第1話 姉を捨てた王太子へ、請求書を差し上げます
第1話 姉を捨てた王太子へ、請求書を差し上げます
初秋の夜、王宮の大広間には白いダリアと深紅の薔薇が飾られ、磨き上げられた床へ金色の燭台が映っていた。楽団が軽やかな舞曲を奏でるなか、給仕たちは焼いた鴨肉や茸のパイを載せた銀盆を運んでいる。壁際の卓には小さな苺のタルトが並んでいたが、そのうち一つだけ、苺が隣の菓子より大きかった。
アルヴェイン侯爵家の次女リディアは、その一つを狙っていた。十五歳になって初めて仕立ててもらった薄紫色のドレスは、脇のあたりが少しきつく、腕を伸ばすたびに布が引っ張られる。それでも諦めずに菓子用の取り皿を差し出したところで、広間の中央から大きな声が響いた。
「セシリア・アルヴェイン。皆に聞いてもらいたい。ただ今をもって、私は君との婚約を破棄する!」
楽団の演奏が途中で止まり、弓が弦を擦る嫌な音を残した。驚いた給仕が銀盆を傾け、茸のパイが一つ床へ転がったが、誰も拾おうとしない。リディアは苺のタルトを皿へ載せてから振り返り、声を上げたジェラルド王太子を見た。
ジェラルドは金糸で獅子を刺繍した白い礼装をまとい、その腕に桃色のドレスを着たミレーヌ・バセット男爵令嬢を抱いていた。ミレーヌの髪からは甘い薔薇の香油が匂い、伏せた目には涙が浮かんでいる。二人の正面には、青銀色のドレスを着たリディアの姉セシリアが一人で立っていた。
「婚約破棄でございますか。理由を伺ってもよろしいでしょうか」
セシリアの声は落ち着いていたが、白い手袋をはめた指がドレスの裾を強くつまんでいた。今朝まで王太子のために隣国への親書を書き直し、昼食には固いパンを半分しか食べていない。リディアはそれを知っていたから、まだ口をつけていないタルトを皿ごと近くの卓へ置いた。
「理由を私に言わせるつもりか。君は嫉妬からミレーヌを階段より突き落とし、彼女のドレスを破いた。挙げ句の果てには、毒を入れた菓子まで送りつけたそうではないか!」
ジェラルドが腕へ力を込めると、ミレーヌは彼の胸に頬を寄せた。周囲の貴族たちは扇の陰で囁き合い、若い令嬢の一人が興奮して葡萄酒を袖へこぼしている。その赤い染みを見ながら、リディアは昨年も同じ令嬢が夜会で飲み過ぎ、植木鉢に向かって求婚していたことを思い出した。
「殿下、私はそのようなことをしておりません。いつ、どこで起きたのかをお調べください」
セシリアはジェラルドをまっすぐに見たが、彼は面倒そうに片手を振った。七年間、姉が間違いを指摘するたび、彼は同じように話を打ち切ってきた。リディアは鞄の留め金へ指をかけながら、今日もそれが繰り返されるのだと確かめた。
「言い訳をするな。ミレーヌが嘘をつくはずがない。自分の非を認められない君には、王妃に必要な優しさが欠けている」
「調査をお願いすることが、言い訳になるのでしょうか。ミレーヌ様のお話だけで、私が罪を犯したとお決めになるのですか」
「まだ私に逆らうのか。今すぐミレーヌに跪き、謝罪しろ。そうすれば、これまで王家に尽くしたことに免じて、国外追放だけは避けてやってもよい」
セシリアの指から力が抜け、つまんでいたドレスの裾に深い皺が残った。十六歳で婚約してから、彼女は毎朝まだ暗いうちに起き、王宮へ通ってきた。冬の朝には馬車の扉が凍り、湯をかけてもらう間に、台所で焼き損ねた平たいパンを御者と分けて食べたこともある。
それでもセシリアは、いつかジェラルドと共に国を支えるのだと信じていた。王太子が会議で眠れば議事録をまとめ、外国語の綴りを間違えれば人知れず直した。謝罪を求められた彼女の膝がわずかに曲がった瞬間、リディアは鞄を持って人垣の間から進み出た。
「お姉様、跪く必要はございません。婚約破棄を申し渡した方には、もう命令する権利がありませんもの」
