地獄への出発
「……失礼します、閣下」
晩餐の余韻を断ち切るように、影のように背後に控えていたバルトが、静かに口を開いた。
「フォレスト伯爵への対処はいかがなさいますか。不敬の証拠は揃いました。身代わりを送り込んだという事実だけでも、今すぐ王都へ奏上し、一族の捕縛を命じることも可能ですが」
バルトの視線が、一瞬だけ私へと注がれる。
王都へ訴えれば、フォレスト家は一夜にして崩壊するだろう。私の心が一瞬、その復讐の早期実現に揺れた。
しかし、ゼノスは手元のワイングラスを弄びながら、冷淡に首を振った。
「いや、泳がせる。あの姑息な伯爵が我が家に寄こしたのは、至宝ではなく『死なぬ盾』だった。その意思を尊重してやろうではないか」
ゼノスは私を「女狐」と呼んだ時と同じ、底の知れない笑みを浮かべた。
「あやつらには、身代わりの娘がこの地で無様に切り刻まれていると思い込ませ、安堵させておけ。その間に我々はこの『盾』を最大限に活用し、フォレストがしがみついている隣国への利権と希望を、外側から一本ずつ削ぎ落としていく」
「……御意に。では、王都へは『滞りなく婚礼の儀が進行している』と虚偽の報告を流しておきます」
バルトは淡々と、けれど完璧に主人の意図を汲み取って一礼した。
「クリスティーナ、お前もだ。明日からは、その『盾』としての価値を私に証明してもらう」
「ええ、喜んで……閣下」
私は、再び重いベールを顔にかけた。
今夜、私は一度死に、そして死神との契約によって、フォレスト家を滅ぼすために生まれ変わったのだ。
翌朝、北方の夜明けは遅く、そして暴力的なまでの吹雪とともに訪れた。
「猶予は終わった。……準備をしろ」
部屋に現れたのは、バルトではなく、既に漆黒の軍装に身を包んだゼノス本人だった。
私は、昨夜用意された簡素だが動きやすい、北方の厚手のドレスに身を包み、白粉を丁寧に塗り固めて立ち上がった。
「どちらへ向かえばよろしいかしら?」
「前線だ。昨夜、結界の最北端に位置する『黒鉄砦』から報告があった。魔獣の爪による猛毒で、兵が十数人、死に瀕している」
ゼノスは私を一瞥し、冷酷に言い放った。
「その死なぬ肉体、毒を喰らって中和できるか試させてもらう。……お前が望んだ『道具』としての最初の仕事だ。失敗すれば、お前はその毒に全身を焼かれ続け、死ぬこともできずに永遠に悶え苦しむことになるだろうが」
「ふふ、構いませんわ」
私は淑やかな微笑みを崩さず、彼に続いて廊下へと踏み出した。
部屋を出ると、廊下にはマーサとリーザが控えていた。
二人は僅かに浮き出た首の傷痕に気づいたのか、顔を真っ青に強張らせ、今にも泣き出しそうな目で私を見つめていた。
閣下が夜中にこの部屋を訪れ、何をしたのかを察したのだ。
私はすれ違いざま、バルトに見えぬよう、二人にだけ小さく微笑んでみせた。
(大丈夫よ。約束を守ってくれてありがとう)
そんな意図を込めて、健気に、哀れに。
二人の目から、堪えきれずに一筋の涙が零れ落ちるのが見えた。
これでいい。
彼女たちの同情と罪悪感は、私がこの城に遺していく強固な「楔」となる。私が前線で血を流している間も、この城の中で「健気なクリスティーナ様」の不条理な苦難は、使用人たちの間で静かに、同情と共に語り継がれるはずだ。
窓の外、荒れ狂う吹雪の向こう側には、これから私が何度も肉を裂かれ、血を流すことになる戦場が広がっている。
(お父様、お母様……見ていてちょうだい。私が流す血のすべてが、あなたたちを地獄へ引きずり込むための、黒い鎖になるのですから)
