き、彼が言葉を発するのを待った。


「王太子である私を侮辱するのか!」


「いいえ。あなたが私に求めたことを、男女だけ入れ替えてお願いしています」


「私とお前が同じであるはずがない。私は生まれながらの王太子だぞ!」


「それなら、御自分のお仕事は御自分でなさってください。私は生まれながらの王太子妃ではございませんし、あなたの使用人でもありません」


ジェラルドは契約書をつかみ、中央から引き裂いた。さらに二度、三度と破り、細かな紙片を床へ投げ捨てる。庭師が枝を切る鋏の音が止まり、廊下にいた使用人たちも息を潜めた。


セシリアは、床へ落ちた紙を見下ろした。以前なら、自分が書いた物を踏まれないよう、すぐに膝をついて拾っていただろう。だが今日は椅子から動かず、林檎の茶をもう一口飲んだ。


「これで契約はなくなった。くだらない条件も無効だ」


「御安心ください。あなたが書類を破ることも、すでに想定しております」


セシリアは手元へ伏せていた二枚を表へ返した。一枚は保存用の控えで、もう一枚にはジェラルドが契約書を破棄した場合、復縁の意思がないものと見なすと記されている。リディアは満足そうに肉桂入りの茶を飲み、見つけた二足の靴下を籠へ戻した。


「お姉様、王太子殿下は条文を最後までお読みになりませんでした」


「ええ。書類を最後まで読まない癖も、七年間でよく存じているわ」


「二人で私を罠にかけたのか!」


「いいえ。契約書を破るよう命じた者はおりません。御自分で選ばれたことまで、私たちの責任になさらないでください」


ジェラルドは椅子を蹴るように立ち上がり、床の紙片を踏んで居間を出ていった。玄関の扉が乱暴に閉まり、庭の枝にとまっていた小鳥が一斉に飛び立つ。馬車が走り去る音が聞こえても、セシリアは窓を見ようとしなかった。


執事が箒を持って入ってきたが、セシリアは自分で拾う必要はないとだけ告げた。破られた契約書は、王太子が復縁条件を拒否した証拠として、そのままの状態で袋へ納められることになった。リディアは床に残った最後の紙片を火ばさみでつまみ、袋へ落とした。


「お姉様、よろしかったのですか」


「ええ。あの方が謝れば戻りたいのではなく、あの方なら謝らないと確かめたかっただけなのかもしれないわ」


「では、確認は終わりましたね」


「終わったわ。今度こそ、本当に」


セシリアは膝の上に置いていた手を伸ばし、籠から赤い毛糸の靴下を取った。黄色い靴下より少し小さく、踵の部分だけ編み目が曲がっている。寄付した者が初めて編んだ品かもしれないと話しながら、姉妹は左右の組を探す作業へ戻った。


窓の外では、庭師が再び金木犀の枝を切り始めた。白い布巾は風に揺れ、日差しを受けて少しずつ乾いている。セシリアはもう、王太子の馬車が戻ってくる音を待たなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。