血塗れの聖女
そこは、まさに地獄だった。
野戦病院の中は、外の吹雪が嘘のように、ねっとりとした熱気と死臭が淀んでいた。
毒に侵され、皮膚が紫黒色に変色した兵士たちが、喉を掻きむしりながらのたうち回っている。
「……さあ、始めましょうか」
私は自らドレスの袖を捲り上げ、白く痩せ細った腕を差し出した。
ゼノスは壁に背を預け、腕を組んでその光景を冷ややかに見つめている。
そこから、医療班や魔導士たちを交えた、悍ましくも冷徹な「試行錯誤」が始まった。
私の身体をどう使えば、最も効率よく兵士たちの命を救えるか。
私の血をそのまま毒に冒された兵士に飲ませてみるも、私の血が強すぎて激しい拒絶反応が起きる。肉を切り取って傷口に擦り込んでみるも、醜い傷が残るばかりで効果は薄い。
何度も、何度も、私は毒を浴び、あるいは魔導士たちの術式によって無理やり肉体を侵食され、実験台にされた。その度に、私の身体には消えない傷跡が点々と増えていく。
私はその激痛に耐えながら、心の中でただ、お父様たちへの呪いを募らせていた。
やがて、一人の若き魔導士――ハンスが一つの術式を完成させた。
「閣下、成功です! お嬢様の肉体が毒を完全に克服した瞬間……つまり、体内の『抗体』が最も活性化している瞬間に、この特殊な魔導針で血液を抜き取ります。それを魔法陣で精製すれば、致死毒を完全に無力化する『完璧な血清』が抽出できます!」
「そうか。……クリスティーナ、お前が苦痛に耐えかねて、フォレストの家名を叫んで許しを請う姿を楽しみにしていたんだがな」
ゼノスの冷酷な言葉が耳に届く。
私は身体中の抉るような痛みに呼吸を乱しながらも、薄く笑った。
「……っ、ふふ。期待に添えなくて……残念ですわ……閣下」
この痛み。この屈辱。この汚れ。
すべてを糧にして、私はこの砦の、この公爵家の「命綱」となってやる。そうすれば、やがて私が「あの家を殺せ」と命じた時、この最強の軍勢は私のために躊躇なく剣を振るうだろう。
私は寝台からこちらを見つめるゼノスに、血に濡れた唇で、挑発的な微笑みを向けた。
「いかがかしら。……私のお道具としての性能は、お気に召しました?」
ゼノスは僅かに目を細め、その漆黒の瞳に、初めて私を「個」として認めるような、昏い光を宿した。
それから正式な血清を採取する為に刺されていた針が抜かれ、魔導士のハンスが私の腕に治癒魔術を施した。けれど、針を突き刺された痕跡は、治癒魔法を施してもなお、やはり新しく赤黒い小さな傷跡となって、私の腕に刻み込まれる。
「精製された血清を、すぐに負傷兵たちへ! 急げ!」
ハンスの鋭い指示で、医療班の兵士たちが出来立ての血清を持って部屋を飛び出していく。
私は冷え切った身体のまま、寝台の上でゆっくりと身を起こした。ハンスが差し出してくれた温かいお茶を、震える手で受け取る。
「ありがとうございます、ハンス様。……これで、あの方たちは助かるのですね?」
「ええ、ええ、そうです! 貴女様の尊い血のおかげで、今、十数人の兵士が死の淵から引き戻されました。貴女様は……この砦の、我がグレイル軍の救世主です……!」
ハンスは私の手を包み込むように握り、涙を浮かべて熱弁した。
救世主。
かつて実家で「呪われた子」と罵られた私が、ここでは他人の命を救う神の如き存在として崇められている。
なんて皮肉で、滑稽で、それでいて心地のいい歪みだろう。
私が流した血の量だけ、私の身体に消えない傷が増えるたび、この砦における私の地位は揺るぎないものになっていく。
「……随分と、この砦の連中を飼い慣らしたようだな」
唐突に男の声がした。
外に出ていたのか、戦火の煙と血の匂いを纏ったまま、ゼノスは腕を組んで、ベッドに腰掛ける私を冷徹に見つめた。
「兵士たちのみならず、医療班の魔導士どもまでがお前の足元に傅いている。南方の小賢しい狐め。私の軍を、お前の甘い毒で丸ごと乗っ取るつもりか?」
私はハンスたちが部屋にいないことを確認すると、お淑やかな令嬢の仮面を外し、声音を私自身の冷酷なトーンへと落とした。
「滅相もございません、公爵閣下。私はただ、あなたのお道具として、従順に血を捧げているだけにございますわ」
私はドレスの袖を捲り上げ、点々と傷跡の残る腕を彼に見せつけた。
「ですが、閣下も好都合でしょう? 兵士たちは命を救われ、あなたへの忠誠をさらに深める。そして私は、この砦の人間にとって『失ってはならない至宝』になる。……フォレスト家が私をここに売った時、まさかこんな未来が待っているとは夢にも思わなかったでしょうね」
私はベッドから降り、ゼノスの目の前へと歩み寄った。
白粉の下の火傷の痕、首の傷、そして腕の無数の傷。そのすべてを、彼の瞳に突きつけるように見上げる。
「ねえ、閣下。私の血のおかげで、あなたの軍はさらに強固になった。……そろそろ、私への『報酬』をいただいてもよろしいかしら?」
「報酬だと?」
ゼノスが怪訝そうに眉をひそめる。
「ええ。フォレスト伯爵家が、我がグレイル家に二度と逆らえないよう、まずは奴らの手足を一本ずつ捥ぎ取ってやりたいのです。……王都に残された我が実家にこの極北の地で私がどれほど愛され、崇められているか、その歪んだ噂を届けて差し上げたいの」
私は狂気を含んだ笑みを浮かべ、ゼノスの軍服の胸元に、そっと指先を滑らせた。
「いつ寝首を刈られるか、そう怯えながら朝を迎える極上の絶望を。……それが、私への一番の薬になりますわ」
ゼノスは一瞬の沈黙の後、低く、愉しげに笑った。
「――いいだろう。お前の流した血の対価だ。その程度の贅沢、いくらでも叶えてやる」
彼は私の顎を強く掴み上げると、至近距離でその瞳をぎらつかせた。
「王都へ使者を出そう。フォレスト伯爵令嬢は、北の地で公爵に深く寵愛され、我が軍の女神として君臨している、とな。……あやつらがどんな顔でその報告を聞くか、今から楽しみだな、偽物のクリスティーナ」
「ええ、本当に……」
顎を掴む彼の冷たい手のひらに、私は狂おしいほどの歓喜を覚えながら、暗い笑みを深めていくのだった。