城の重厚な門が開く。
極北の冷気が私の首の傷を刺すように撫で、私は自身への嘲笑と共に死神の馬車へと乗り込んだ。
馬車が砦へ向かって走り出すと、車内には刺すような沈黙が流れた。
向かいに座るゼノスは、目を閉じたまま微動だにしない。
その姿は、隣に座る「妻」という存在を完全に排除し、ただ戦場へ向かうための鋭利な武器を携行している軍人のそれだった。
やがて、馬車は岩山を削り出して作られたような無骨な要塞「黒鉄砦」へと到着した。
扉が開かれた瞬間、暴力的な吹雪とともに、鼻を突くような血の匂いと、腐敗した何かが混ざり合った異臭が舞い込んでくる。
「閣下! お戻りをお待ちしておりました!」
駆け寄ってきたのは、血に汚れた白い外套を纏った医療班らしき男たちだ。その表情には、極限の焦燥が張り付いている。
「……状況を言え」
「最悪です。『ヨツウデ』の爪による猛毒。解毒魔術も、南方から取り寄せた中和剤も一切効きません。すでに三人が絶命し、残りの兵たちもあと一時間持つかどうか……」
ゼノスは無言で馬車を降りると、背後で控える私に、砦の奥にある薄暗い一角を顎で示した。
そこには、鉄檻の中に閉じ込められ、不気味な紫色の体液を滴らせながら狂暴に暴れる、巨大な魔獣の姿があった。
「あの魔獣の爪には、肉を腐らせる致死性の猛毒がある。我が軍の兵士が何人もあれで命を落とした。……お前のその死なぬ肉体、どの程度の毒まで耐えられるか、まずは私の目の前で証明してみせろ」
ゼノスは冷たく口角を上げた。
その手に握られた長剣が、抜かれずとも私の身体に、これからの果てしない肉痛を予感させる。
私は、ベールのない剥き出しの顔で、彼に向かって完璧な「クリスティーナ」の微笑みを浮かべた。
「ええ、喜んで。……閣下のお役に立てるのなら、何なりと」
私は迷うことなく、狂暴に爪を研ぐ魔獣の檻へと、自ら一歩を踏み出した。
「女狐の分際で、どこまでも殊勝なことだ」
ゼノスの冷徹な声が、背後から突き刺さる。
集まってきた兵士たちの、怪訝さと不審に満ちた視線が私の背中に注がれているのが分かった。
彼らにとって、突然現れた私はただの小柄な少女に過ぎない。
まさか自分から進んで魔獣の檻へ近づくなど、狂気の沙汰としか思えないだろう。
鉄檻に一歩近づくたび、魔獣の放つ獣臭と、傷口を腐らせる強烈な毒の臭気が鼻腔を突いた。
グルルル……、と地響きのような唸り声。
檻の中にいるのは、漆黒の毛並みに覆われ、異様に肥大化した四本の腕を持つ狼のような魔獣だった。
その爪の先からは、どろりとした紫色の粘液が滴り、触れた石畳の床をジワジワと黒く溶かしている。
「……ふふ」
私は檻の直前で立ち止まり、上品にドレスの裾を摘んでみせた。
そして、はめていた上質な革の手袋を、ゆっくりと、片方ずつ外していく。
露わになったのは、毎日の水仕事で荒れ果てた、クリスティーナのものとは程遠い侍女の手だ。
「お嬢様! 何を――!」
見張りの兵士の一人がたまらず声を上げたが、ゼノスがそれを手で制した。
「見ていろ」という無言の圧力。
誰も、この死神の命令には逆らえない。
私は、手袋を外した右手を、ゆっくりと鉄格子の隙間から檻の内側へと差し入れた。
シュアアア! と激しい威嚇の音。
侵入してきた私の手を、魔獣は見逃さなかった。
肥大した腕が目にも留らぬ速さで振るわれ、紫色の毒を纏った鋭い爪が、私の手首から手の甲にかけてを容赦なく引き裂いた。