人々の視線が集まったが、リディアは足を止めなかった。途中で床へ落ちていた茸のパイを踏みそうになり、少し横へ避ける。新しい靴を油で汚せば、屋敷の靴磨き係である老人が、また眼鏡を鼻の先へずらして小言を言うからだった。
「リディア、子供が口を挟むな。これは私とセシリアの問題だ」
「いいえ。アルヴェイン侯爵家が立て替えた費用に関する問題でもございます。殿下が婚約破棄を宣言なさいましたので、これまで曖昧にされていた債務を精算していただきます」
リディアは返事を待たず、鞄から革表紙の帳面を取り出した。角は擦れ、表紙には紅茶をこぼした丸い染みが残っている。三年前、計算中のリディアをセシリアが笑わせたせいでついた染みであり、拭いても消えなかった。
「まず、金貨三万二千枚をお支払いください。期限は婚約破棄の成立から三十日以内といたします」
「三万二千枚だと?」
ジェラルドは聞き間違いを疑うように眉を寄せ、それから声を上げて笑った。何人かの貴族もつられて笑ったが、王国の年間予算を知る老官吏たちは口を閉ざしている。リディアは笑い声が収まるのを待ちながら、帳面に挟まっていた乾燥ラベンダーを指で端へよけた。
「外交使節団の接待費として、当家が立て替えた金貨八千枚。王家からの送金が滞った慈善院への補填金が六千枚。王太子妃の執務室へ当家から持ち込んだ家具、絨毯、食器、公式衣装が四千枚です」
「待て。あれはセシリアが勝手に用意した物だ」
「王宮からの依頼状が残っております。家具については、殿下が大理石の机では肘が冷えるとおっしゃったため、姉が胡桃材の机を用意いたしました。昨年、その机の角へ葡萄酒をこぼして染みを作られたのも殿下です」
広間の奥で、小さく笑う声がした。ジェラルドの耳が赤くなり、ミレーヌは彼の腕から少し離れる。セシリアだけはリディアを見つめたまま、まだ状況を理解できないように唇を開いていた。
「残りの金貨一万四千枚は、七年間の深夜勤務、休日勤務、外交文書の作成、会議への代理出席、慈善院の管理に対する未払い報酬です。なお、お姉様が殿下の代わりに作成した謝罪文は四十一通ございました。最も多かった年は一年で九通です」
「婚約者が私を助けるのは当然だろう。セシリアも将来の王妃になるためにしていたことだ。愛する男の役に立てたのだから、むしろ感謝しているはずではないか」
ジェラルドは自信を取り戻し、勝ち誇ったように顎を上げた。ミレーヌも安心したのか、目元の涙を指先で拭いながらセシリアを見る。リディアは姉が七年間で一度も使わなかった休暇申請書を帳面から抜き出し、皺にならないよう両手で広げた。
「姉の仕事が愛情だとおっしゃるなら、なぜ殿下の功績として国王陛下へ報告されているのでしょう。姉が作った外交文書で褒賞を受け、姉が立て直した慈善院を御自分の成果として発表なさいました。愛情は無償で受け取りながら、手柄だけは御自分のものになさるのですね」
ジェラルドの口が開いたまま止まった。楽団員は演奏を再開するべきか迷い、指揮者の老人は額の汗を白いハンカチで拭いている。大広間には冷め始めた鴨肉の脂と、踏まれた茸のパイの匂いが漂っていた。
リディアは帳面へ休暇申請書を戻し、革の表紙を静かに閉じた。乾いた音が響くと、セシリアの曲がっていた膝がゆっくり伸びる。姉が自分の足で立ったことを確認してから、リディアはジェラルドへ微笑んだ。
「なお、金貨三万二千枚は仮計算でございます。帳簿から消えた救済金と、白い離宮の建設費は含めておりません」
ジェラルドの顔から、先ほどまでの笑みが消えた。ミレーヌの手が彼の腕から離れ、桃色のドレスの飾り真珠が一粒、床へ落ちる。転がった真珠が止まるより先に、リディアは最後の言葉を告げた。
「横領分の請求書は、監査が終わり次第、あらためてお届けいたします」
誰も声を出さなかった。庭から入り込んだ風が蝋燭の火を揺らし、花瓶のダリアから白い花びらが一枚落ちた。会場の隅では、リディアが置いてきた苺のタルトだけが、まだ誰にも食べられずに残っていた。




