第6話 見舞金では、口を閉じられません
第6話 見舞金では、口を閉じられません
王家への監査が始まった翌朝、アルヴェイン侯爵邸へ黒塗りの馬車が到着した。庭では朝露に濡れた金木犀が咲き、開いた窓から甘い香りが食堂まで流れ込んでいる。朝食の皿には茸入りの卵焼きと林檎が残っていたが、王家の紋章をつけた使者が現れると、オズワルドは口へ運びかけたパンを置いた。
使者は青い礼服を着た痩せた男で、両手に細長い木箱を抱えていた。箱が重いらしく、額には汗が浮かび、食堂へ入るなり右腕を二度さすっている。後ろに控えた従者は書類を載せた銀盆を持ち、卵焼きの匂いを嗅いで小さく腹を鳴らした。
「国王陛下より、セシリア・アルヴェイン侯爵令嬢へ御見舞いの品をお持ちいたしました。婚約破棄によって心を痛めた令嬢を、陛下は案じておられます」
「陛下からのお心遣い、ありがたく頂戴いたします。娘に代わり、父親である私から御礼を――」
「お待ちください、お父様。中身と受領書を確認するのが先です」
オズワルドが箱へ伸ばした手を、リディアの声が止めた。リディアは白いブラウスに焦げ茶色のスカートを合わせ、片手には蜂蜜を塗ったパンを持っている。急いで食堂へ来たため、口元にパン屑が一つついていた。
セシリアが布巾で妹の口元を拭く間に、使者は木箱を卓へ置いた。蓋を開けると、金貨が十枚ずつ並べられ、朝の日差しを受けて輝いた。全部で百枚あり、箱の底には王家からの書状が入っていた。
「金貨百枚でございます。国王陛下は、セシリア様に静かな環境で療養していただきたいとお考えです。こちらの受領書へ侯爵閣下の御署名をいただければ、すぐにお渡しできます」
「見舞金の受領に、父の署名が必要なのですか。受取人は成人しているお姉様ですが」
「王家から侯爵家へ贈られる金でございます。家長の御署名をいただくのが適切かと存じます」
リディアは銀盆から受領書を取り、窓辺へ移動した。大きく書かれた文章には、婚約破棄に伴う見舞金として金貨百枚を受領するとある。しかし紙の下部には、目を近づけなければ読めないほど小さな文字が二行加えられていた。
「お父様、署名なさらないでください。これは受領書ではありません」
「何が書かれている」
「見舞金の受領をもって、セシリア・アルヴェインおよびアルヴェイン侯爵家は、王家に対する一切の請求権を放棄する。今後、婚約期間中の出来事について、口頭、書面を問わず公表してはならない、とございます」
食堂から食器の触れ合う音が消えた。従者は銀盆を持ったまま視線を床へ落とし、使者は額の汗を布で拭う。冷め始めた卵焼きから茸の香りが薄れ、窓辺では一匹の蜂が金木犀の周りを飛んでいた。
「そのような条件は、私は聞いておりません。私は陛下より、御見舞いを届けるよう命じられただけです」
「では、この小さな文字は、馬車の中で勝手に生えてきたのでしょうか。ずいぶん便利な紙でございますね」
「リディア、使者殿を責めるな。陛下にも事情がおありなのだろう」
オズワルドは受領書を受け取り、しばらく小さな文字を見つめた。王家に逆らえば領地への補助金が止まり、税の負担を増やされるかもしれない。彼はそう考え、卓上に置かれた羽根ペンへ手を伸ばした。
「お父様、本当に金貨百枚で署名なさるのですか」
「王家と争って得るものはない。領民を守るためにも、ここで矛を収めるべきだ」
「それでは、その領民が王家のために失った金額を確認いたしましょう。お兄様、領地の帳簿をすべて持ってきてください」
エドガーは椅子から立ち上がり、食堂を出ていった。しばらくして戻った彼の腕には、三冊の厚い帳簿と、書類をまとめた麻紐の束があった。慌てて運んだため一番上の帳簿が逆さになり、挟まっていた乾燥麦の穂が床へ落ちた。
リディアは金貨を箱から取り出し、十枚ずつ食卓へ並べた。セシリアも手伝い、金貨の列は冷めた朝食の皿を囲むように伸びていく。最後の一枚を置くと、リディアは領地の帳簿を開いた。
「三年前、北部の橋を修繕するために積み立てた金貨二千五百枚が、王太子妃支援金として王宮へ送られています。こちらの決裁には、お父様の署名がございます」
「王太子妃となるセシリアのために必要な費用だと説明された。橋は翌年の税収で直せばよいと思ったのだ」
