子兎の終焉
執務室に、しばし沈黙が落ちた。
王都から届いた抗議文は、ゼノスの手によってすでに「反撃の材料」へと変えられている。
フォレスト伯爵家も、レミントン公爵家も、自らの手でこちらへ刃を差し出したのだ。
けれど、その刃の先に立たされるのは、他でもない私自身である。
「公開審問となれば、王都へ向かうことになります」
バルトが淡々と告げた。
「陛下の御前、あるいは貴族院にて、フォレスト伯爵家、レミントン公爵家、そして我がグレイル公爵家の主張を明らかにする場が設けられるでしょう」
王都。
その響きを聞いた瞬間、指先がわずかに冷えた。
あの場所に、良い思い出など一つも残っていない。
お父様、お母様、そしてクリスティーナ。
私を「いないもの」として扱ってきた者たちが、あそこにいる。
「……私も、行くのですね」
声は、思ったよりも静かに響いた。
ゼノスがこちらを一瞥する。
「当然だろう。お前がいなければ、この件は成立しない」
「私が証拠だからかしら?」
「そうだ」
躊躇いのない肯定だった。
胸の奥が、奇妙に疼く。
証拠、道具、盾、切り札。
どれも、温かな人間に向けられる言葉ではない。
けれど、フォレスト家で「存在しない影」として扱われてきた私にとって、それはひどく残酷で、それでいて鮮烈な「居場所」のようにも思えた。
「……なんだ。やはり恐れているようだな」
嘲るような声だった。
重厚な椅子を軋ませながら、ゼノスはゆるりと背もたれへ寄りかかる。
「まさか」
反射的に笑う。けれど、その微笑みは完璧ではなかったのだろう。ゼノスは机の上の書類を一枚横へ押しやり、私をまっすぐに見据えた。
「嘘が下手になったな、女狐」
射抜くような黒い視線が、取り繕った微笑みの奥にある怯えを、静かに暴いていく。
「……王都には、私を殺した人間たちがいますもの」
ぽつり、と本音が零れていた。
「殺せなかった人間たち、だろう」
ゼノスは冷たく切り捨てる。
その言葉に、喉の奥で小さく笑いが引っかかった。
「ええ。そうでしたわね」
私は、死ぬことすら許されなかった。
だからこそ、今ここに立っている。
ゼノスは椅子から立ち上がり、ゆっくりと私の前まで歩いてくる。軍靴が床を叩く音が、静まり返った部屋に重く響く。
「よく聞け、クリスティーナ」
その偽りの名を呼ばれるたび、首の傷が疼く気がした。
「王都の貴族は、言葉で人を殺す。剣を抜く必要などない。涙を見せれば弱みとして食われ、沈黙すれば罪を認めたことにされる。視線を逸らせば、それだけで嘘だと囁かれる場所だ」
ゼノスの声は、戦場の作戦を告げる時と同じように冷徹だった。彼は私の至近距離で足を止め、逃げ場を塞ぐように影を落とす。
「泣くな。怯えるな。黙るな。お前が沈黙した瞬間、奴らはお前をただの『偽物』に仕立て上げる」
ただの偽物。その言葉が、胸の奥底に重く沈む。
今さら偽物と呼ばれようが、痛くも痒くもないはずだった。
それなのに、どうしてか指先の冷えは収まらない。
「では……どうすればよろしいのですか」
尋ねると、ゼノスはわずかに口角を上げた。
「笑え」
「……笑う?」
「そうだ。奴らが最も望まない顔で立て」
ゼノスは私の首元に視線を落とした。
あの日、彼自身が刻みつけた死の痕跡へ。
「憐れな子兎は終わりだ。今度は、グレイルの女として立て」
胸の奥で、何かが静かに震えた。
グレイルの女。
それは愛の誓いではない。
慈しみ守るという意味でもない。
利用し、矢面に立たせ、己の武器として振るう。
それだけの、即物的な言葉。
なのに、どうしてか、息が少しだけしやすくなった。
「……随分と物騒な花嫁支度ですこと」
「花嫁ではない」
ゼノスは即座に言い捨てた。
「お前は私の切り札だ」
その言葉に、私はゆっくりと微笑みを浮かべた。
「では、せいぜい美しく研いでくださいませ」




