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第2話 姉の七年間は、無償ではありません

第2話 姉の七年間は、無償ではありません


侯爵邸へ戻ったころには、夜会へ向かうときに降っていた細かな雨が上がっていた。玄関前の花壇では、濡れた紫苑が夜風に揺れ、馬車の車輪が砂利を踏む音に驚いた蛙が一匹、植え込みの奥へ飛び込んだ。セシリアはそれを見る余裕もなく、青銀色のドレスの裾を両手で持ち上げて馬車を降りた。


玄関広間には、父オズワルドと兄エドガーが待っていた。オズワルドは夜着の上に濃紺の上着を羽織り、片方の靴紐を結び忘れている。いつもなら執事へ注意する身なりだったが、今夜は自分の乱れにも気づかず、扉が閉まる前からセシリアを睨んだ。


「お前は、何ということをしてくれたのだ。王太子殿下へ反論したうえ、リディアにあのような請求をさせるとは」


「お父様、請求したのは私です。お姉様は止める暇もございませんでした」


「お前は黙っていなさい。十五歳の娘が口を挟んでよい話ではない」


リディアは返事をせず、姉が馬車から持ち帰った鞄を抱え直した。苺のタルトを食べ損ねたせいで、腹の奥が小さく鳴っている。玄関の長椅子には、出発前に脱ぎ捨てた兄の毛糸の靴下が片方だけ残っており、エドガーは父に気づかれないよう足で絨毯の下へ押し込んだ。


一行が食堂へ移ると、長い卓には夜食が用意されていた。鶏肉と豆を煮込んだ料理から香草の匂いが漂い、籠には丸いパンが積まれている。料理人は夜会から帰った者は何も食べないと思ったのか、四人分のスープを一つの大鍋にまとめて置き、横には温め直すための小さな火鉢も用意していた。


セシリアは椅子に座らず、父の前で頭を下げた。銀色の髪から抜けた飾りピンが一本、床へ落ちたが、拾おうともしない。オズワルドは卓の端へ両手をつき、低い声で告げた。


「明日の朝一番に王宮へ行きなさい。ミレーヌ嬢へ謝罪し、王太子殿下には婚約破棄を撤回していただくのだ。王家に逆らえば、侯爵家ばかりか領民まで不利益を受ける」


「ですが、お父様。私は何もしておりません」


「正しいかどうかを言っているのではない。家を守るために必要なことをしろと言っている」


セシリアの肩が下がり、手袋をした両手が腹の前で重なった。母を亡くした十歳の冬から、父に叱られると必ずする癖だった。リディアは姉が小さかったころ、叱られたあとで厨房へ忍び込み、砂糖をかけた林檎を二人で分けたことを思い出した。


「お父様のおっしゃるとおりです。私がもう少し耐えれば済むことでした。明日、殿下に――」


「済みません」


リディアは姉の言葉を遮り、抱えていた鞄を食卓へ置いた。革の鞄は重い音を立てて倒れ、留め金が外れた。中から書類の束と一緒に、乾いたパンの欠片が転がり出た。


「食卓へ汚れた鞄を置くな。食事をする場所だぞ」


「ちょうどよろしいではありませんか。これはお姉様のお食事です」


リディアがパンをつまむと、指先から細かな粉が落ちた。端には一口だけかじった跡があり、乾燥して石のように固くなっている。セシリアが取り返そうと手を伸ばしたが、リディアはそれより先に、鞄の中身を一つずつ卓へ並べた。


最初に出てきたのは、指先が薄くなった白い手袋だった。次は革の剥げた室内履きで、右足の靴底が半分外れている。その横には眠気覚ましの薬が入った小瓶、胃薬を包んだ紙、糸の切れた髪飾りが並んだ。


「これは、どうしたのだ」


「王宮で使っていた物です。靴は今日、階段を下りている途中で底が剥がれました。手袋はまだ使えますので、明日、縫おうと思っていました」


「なぜ新しい物を買わなかった」


セシリアは答えず、剥がれた靴底を指で押した。リディアは鞄の内側まで探したが、宝石も手紙も見つからない。七年間婚約していた王太子から姉へ贈られた物は、一つも入っていなかった。


「お姉様は御自分の靴より、王太子殿下の執務室の絨毯を先に買いました。御自分の食事より、外国使節の晩餐を優先しました。こちらのパンは、一昨日の昼に半分だけ召し上がったものです」


「リディア、どうしてそのようなことまで知っているの」


「毎晩、帰宅したお姉様に尋ねたからです。今日は何を食べましたか、何時に王宮を出ましたか、お薬は何錠飲みましたか、と。お姉様は私が心配しないよう、笑いながら教えてくださいました」


リディアは自分の鞄から革表紙の帳面を取り出した。夜会でジェラルドに見せた物とは別の帳面で、表紙には七年前、セシリアが刺繍した小さな苺が縫いつけられている。苺の赤い糸は色あせ、緑色だった葉は何度も触られて灰色に近くなっていた。


