第4話 姉が消えた王宮は、三日で止まりました
第4話 姉が消えた王宮は、三日で止まりました
セシリアが王宮へ行かなくなってから、三日が過ぎた。王太子執務室の机には未決裁の書類が山積みになり、窓際に置かれた白い薔薇は水を替える者もなく、花びらの縁を茶色くしている。以前はセシリアが朝一番に窓を開け、花瓶の水を替えてから、その日の予定を机の左端へ並べていた。
ジェラルドは昼近くになって執務室へ現れた。金糸の刺繍が入った上着は美しかったが、襟元には朝食の卵の黄身が小さくついている。侍従が拭こうとすると手を払い、机の上から一番薄い書類を選んで椅子へ座った。
「なぜ、これほど書類がたまっている。文官たちは何をしているのだ」
「殿下の御署名をお待ちしております。こちらは隣国への返書で、本日の正午が期限でございました」
「それならセシリアに書かせろ。あれは外国語が得意だろう」
侍従は口を閉じ、壁の時計を見た。針は正午を十分ほど過ぎており、使者はすでに空の文書箱を持って出発している。机の下では、ジェラルドが昨日脱いだ室内履きが片方だけ横倒しになり、その中へ丸めた紙が押し込まれていた。
「セシリア様は、もう王太子妃候補ではございません。殿下御自身が婚約を破棄なさいました」
「だから何だ。途中まで担当していた仕事には、最後まで責任を持つべきだろう」
「返書の原案は、先月セシリア様が提出なさっています。殿下が表現が堅苦しいとおっしゃり、書き直しを命じられたままです」
ジェラルドは机の上を探したが、原案を見つけられなかった。昨夜、菓子を食べながら書類を選り分け、不要だと思った紙を暖炉へ入れてしまったことは覚えている。焼け残った紙の端が灰の中から見えていたが、彼はそれを侍従に拾わせようとはしなかった。
同じころ、王宮の厨房でも騒ぎが起きていた。南方の公国から来た大使夫妻を迎える晩餐会に、豚肉の香草焼きが用意されていたからだ。大使夫妻の信仰では豚肉を口にすることが禁じられており、料理長は焼き上がった肉を前に頭を抱えていた。
「献立表には豚肉と書いてあったぞ。俺はそのとおりに作っただけだ」
「それは通常の晩餐会用です。大使夫妻を迎える際には、魚料理へ変更するという注意書きが別にあったはずです」
「そんな紙は見ていない。いつもならセシリア様が三日前に赤い紐をつけて届けてくださったんだ」
料理人たちは食料庫を探し、干した鱈と豆を見つけた。急いで煮込みを作ったものの、時間が足りず、豆は芯が残って固かった。大使は何も言わずに食べたが、その妻は一口で匙を置き、帰りの馬車では王宮から贈られた菓子箱を座席の隅へ押しやった。
さらに翌朝、王都の慈善院から使者が来た。秋風が強くなる前に冬用の毛布を買う予定だったが、王宮からの補助金が届いていないという。使者の女性は使い古した灰色の外套を着ており、ほつれた袖口を握りながら執務室の前で待ち続けた。
「子供たちが四十七人おります。去年の毛布は穴が開き、二人で一枚を使っている状態です。どうか送金の日を教えてください」
「財務部へ行け。私は忙しい」
「財務部では、殿下の決裁がないため支払えないと言われました。セシリア様がいらしたころは、八月中に手続きを終えてくださいました」
ジェラルドは羽根ペンを乱暴に置いた。どこへ行ってもセシリアの名前が出ることに腹を立て、慈善院の使者を廊下へ下がらせる。署名するだけでよい書類だったが、補助金の金額が適切か判断できず、結局書類を山の一番下へ押し込んだ。
王太子妃の居室では、ミレーヌが新しいドレスの採寸をしていた。薄桃色の部屋着の上から金色の布を胸元へ当て、鏡の前で何度も角度を変えている。卓には蜂蜜をたっぷりかけた焼き菓子が置かれ、香油と甘い菓子の匂いが部屋にこもっていた。
そこへ、三人の文官が書類を抱えて入ってきた。先頭の老文官は隣国への謝罪文、慈善院の予算書、来月の収穫祭の招待者名簿を順番に机へ置く。書類の重みで、ミレーヌが飾っていた孔雀の羽根が床へ落ちた。
「何ですの、これは」
「王太子妃候補に御確認いただきたい書類です。以前はセシリア様が担当しておられましたので、今後はミレーヌ様にお願いしたいと、殿下から命じられました」
「私に、こんな求だらけの紙を読めとおっしゃるの?」
ミレーヌは書類の角を指先で押し戻した。爪には小さな真珠が貼りつけられており、一枚めくるだけでも飾りが紙に引っかかる。老文官は表情を変えず、最初の頁を開いた。
「こちらは隣国の言葉で書かれております。返書の期限を過ぎたため、まず謝罪文が必要です。次に慈善院の送金額を御確認いただき、最後に収穫祭へ招く三百二十名の席順を――」
