第5話 監査官は、姉妹の味方ではありません
第5話 監査官は、姉妹の味方ではありません
王国会計院は、王宮から馬車で十五分ほど離れた灰色の石造りの建物だった。正面玄関には剣を持つ騎士ではなく、大きな算盤を抱えた女神像が立っている。その足元では秋海棠が薄紅色の花を咲かせていたが、朝から降る霧雨に打たれ、何本かは地面へ倒れていた。
リディアは濃紺の外套を着て、両手で大きな鞄を抱えていた。馬車から降りた途端、鞄の重みで身体が前へ傾き、御者が慌てて腕を支える。七年分の帳簿と領収書を入れた鞄は、夜会用の衣装箱よりも重かった。
「お嬢様、やはり私がお持ちします。これを抱えて階段を上ったら、途中で後ろへ転がりますよ」
「中には原本が入っています。手放すわけにはまいりません」
「では、せめて階段の下から見張っております。転がっていらしたら、受け止めますので」
御者は両腕を広げ、真剣な顔で階段の下へ立った。リディアは一段ずつ上りながら、もし転がった場合は自分より先に帳簿を受け止めるよう頼む。御者は少し考え、「それは旦那様に叱られます」と首を振った。
建物の中には、紙とインクと濡れた外套の匂いが混ざっていた。廊下を行き交う職員たちは皆、書類の束を抱え、挨拶をしながらも足を止めない。待合室の長椅子には納税の相談に来た商人や地方役人が並び、一番端の老人は弁当箱を開け、塩漬け肉を挟んだ黒パンを早くも食べていた。
リディアは受付へ王家に対する監査請求書を差し出した。受付係の女性は宛名を読み、驚いて羽根ペンを止める。侯爵家の令嬢が王家を監査してほしいと申し出るなど、会計院でも前例がなかった。
「内容を確認するまで、こちらでお待ちください。すぐにとはまいりませんので、昼を過ぎるかもしれません」
「承知しております。パンと干し杏を持ってきました」
「用意がよろしいのですね。飲み物は廊下の奥で購入できますが、薬草茶はあまりおすすめしません」
受付係が声を潜めた直後、奥の机で茶を飲んでいた職員が顔をしかめた。薬草を入れすぎたらしく、部屋には苦い青葉の匂いが漂っている。リディアは屋敷から持参した水筒を軽く振り、中に紅茶が残っていることを確かめた。
一時間ほど待つと、背の高い青年が迎えに来た。黒い髪を短く整え、会計院の灰色の制服を襟元まで留めている。右袖には薄いインクの染みがあり、眼鏡の奥の目は、リディアより先に彼女の抱えた鞄を見た。
「監査官のアーネスト・グレイです。王家に対する監査請求をなさった、リディア・アルヴェイン嬢ですね」
「はい。こちらが請求の根拠となる記録です」
「まだ提出しないでください。先に、いくつか確認いたします」
案内された部屋は狭く、机と椅子が二脚あるだけだった。書棚には背表紙の色がそろっていない帳簿が詰まり、窓辺の鉢では細いミントが斜めに伸びている。机の上には飲みかけの茶と、包みを開けたままの胡麻入りパンが置かれていた。
アーネストはパンを書類のない棚へ移し、リディアへ椅子を勧めた。リディアが鞄を膝へ載せると、椅子が小さく軋む。彼は請求書へ目を通したあと、眼鏡を押し上げた。
「あなたは、王家が公金を横領したと訴えています。根拠は、姉君が王太子殿下との婚約を破棄されたことですか」
「いいえ。婚約破棄は調査を始めるきっかけにすぎません。根拠は、王家から侯爵家へ支払いを約束された金額と、実際に支払われた金額が一致しないことです」
「姉君を陥れたミレーヌ嬢への報復が目的ではありませんか」
「ミレーヌ様の虚偽については、すでに別の調査が行われています。会計院へお願いしたいのは、金の流れの確認です」
アーネストはリディアの顔を見ず、質問への回答を一つずつ紙へ書いた。羽根ペンの先が紙を擦り、窓を打つ雨音に重なる。リディアは膝の鞄から手を離さず、次の質問を待った。
「姉君を救いたいという気持ちと、王家に不正があるかどうかは別問題です。私はアルヴェイン侯爵家の令嬢だからと、あなたを特別扱いするつもりはありません」
「それで結構です。私も、姉が王太子殿下の元婚約者だからという理由で、王家を罪に問うよう求めるつもりはございません」
「提出された記録に不備があれば、監査は行いません。虚偽があれば、あなた自身が処罰の対象になります」
「承知しております。ですから、原本を持ってまいりました」
リディアはようやく鞄を机へ置き、留め金を外した。中から七冊の帳簿、領収書を綴じた五冊の薄い冊子、王宮への搬入記録、セシリアの出仕表を取り出す。最後に、屋敷の使用人と出入りの商人から受け取った証言書を並べると、机の上にあったアーネストの茶が見えなくなった。
