断章『噂の令嬢』
王都では不可解な噂が、不気味な熱を帯びて広まっていた。
『クリスティーナ・フォレストが、あのグレイル公爵と婚約した』
それ自体は、貴族社会によくある政略結婚の報せに過ぎない。
だが、状況が極めて異常だった。
当の本人であるクリスティーナ・フォレストが、その噂を真っ向から否定し、「何も知らない」と触れ回っているというのだ。
事実、彼女はグレイル家との縁談など、これっぽっちも聞かされていない。
社交界は、悪意に満ちた憶測の宝庫だ。一度火がつけば、噂は止めようもなく膨れ上がっていく。
『公爵に一目惚れしたクリスティーナが、身に余るホラを吹いたのではないか』
『フォレスト家が娘を惜しむあまり、奴隷を身代わりに送ったのではないか』
そして、最も不穏な囁きが混ざり始める。
『――フォレスト家には、死んだとされる双子の妹がいたはずだ』
―――
「ドリーウェルっ! 私、本当に、本当に何も知らないのです……っ!」
レミントン公爵邸のサンルームで、クリスティーナは恋人の胸に顔を埋め、激しく泣き崩れていた。
ドリーウェル・レミントンは、壊れものを扱うような手つきで彼女を優しく包み込む。
「大丈夫だよ。僕は、君の言うことを全て信じているから」
「……ドリーウェル」
ドリーウェルは、涙で濡れた彼女の顔を両手で柔らかく包み込み、上を向かせた。その慈愛に満ちた瞳で彼女を見つめ、熱い吐息とともに、一つおでこに口づけを落とす。
「全部僕に任せておいて。君は何も心配しなくていい」
そのまま、彼は震える彼女の唇を優しく塞いだ。
唇が離れた後、ドリーウェルの美しい青眼がゆるりと細められる。その瞳の奥には、恋人への献身とは裏腹に、鋭く冷徹な光が宿っていた。
「さあ、エドワーズ伯爵に会いに行こう」
一方、フォレスト伯爵邸の奥深く。
柔らかな春の陽光が虚しく降り注ぐ私室で、エドワーズ伯爵は椅子に深く腰掛け、項垂れていた。
卓上には、重厚な鉄の香りが漂うような、グレイル公爵家の紋章が刻まれた一通の書状が置かれている。
本来の計画では、今頃、身代わりに送った呪われた子が死神に切り刻まれ、無様に使い潰されたという「朗報」が届いているはずだった。
だが、巷を騒がせている奇妙な噂を聞くにつれ、エドワーズの胸中には拭い去れない嫌な予感が渦巻いていた。
(まだ隣国との手続きが済んでいない……。あまりに、あまりに早すぎる……!)
焦燥が、冷たい汗となって背中を伝う。グレイル家の機密情報と莫大な支援金を確約し、それを手土産に隣国へ亡命する手はずは、まだ半ばだった。
震える指で封を切り、書状に目を落とした瞬間、エドワーズの顔は土気色へと変わった。
『――クリスティーナ・フォレスト令嬢は、我が軍を救う女神として北の地に降臨した』
「な……なんだと……!?」
そこには、偽のクリスティーナへの過剰なまでの賛辞が並んでいた。
彼女の献身的な慈愛、そして公爵が彼女を「至宝」として溺愛し、唯一無二の正妃として迎える準備を進めているという狂ったような事実。
「馬鹿な……ありえん、こんなことが! あの化け物が、死神の心を掴んだというのか……!?」
エドワーズの絶望的な呻きが、静まり返った部屋に響いた。
その夜、彼は一睡もできなかった。北の「死神」が偽物に惑わされているという事実は、希望ではなく、いつ暴かれるとも知れぬ処刑台の階段を上らされているような恐怖だった。
やがて、重苦しい夜が明ける。
窓から差し込む朝日は昨日と変わらず柔らかだが、フォレスト伯爵邸を包む空気は、もはや逃げ場のない檻のように冷え切っていた。
翌日、フォレスト伯爵邸。
応接室の重厚な扉が開くと、そこには昨日よりもさらに顔色の悪いエドワーズが、幽霊のような足取りで現れた。その正面、長椅子に深く腰を下ろしているのは、ドリーウェル・レミントンだ。
「クリスティーナは、一緒ではないのか?」
顔色の悪いエドワーズが、目の前に座るドリーウェルを上目遣いに伺う。ドリーウェルはいつもの柔らかな笑みを携えながらも、その視線は蛇のように冷たい。
「ええ。クリスティーナは私に全てを一任してくれました。酷く心を痛めておいででしたから、自室で休んでいただいております」
ドリーウェルはゆっくりとティーカップを置き、エドワーズを射抜いた。
「私が今日ここへ来た意味……お分かりですよね?」
「……グレイル家とクリスティーナの、あの忌々しい噂の件だろう」
「ええ。……あなたは本当に、ややこしい事をしてくれた」
「何だと?」
エドワーズが気圧されながらも眉をひそめると、ドリーウェルは小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「いえ、独り言です。この際、噂の真相など僕には興味がありません。ただ、実に『良くない噂』が広がっている。……死んだはずのクリスティーナの双子の妹、リリー・フォレストが実は生きていて、彼女こそが北の地に渡った本人なのではないか、というね」
エドワーズの肩が、目に見えてびくりと跳ねた。
「僕にとって、クリスティーナは命よりも大事な存在です。彼女を惑わせるような、心を病んでしまいそうな状況に彼女を陥れるのは、僕の本意ではありません」
「だ、だが……今の私には、噂を打ち消すすべが無い」
力なく項垂れるエドワーズを見つめ、ドリーウェルは唇の端を吊り上げた。
「そうでしょう。今のあなたには、そんな力は無い。……だからこそ、僕が来たのです」
ドリーウェルは立ち上がり、窓の外の景色を眺めながら、淡々と「力」の差を突きつける。
「父は国王側の重鎮です。一方、グレイル家は王家の庇護すら必要としない北の独立勢力。陛下があの家を快く思っていないことは、あなたもご存じでしょう。……分かりますよね、御義父様」
ドリーウェルは穏やかに笑った。
「ならば、使えるものは使うべきです。王家の警戒も、社交界の悪意も、そしてクリスティーナの涙も」
「……ああ」
「ならば、話は簡単です。……直ちに『クリスティーナ・フォレスト』と『ドリーウェル・レミントン』の公式な婚約発表を行い、二人の仲の良さを王都全土に見せつけましょう」
ドリーウェルは振り返り、エドワーズの卓上にある「女神の降臨」と記された書状を、ゴミを見るような目で見つめた。
「その上で、ゼノス・グレイルに対して『我が婚約者の名を騙り、名誉を毀損した』と公に抗議文を送るのです。北にいるのが何者であれ、王都にいるクリスティーナが僕の隣にいる限り、北の『女神』はただの卑しい詐欺師に成り下がる」
ドリーウェルの青い瞳が、冷酷な光を放った。
「そして詐欺師を匿ったグレイル家は、王都で名誉を問われることになる。ただし、この手は諸刃です。北にいる女の正体を、社交界は必ず嗅ぎ回る」
ドリーウェルは、柔らかな声のまま告げた。
「……それでも、今のあなたに他の道はない。さあ、決断を。フォレスト伯爵家を守る唯一の道ですよ」




