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不浄の旅立ち

湯船から上がり、湿った重い身体を引きずって再度鏡台の前へと座る。

鏡の中にいる自分と、これほど長く視線を合わせるのはいつぶりだろうか。


ふと、窓の外から伝わる微かな足音に意識が向く。

毎日毎日、この別宅には見張りがついていた。逃げ出さないためか、それともこの「不浄」を外に出さないためか。見張りをつけるくらいなら、いっそ本邸の地下にでも閉じ込めておけば良かったものを。わざわざ離れに軟禁してまで生かしておいたのは、やはりこの「予備スペア」としての価値を損なわないためだったのだろうか。


まあ、今となってはどうでもいいことだ。


本来の白金色に戻った髪に、見張りの男から渡された香油を塗り込む。指先に絡みつくその香りは、嫌になるほどクリスティーナと同じ匂いがした。ついでに、痩せ細った身体にもそれを塗り込んでいく。

毎日、私が跪きながら丁寧にクリスティーナの肌へ塗り込んでいた香油。それをまさか、自分自身に塗り付ける日が来るなんて。皮肉を通り越して、笑いすら込み上げてくる。


ポタリ、ポタリと、髪から雫が落ちて床を濡らす。

塗り込んだ髪を再度タオルで巻き込み、きつくまとめ上げた。そして露わになった顔に、クリスティーナと同じ化粧水を叩き込み、同じクリームを塗り、その上から白粉をはたく。


「……馬鹿馬鹿しい」


ふと、白粉を伸ばす指が止まった。

鏡の中の自分は、相変わらず私だった。厚く塗り固めたところで、引き攣った火傷の痕が消えるわけでも、鋭く吊り上がった瞳が穏やかになるわけでもない。何も隠せてなどいない。


だが、不思議と焦りも心配もなかった。

どうせ公爵領に着くまでは、厚いベールで顔を隠し通すのだ。荒れ果てた手は上質な手袋で隠れ、艶を失った髪も、香油の力でそれらしく見えるだろう。

私は再び指を動かし、作業を再開した。


「クリスティーナ」を作り上げるための、虚飾の作業。


この仮面が剥がれる時、私の命が尽きるのか、それとも新しい地獄が始まるのか。

どちらにせよ、私はもう、逃げる場所も無い。


ドレスを身に纏う段階になると、流石に一人では無理があった。

部屋に入ってきた侍女長によって、私は無機質に「クリスティーナ」へと作り替えられていく。

彼女の手は相変わらず冷たく、事務的だった。クリスティーナより二回りも痩せ細った私の体に、何枚もの詰め物をし、コルセットを限界まで締め上げる。肺が圧迫され、浅い呼吸しかできなくなる感覚が、たとえ場所が変わっても、私はこれからも囚われの身でしかないのだと予感させた。


支度が整った頃、部屋の扉がノックされた。


現れたのは、父――閣下の代わりとして遣わされた、執事のオリバーだった。


「お迎えの準備が整いました。……リリーお嬢様」


その呼び名に、一瞬だけ指先が跳ねた。

閣下の名代として、見送りに来たという。実の父は、身代わりを送り出すその瞬間まで、私の前に姿を見せることさえ拒んだのだ。


侍女長が部屋を辞し、二人きりになった刹那。

オリバーは深く、これまでの人生のすべてを詫びるように頭を下げた。


「……申し訳ございません。貴女様を守る術を持たず、このような過酷な道へ送り出す不甲斐なさを、どうかお許しください」


オリバーはこの屋敷で唯一あの夜を知り、閣下の側近でありながら、影で私を気遣ってくれた人だった。


誰もいない深夜、エドワーズに火かき棒で焼かれた私の背に、震える手で軟膏を塗ってくれたのは彼だった。メイドたちの残飯を啜る私に、隙を見て「余り物ですから」と、クリスティーナが残した甘いデザートをこっそり食べさせてくれたのも、彼だった。


「謝らないで、オリバー。……あなたの優しさに、どれほど救われたか分からないわ」


私は手袋に包まれた手で、彼の肩にそっと触れた。

背中につけられた火傷の傷が疼いた気がする。けれど、今の私の話し方は、クリスティーナに似せたそれだった。


「あちらでは……グレイル公爵家では、どうか御身を大切になさってください。貴女様の無事と、いつの日か心安らぐ時が来ることを、私はこの地で祈り続けております」

「祈りなんて、神様は聞いてくださらないわ。エボニーが死んだ時に、もう分かっているもの」


私は冷たく微笑んだ。

オリバーは悲しげに目を伏せ、震える手で私に厚いベールを被せた。


「さあ、お行きなさい。……リリー様」


その、最後かもしれない慈しみに満ちた呼び声を背に受け、私は歩き出した。

背中に残る軟膏の、微かな薬草の匂いが鼻をかすめる。

それが、この血塗られた屋敷で私が受け取った、最後の温もりだった。

朝靄の中、私は別宅の階段を降り、公爵家の馬車へと向かった。

一度も振り返ることなく。

オリバーの祈りなど、きっと届きはしない。

けれど、その小さな優しさの記憶だけが、北の雪原へと向かう私の胸の奥で、唯一消えない残り火のように燻り続けていた。

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