化物の女神
黒鉄砦での死闘から、三日が過ぎた。
ヨツウデが現れるたびに繰り返された、血清の精製。 高熱に浮かされ、毒に肉を焼かれ、そのたびに私の身体は腐り、再生した。
その甲斐あって、毒に侵された兵士たちは全員、死の淵から引き戻されたらしい。
グレイル邸へ戻ってから与えられた部屋は、妙に広かった。 華美な装飾こそないものの、深いブルーで統一された落ち着いた空間。けれど、長くエボニーの別宅で暮らしていた私には、あの最上階の閉塞感の方が、よほど馴染み深い。
広い廊下を歩く。
そのたびに、兵士たちの空気が変わるのが分かった。
「……」
「おい、目ぇ合わせるな」
「馬鹿、聞こえる」
ひそひそと、押し殺した声。
けれど、私が視線を向けると、彼らは弾かれたように背筋を伸ばし、ぎこちなく頭を下げた。
戦場の熱に浮かされていた兵たちも、日が経つにつれ冷静さを取り戻し始めたのだろう。
今では私が通るたび、視線だけが静かに追いかけてくる。
恐れるように。 化物を見るように。
けれど、決して目を逸らせないものを見るように。
敬意とも少し違う。
恐怖。 警戒。
そして、生存への縋り付き。
そんな感情が、奇妙に混ざり合っていた。
視線が、腕へ落ちる。
手袋の下。 ヨツウデの毒で焼け爛れ、再生したばかりの腕には、新しい赤黒い傷痕が幾つも増えていた。
――死なない化物。
彼らの目は、そう語っている。
けれど同時に。
――この女がいなければ、自分たちは死んでいた。
その事実もまた、消せない。
「女神、だなんて」
誰にも聞こえないよう、小さく笑う。
昨日、廊下の向こうで若い兵士が、言葉とは裏腹の怯えた顔でそう呟いているのを聞いた。
女神。
救世主。
耳障りなほど美しい言葉だ。
けれど、そのどれもが、まるで処刑台へ供える花のようだった。
私が流した血の分だけ、この城での価値が増していく。
傷が増えるたび、 この北の地は、私を必要としていく。
なんて滑稽で、なんて歪で――心地の良い地獄なのだろう。
「クリスティーナ様」
背後から声がし、パタリと歩みの音が止まった。振り返ると、そこには頭を深く下げたマーサが、震える声で小さく言葉を紡いでいた。その傍らではリーザも同じように控えている。
「本当に感謝しております。兄を助けていただいたこと、一生涯、感謝してもしきれません」
「顔を上げてください。私は、なすべきことをしたまでですわ」
こちらに戻ってきてから被らなくなったベールのない素顔で、私はにこりと笑った。
「それよりも、あなたたちが私の侍女を引き受けてくれたことが嬉しいのです。私など、あなたたちからすれば敵同然の相手でしょうに」
「そんな! お嬢様に非などございません。それに、お嬢様の侍女にしていただきたいと、私たち自らお願いしたのです」
「……ですから、これからもよろしくお願いいたします」
さらに深々と頭を下げる二人。
それに対してこれまで誰かに敬われるという経験がなかった私は、どう応えるべきか戸惑った。
その時、「クリスティーナ様」と、いつの間にか背後に立っていたバルトから声が掛かった。
邸に戻ってから一度も顔を合わせていなかったゼノスが、執務室で待っているという。
執務室の扉をノックする。
「ゼノス様、クリスティーナにございます」
「入れ」
初めて足を踏み入れた執務室は、与えられた私室よりもこじんまりとしていた。
壁の本棚にはぎっしりと書物が詰め込まれ、ゼノスが座る机の上には膨大な書類が所狭しと並んでいる。
「座れ」
ゼノスは一度もこちらを見ず、手元の書類に何かを記していたが、やがてふいと顔を上げると、重厚な客用の椅子を顎で示した。
そこに腰を下ろすと、バルトが厳かに口を開く。
「王都より書状が届いております」
バルトが差し出した封筒には、フォレスト伯爵家の紋章と、もう一つ――レミントン公爵家の紋章が、並んで押されていた。
「読んでみろ。ご丁寧に向こうから首を差し出してきたぞ」
その声音に、背筋が冷えた。
獲物を見つけた獣の声だったからだ。
書状には、王都にいるクリスティーナ・フォレストこそが本物であり、北の地でその名を騙る女は卑しい詐欺師である、という無慈悲な文言が並んでいた。
(なるほど。そう来たのね)
私は唇に笑みを乗せた。
けれど、指先だけは氷のように冷えていた。
仮面が剥がされる。その予感が、首に残る死の痕跡を疼かせた。
だが、ゼノスは笑っていた。
「怯える必要はない」
彼はは羊皮紙を指先で叩いた。
「奴らは今、自分たちで証言したのだ。王都にいる女が本物のクリスティーナだと」
「……それが、何か?」
「ならば」
ゼノスの黒い瞳が、愉しげに細められる。
「フォレスト伯爵が我が家へ差し出したこの女は、一体何者だ」
ゼノスはバルトへ視線を流した。
「返書を出せ」
「内容は」
「簡単だ。『我が家に差し出されたのは、フォレスト伯爵本人の署名に基づくクリスティーナ・フォレスト令嬢である。王都にいる令嬢が本物だと主張するのなら、伯爵は何者を我が家へ送り込んだのか。正式な説明を求める』とな」
バルトの口元が、わずかに歪んだ。
「御意に」
「ついでに書き添えろ。北方防壁への軍資金横流しの件も含め、王都での公開審問を望む、と」
逃げ道を塞いでから、 その床を抜く。
ゼノス・グレイルという男は、 そういう笑い方をする。
「……あなた様は、本当に性格が悪いのですね」
思わず零すと、ゼノスは鼻で笑った。
「今さら気づいたか」
「いいえ」
私は卓上の書状を見下ろし、ゆるりと笑った。
「少し、安心したのです」
ゼノスの鋭い視線が、私を射抜く。
「あなたが私をただの盾として使うだけの男なら、つまらないと思っておりましたから」
ゼノスは、低く喉を鳴らして笑った。
「やはり女狐だな、お前は」