「――っ、あ」
熱い。いや、痛いというよりは、文字通り肉が「焼けている」感覚だった。
爪が触れた箇所の皮膚が、一瞬でどす黒く変色し、ジュクジュクと音を立てて溶け始める。
猛毒が血管を伝って腕を駆け上がり、骨の髄までを炭に換えていくような激痛が走った。
私の身体は、確かに「死ねない」。
けれど、人間としての痛みまで麻痺しているわけではないのだ。
あまりの激痛に視界が明滅し、膝がガクガクと震える。脳が「今すぐ手を引け」と狂ったように叫んでいた。
だが、私は手を引かなかった。
むしろ、さらに奥へと腕を突き出し、毒が肉を侵食していく様を、冷ややかに見つめ続けた。
「ほう……」
背後で、ゼノスの短い感嘆の声が聞こえる。
毒は肘のあたりまで達し、私の右腕は見るも無認に腐り落ちかけていた。
皮膚が剥がれ、黒ずんだ肉と骨が露出する。
並の人間なら、ショック死するか、激痛で狂い叫んでいるはずの惨状。
しかし、私の肉体に宿る力は、ここからが本番だった。
どくん、と胸の奥の心臓が大きく脈打つ。
腕の奥から、凄まじい熱量が溢れ出してきた。
血管を蝕んでいた紫色の毒が、私自身の沸騰するような赤い血によって強引に押し流され、中和されていく。
ドロドロに溶けていた肉が生き物のように盛り上がり、瞬く間に新しい皮膚が形成されていく。骨が繋がり、血管が走り、神経が結ばれる。
ほんの数十秒。
私の右腕は、肘から手首までの凄惨な傷痕を残したまま「再生」を完了した。
床には、剥がれ落ちた黒い腐肉と、中和された紫色の体液が濁った水溜りを作っているだけだ。
「はぁ、……はぁ、っ……」
荒い息を吐きながら、私は再生したばかりの右手を握り、開いた。
指先は相変わらず荒れたままだ。
私の身体の「再生」は、あくまで生命の維持に関することだけ。傷痕は消えず、そこに永遠に留まり続ける。
つくづく、残酷で完璧な呪いだわ。
私はゆっくりと振り返り、まだ恐怖に震える兵士たち、そして、瞳をぎらつかせているゼノスを見つめた。
私は再び、完璧な「お淑やかな微笑み」を貼り付ける。
「いかがかしら、公爵閣下。……この毒であれば、私の身体は一分ともたずに完全に中和させられるようですわ」
「素晴らしいな」
周囲の医療班や魔導士たちが、信じられないものを見るようにざわめき出した。
「おい、見たか……? 傷が塞がっているぞ」
「毒に冒された部分の変色が消えている……肉体が毒を打ち破ったのか!?」
ざわめきを尻目に、ゼノスはゆっくりと歩み寄り、私の右手を掴み上げた。手袋の嵌められた彼の指先が、今しがた刻まれたばかりの傷痕を強く圧迫する。
「激痛に声を上げることもなく、魔獣の致死毒をこれほど容易く無力化するとは。フォレストの阿呆どもめ、これほどの『兵器』を自ら手放すとは、つくづく見る目がない」
彼は私の手を放すと、背後の医療班を振り返った。
「おい、この女の血を調べろ。兵士たちを救う薬になるか試すのだ」
医療班の男たちは、驚愕に目を見開いた。
お淑やかに佇む令嬢が、まさか「毒の検体」として差し出されるなど思いもしなかったのだろう。
「ですが、閣下! いくら再生能力があろうと、先程のような苦痛を何度も繰り返すのは……」
「構いませんわ。それが私の役目ですもの」
私は、戸惑う魔導士らしき男の言葉を遮り、優雅に微笑んでみせた。
白粉の下の火傷が引き攣るのを感じながら、私は迷うことなく、死の匂いが充満する野戦病院へと足を踏み入れた。