「無て分かりませんし、計算も嫌いですわ。王太子妃は、舞踏会で殿下の隣に立ち、皆に笑顔を見せるのがお仕事でしょう?」
「それも仕事の一部ではございます。しかし、すべてではございません」
ミレーヌは唇を震わせ、目に涙をためた。困ったときに泣けば、父も教師もジェラルドも要求を取り下げてきた。ところが老文官は布を差し出すこともなく、壁際に立ったまま返事を待っている。
「ひどいわ。セシリア様がしていた仕事を私に押しつけて、失敗させようとしているのね。きっと、あの方に頼まれたのでしょう」
「セシリア様からは何の御連絡もいただいておりません。こちらは王太子妃が担うべき通常の公務です」
「もう出ていって! 殿下に言いつけますから!」
老文官たちが書類を残して退出したあと、ミレーヌは菓子の皿を床へ払い落とした。蜂蜜に濡れた焼き菓子が絨毯へ貼りつき、飼っている白い小犬が駆け寄って鼻先を汚す。侍女が慌てて抱き上げると、ミレーヌは「その絨毯も捨てて」と命じた。
その日の午後、ジェラルドはミレーヌの部屋を訪れた。床には拭き取れなかった蜂蜜の染みが残り、窓辺では小犬が孔雀の羽根を噛んでいる。ジェラルドは山積みの書類を見るなり、眉間へ皺を寄せた。
「なぜ、まだ何も終わっていない。私は今日中に片づけるよう命じたはずだ」
「私には無理ですわ。難しい言葉ばかりですし、慈善院へ渡すお金なんて減らしてもよいでしょう? その分で、王太子妃の部屋の壁紙を新しくしたいの」
「王太子妃になるつもりなら、少しは努力しろ。セシリアは、これくらい午前中に終わらせていたぞ」
ミレーヌの指が止まり、塗り直したばかりの唇が歪んだ。ジェラルドが自分とセシリアを比べたのは、これが初めてだった。彼女は近くにあった収穫祭の名簿をつかみ、彼の胸へ投げつけた。
「では、セシリア様にお願いすればよろしいでしょう! 私より、あの方のほうが大切なのですね!」
「そういう話ではない。君が何もできないから言っているのだ」
「殿下は、私には笑っていてくれればいいとおっしゃったではありませんか!」
ジェラルドは言い返せず、床へ落ちた名簿を拾った。笑っているだけのミレーヌを好ましく思ったのは、セシリアがその裏ですべてを整えていたからだとは考えなかった。ただ目の前の仕事が片づかないことに苛立ち、彼女の部屋を出ると、侍従へ命令書を書くよう告げた。
夕方、アルヴェイン侯爵邸へ王家の使者が到着した。セシリアは生成り色の服に着替え、居間の窓辺で古い手袋を繕っていた。リディアは向かいの椅子で帳面を広げ、干し杏を一つずつ食べながら、三つ目を取るべきか迷っている。
王家の印章が押された命令書には、王宮の混乱を収めるため、セシリアへ直ちに出仕するよう記されていた。婚約を破棄された者にも、担当していた仕事を最後まで果たす責任があるという。従わなければ、侯爵家の忠誠を疑わざるを得ないとも書かれていた。
セシリアは命令書を持ったまま立ち上がった。以前なら、使者を待たせてはいけないと二階へ駆け上がり、髪を整える間もなく馬車へ乗っていただろう。廊下には、使用人が洗って干したばかりの布巾が籠に積まれ、石鹸と秋の日差しの匂いがした。
「お姉様、王宮へ行かれるのですか」
「行かなければ、大使夫妻や慈善院の子供たちが困るわ。私が始めた仕事ですもの」
「お姉様が戻れば、殿下はまた何もなさらなくなります。困っている人を助けることと、殿下の失敗を隠すことは同じではありません」
セシリアは命令書を見つめた。指先が紙の端を折りかけたが、そこで妹の帳面が目に入る。深夜帰宅百八十三回、欠食二百十六回という数字が、革の表紙の向こうに残っていた。
セシリアは命令書を元の封筒へ戻した。王家の印章が見えるよう、使者の持つ盆へ静かに置く。声を出す前に一度だけ息を吸い、背筋を伸ばした。
「王太子殿下へお伝えください。私はもう、あなたの間違いを隠す係ではありません、と」
「そのままお伝えしてよろしいのでしょうか」
「一言も変えずにお願いいたします。返書が必要でしたら、王太子殿下御自身がお書きください」
使者が退出すると、セシリアは椅子へ戻った。膝の上の手袋には、まだ二本の指に穴が開いている。彼女は新しい糸を針へ通し、今度は手元を確かめながら、一針ずつ縫い始めた。
リディアは残っていた三つ目の干し杏を姉の口元へ差し出した。セシリアは断らずに食べ、酸っぱさに目を細める。王宮では書類の山が増え続けていたが、侯爵邸の居間には、針が布を通る小さな音だけが続いていた。