「しかし翌年には、冬季備蓄用の金貨三千枚を送っています。さらに昨年、治水工事費から金貨五千五百枚が王宮へ移されました。合計は一万一千枚です」
オズワルドは、娘が指し示した自分の署名を見た。何度も見慣れた癖のある文字だったが、今は誰か別の人間が書いたもののように指でなぞっている。エドガーは別の帳簿を開き、昨年の領内報告書を取り出した。
「昨年の洪水で、北部の橋は半分流されたままです。村人は荷車を降り、板を渡って川を越えています。治水工事も途中で止まったため、下流の畑が二度水につかりました」
「冬季備蓄は、どうなった」
「不足した小麦を商人から高値で買いました。その代金を払うため、今年の農具購入を減らしています」
エドガーの声が次第に低くなり、最後の報告書を閉じた。表紙には泥のついた指で触れた跡が残り、紙の隅が茶色く汚れている。春に領地を訪れた農夫が、壊れた水門を説明しながらこの書類を差し出した姿を、彼は今になって思い出していた。
「私は、領民を守るために王家へ従ったつもりだった」
「お父様が差し出したのは、御自分のお金ではありません。橋を渡る人の安全と、農家の畑と、子供たちが冬に食べる小麦です」
「王太子妃となる私のためだと言われたら、お父様は断れなかったのでしょう。私も、王家のためなら必要なことだと思っていました」
セシリアは卓上の金貨を一枚取り、指の間で裏返した。金貨一枚で、慈善院の子供二人に厚い毛布を買うことができる。百枚すべてを使っても、王家へ渡った一万一千枚の百十分の一にしかならなかった。
「このお金を受け取れば、橋も治水工事も、私の七年間も、すべて終わったことにされるのですね」
「セシリア、私はお前を守ろうとして――」
「お父様は、私が何も言わず王宮へ戻ることを、守ることだとお考えでした。けれど、それでは王太子殿下だけでなく、私たちも同じことを繰り返します」
セシリアは金貨を箱へ戻し始めた。金貨同士が触れ、澄んだ音が食堂へ続けて響く。リディアとエドガーも手伝い、百枚すべてを元どおり十枚ずつ並べた。
蓋を閉じる前に、セシリアは一枚だけ向きが違うことに気づいた。王の横顔がほかの金貨と反対を向いており、彼女は指で回してそろえる。以前なら、そのような小さな乱れが気になって話を後回しにしていたが、今日は箱を閉じて使者へ押し返した。
「国王陛下へお返しください。私の七年間だけでなく、領民の冬まで百枚で買えるとお考えですか、とお伝え願います」
「本当に、そのままお伝えしてよろしいのですか」
「一言も変えずにお願いいたします。受領書の小さな文字まで読んだ者の言葉だと、付け加えてください」
使者は木箱を抱え直し、深く頭を下げた。帰り際、空腹そうな従者の腹がもう一度鳴ったため、セシリアは厨房へ頼み、焼きたてのパンを二つ包ませた。王家の金は受け取らなくても、朝から働く者の食事まで拒む理由はなかった。
二人が退出すると、オズワルドは椅子から立ち上がった。ほどけかけた髪を直すこともなく、娘二人の前で膝をつく。エドガーも父の隣に並び、拳を床へついた。
「セシリア、リディア。私は王家への忠誠を言い訳にして、お前たちと領民を差し出した。許してくれとは言えない。私が署名した送金記録は、すべて会計院へ提出する」
「私も、次期領主でありながら帳簿を父上任せにしていました。今日中に領地へ連絡し、王家から圧力を受けた者と、証言できる者を調べます。今度は私が、彼らを守ります」
リディアは二人をすぐには立たせなかった。言葉だけで終わる謝罪なら、王太子も何度も口にしてきたからである。彼女は蜂蜜の乾いたパンを一口かじり、帳簿の余白へ今後の仕事を書き込んだ。
「お父様は送金記録の提出、お兄様は証人の保護と領民への説明をお願いいたします。謝罪は、その仕事を終えてからもう一度伺います」
「分かった。必ず行う」
「私も約束する。ところでリディア、そのパンはもう固いだろう。新しいものをもらったらどうだ」
「先ほど、お姉様に口元を拭いていただいたばかりです。途中で捨てれば、また叱られます」
セシリアは久しぶりに声を出して笑い、冷めた卵焼きの皿を厨房へ下げるよう頼んだ。代わりに温かな茸のスープと、新しいパンが運ばれてくる。金木犀の香りが残る食堂で、四人は王家へ提出する書類を分けながら、遅くなった朝食を最初から食べ直した。