リディアが最初の頁を開くと、十二歳だったセシリアが王太子妃教育を始めた日の予定が書かれていた。礼儀作法、歴史、外国語、舞踏。ところが年を追うごとに、王太子の予定管理、手紙の代筆、慈善院の視察、会議資料の作成が加わっていた。


「七年間で、深夜に帰宅した日が百八十三回。昼食か夕食を抜いた日が二百十六日。熱があっても王宮へ出仕した日は十四日です」


「そこまで多いはずがないわ。私はちゃんと休んでいたもの」


「去年の十二月三日を覚えていらっしゃいますか。お姉様は王宮の廊下で倒れ、医務室へ運ばれました。翌朝には殿下が大使の夫人を怒らせたため、謝罪文を代筆しています」


セシリアは反論しようとして口を開いたが、声が出なかった。代わりに、剥がれた靴底を何度も指で押した。火鉢の炭が小さくはぜ、食べられないままの豆料理に脂の膜が張り始めていた。


エドガーが帳面を受け取り、一頁ずつめくった。王宮への到着時刻と帰宅時刻だけでなく、天気、食事、薬の量まで記されている。ある頁には、「姉上、帰宅後に階段で眠る。部屋まで兄上が運ぶ」とあり、エドガーの指が止まった。


「覚えている。雪が積もった夜だった。翌朝、セシリアは日の出前に王宮へ戻った」


「隣国の使節団を迎える日だったからよ。私がいなければ、殿下がお困りになると思って」


「王太子には侍従も文官もいる。どうしてお前一人が、そこまでしなければならなかったのだ」


エドガーの問いに、セシリアは靴底から手を離した。答えを探すように父を見るが、オズワルドは帳面へ目を落としたまま動かない。窓の外から、庭師が夜露を避けるため鉢植えを軒下へ移す音が聞こえた。


「お姉様がいなければ、王太子殿下が困るからです。それこそが答えでしょう。これは王太子妃教育ではありません。お姉様一人に、王太子の仕事までさせていただけです」


リディアは帳面を取り戻すと、台所へ続く呼び鈴を鳴らした。待っていた料理人がすぐに顔を出し、冷えた鍋を見て眉を下げる。リディアは姉の分だけ、豆料理ではなく別の物を作ってほしいと頼んだ。


やがて、小さな器に入った玉葱のスープが運ばれてきた。よく炒めた玉葱の甘い匂いが広がり、上には薄く削ったチーズが浮いている。料理人はパンの代わりに柔らかな芋を添え、「今日は畑で大きなものが採れました」と誰にともなく自慢してから厨房へ戻った。


リディアは姉の手から古い手袋を外し、温めた布巾で冷たい指を包んだ。セシリアの爪の脇には、書類をまとめたときについた黒いインクが残っている。リディアはスプーンを姉へ渡し、その手が器へ届くまで見守った。


「このスープは、王太子殿下のためでも、外国使節のためでもありません。お姉様が食べるためのものです」


「私だけ食べるなんて、皆に悪いわ」


「鍋には四人分ございます。私も空腹ですし、お兄様は先ほどからパンを三つも御自分の皿へ移しています」


エドガーが慌ててパンを一つ籠へ戻した。オズワルドもようやく椅子へ座り、火鉢へ手を伸ばす。炭を一つ足すだけのことに手間取り、火箸を二度も落とした。


セシリアはスープを一口飲んだ。熱かったのか肩を揺らし、口元を手で押さえる。それでも器を遠ざけず、湯気の向こうからリディアを見た。


「我慢した一日を、なかったことにはさせません。お姉様が王宮へ渡した時間も、お金も、書いた言葉も、すべて取り戻します」


「取り戻したあと、私は何をすればいいのかしら。十六歳から、王太子妃になることしか考えてこなかったのよ」


「それは明日から考えましょう。今夜はスープを飲んで、湯浴みをして、新しい寝間着に着替えてください。古い寝間着は袖口がほつれていますから」


セシリアは自分の袖口を見て、それから小さく笑った。笑った拍子にスプーンから芋が一欠片落ち、スープへ沈んだ。いつもなら礼儀が悪いと気にする姉が、そのまま芋をすくい直して口へ運んだ。


オズワルドは、王宮へ謝罪に行けとはもう言わなかった。食堂の時計が深夜を告げ、窓辺に飾られた紫苑の影が壁に揺れる。セシリアは両手で温かな器を包み、父ではなくリディアを見て、七年間口にしなかった言葉をゆっくりと声にした。


「私、王宮へ戻りたくないわ」


リディアは姉の器へ、もう一杯スープを注いだ。誰も叱らず、誰も王太子の都合を口にしなかった。セシリアは二杯目のスープを、今度は冷めてしまう前に飲み始めた。


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