「これが、すべてですか」
「いいえ。入りきらなかった分は馬車にございます。必要でしたら御者に運ばせます」
「まず、こちらを確認します。あなたは廊下でお待ちください」
リディアは鞄から干し杏の包みだけを取り出し、部屋を出た。待合室へ戻ると、黒パンを食べていた老人が、今度は皮をむいた林檎を小さな兎の形に切っている。孫への土産だと言いながら一つ分けてくれたので、リディアは干し杏を二つ渡した。
一時間が過ぎても、アーネストは呼びに来なかった。リディアが部屋を覗くと、彼は一冊目の帳簿を開き、領収書の日付と金額を照合している。机の端へ追いやられた茶はすっかり冷め、表面に薄い膜が張っていた。
二時間後、彼は二冊目を開いていた。王宮への搬入記録と家具職人の領収書を並べ、品目、価格、受領者の名前を紙へ書き写している。胡麻入りパンには手をつけておらず、乾いた端が反り返っていた。
三時間後、リディアは受付係から小さな皿を借り、持ってきた干し杏をアーネストの机へ置いた。彼は礼だけ言ったものの、顔を上げようとしない。リディアも話しかけず、窓辺の鉢へ水をやると、斜めだったミントを細い棒へ結びつけた。
帳簿には、支出の日付と金額だけではなく、購入先、注文した担当者、受領印、王宮側の決裁番号まで記載されていた。王太子執務室へ運ばれた胡桃材の机には、搬入口を通過した時刻と、受け取った侍従の署名がある。慈善院への補填金には、支払いを受けた院長と会計係、双方の印が押されていた。
日が傾いたころ、アーネストはようやく眼鏡を外した。鼻の付け根を指で押さえ、冷めた茶を一口飲むと、味に驚いたように眉を寄せる。それでも吐き出さずに飲み込み、向かいへ座るようリディアへ告げた。
「この帳簿を作成した者に会いたいのですが、侯爵家の会計係は同行していますか」
「作成したのは私です。会計係には、一月ごとに計算だけ確認してもらいました」
「この七年分を、十五歳のあなたが?」
アーネストは初めて、帳簿ではなくリディアの顔を見た。疑うための目ではなく、記録を書いた人物と数字を結びつけようとする目だった。リディアは表紙が擦れた一冊目の帳簿へ手を置いた。
「最初は、帰りの遅い姉を迎える時間を忘れないために書き始めました。何時に王宮を出たのか、夕食を食べたのか、薬を飲んだのか。姉が帰ってこない夜は、眠れませんでしたから」
「七年前なら、あなたは八歳です」
「最初の帳面は、数字が曲がっています。六と九を何度も書き間違えましたので、姉に直してもらいました」
リディアが開いた最初の頁には、幼い字で日付と帰宅時刻が書かれていた。横にはセシリアの字で、「九ではなく六です。よくできました」と添えられている。その下には苺の絵があり、赤い色鉛筆が頁の裏まで染みていた。
アーネストは頁の端に触れたが、めくらずに手を戻した。乾いた胡麻入りパンを半分に割り、ようやく一口食べる。固くなっていたらしく、何度も噛んでから冷めた茶で流し込んだ。
「私は、あなた方姉妹の味方にはなりません。記録に誤りがあれば、その点も報告します。セシリア嬢に不正が見つかれば、同じように調査します」
「はい。それでなければ、監査をお願いする意味がありません」
「ただし、この記録が正しく、王家が意図的に支出を隠しているのなら、私は王家の敵になる覚悟があります」
アーネストは監査請求書の下へ、自分の名前を書いた。続いて正式受理を示す赤い印を押すと、乾かすための砂を文字の上へ振りかける。印の端がわずかに欠けていることに気づき、紙を見つめたまま小さく舌打ちした。
「印の欠けは、監査の効力に影響いたしますか」
「いたしません。しかし、見た目がよくない。あとで備品係に交換を申請します」
「申請書の控えは、必ず残してくださいませ」
アーネストは一瞬黙り、それから口元をわずかに動かした。笑ったのかどうか確かめる前に、彼は呼び鈴を鳴らし、二人の補助監査官を部屋へ呼ぶ。廊下の時計が午後五時を告げるなか、王家の過去七年分の決裁記録、予算書、支出証明書を押収するための命令書が作られ始めた。
帰りの馬車へ乗るころには、雨がやんでいた。濡れた石畳に夕日が映り、女神像の足元では、倒れていた秋海棠を受付係が細い棒へ結びつけている。リディアは空になった鞄を膝へ置き、窓から会計院を振り返った。
その日、王家への正式監査が始まった。




