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血の契約

部屋の扉がノックされることはなかった。

静寂を強引に引き裂くように、荒々しく、大きな音を立てて扉が開け放たれる。


入ってきたのは、凄まじい鉄と血の匂いを纏った男だった。


月明かりのみが照らす暗闇のなか、壁にもたれ掛かるようにして佇むその男から、低く地を這うような声音が響く。


「良い度胸じゃないか」


跳ね起きた瞬間から、私の本能は絶え間なく警鐘を鳴らし続けている。


男の黒い瞳が、暗闇の中で爛々と輝いた。


「フォレスト家の至宝、聖女とやらは……貴様のことか?」


影が揺らめいた、と思った次の瞬間には、男は私の目の前にいた。

チャキリ、と硬質な音を立てて、鋭利な剣先が私の喉元へ容赦なく突き立てられる。


この男だ。ゼノス・グレイル。


戦場から戻ったばかりの彼は、漆黒の軍服に魔獣の返り血であろうどろりとした液体を浴びたまま、冷酷に私を見下ろしていた。


ベールも被っていない。

月明かりに照らされた左側――火傷の痕へ、彼の視線が僅かに流れる。


どこで誰に何を聞いたかは分からないが、ゼノスはこの奇妙な状況をすべて察しているのだろう。


「クリスティーナ・フォレスト。弁明とやらがあるのなら、この場で申せ」


私は喉元に刃を押し当てられたまま、本物の「クリスティーナ」のように静かに微笑んでみせた。


「……何も、ございませんわ」


彼にとって、偽物の正体などどうでも良いことなのだろう。私にとっても、今の名前など何の意味も持たない。


「そうか。潔さだけは褒めてやろう」


ゼノスの瞳に、一切の躊躇はなかった。

ぶんと風を切る音がして、振り上げられた長剣が、私の細い首を一閃する。


(果たして死ねるだろうか。首を落とされるのは初めてだわ)


私はそれを、酷く他人事のように感じていた。


視界が、唐突に反転した。

切断された断面が、焼けるように熱い。

衝撃で、胸元に隠していたペリドットのネックレスが、しゃらりと虚しい音を立てて床へと転がった。


ぐらりと世界が揺れ、ずしゃりと音を立ててシーツの上へ倒れ込んでいく、「首を失った私自身」の身体が見えた。


(……ああ、神様はどこまでも私に救いを与えてはくれないらしい)


「あ、ああ、ぅあ゛っ……!! あ゛、あ」


喉を失っているはずなのに、私の奥底から、引き裂かれるような痛みによる絶叫がせり上がってくる。


床を汚しかけていた鮮血がぴたりと動きを止め、まるで時間を巻き戻すかのように、凄まじい勢いで首の断面へと逆流し始めた。

切断された筋肉が、血管が、骨が、意思を持つ生き物のように蠢いて互いを探し出し、結合していく。


ゴロリと転がっていた私の頭部は、次の瞬間には、まるで何事もなかったかのように元の位置へと戻っていた。

細い首筋に、ぐるりと一周、赤黒い一筋の傷跡が残されたのを除いては。


私はベッドの上に両手をつき、激しく酸素を求めながら噎せ返った。

やはり、この身体は――死ぬことすら、許してはくれないらしい。


パチ、パチ、と静まり返った部屋に、乾いた拍手の音が響く。

剣の血を無造作に拭いながら、ゼノス公爵は冷たく口角を上げた。その黒い瞳には、化物を見た恐怖など微塵もなく、ただ冷徹な好奇だけがぎらついている。


「……ほう。至宝ではなく、呪われた聖女だったか」


「げほっ、ごほっ……! はぁ、はぁ……っ」


繋ぎ合わさったばかりの喉から、掠れた呼吸が漏れ出す。

まだ再生の熱が残る首筋を、手袋を外したままの指先で強く押さえた。


やはり、死ねないのか。


首を撥ねられて、肉体を文字通り切断されてなお、私の身体は生きたいと呼吸を繰り返している。

多少なりとも期待はしたが、だが別段、絶望も無かった。


「なぜ、驚かないのですか」


私はベッドに両手をついたまま、剥き出しのペリドットの瞳で彼を見上げた。

彼は首に刻まれた赤黒い「死の痕跡」を、一瞥する。

だが、これほどの異常を目の当たりにして、この男は眉一つ動かさない。


ゼノス公爵は長剣を鞘へと収めると、床に転がっていた私のペリドットのネックレスを、軍靴の先で軽く小突いた。


「我がグレイル家が、この何百年、北の地で何と戦ってきたと思っている」


彼は冷ややかに私を見下ろし、吐き捨てるように言った。


「夜が訪れるたび、砦の向こうからは首を撥ねても動く魔獣や、心臓を貫いても再生する不死の怪異が押し寄せる。お前のその身体は不気味だが、この地においては『よくある脅威』の一つに過ぎん」


ゼノスは机に寄りかかり、腕を組んで私を値踏みするように見つめる。


「なるほど、合点がいった。フォレストの連中め、我が家を侮るのも大概にせよと思ったが……あやつらは最初から、お前という『処理の困る怪物』を我が家に押し付けるつもりだったわけだ。私が激昂してお前を切り刻むか、あるいはその異常性に目をつけ、生涯人目を忍ぶ実験体にでもすることを期待してな。どちらにせよ、あやつらの手は汚れん」


ゼノスの言葉は、マーサたちから聞いたフォレスト家の罪状、そしてお父様の思惑と完璧に合致していた。


リリーなら、どれほど残虐な死神に切り刻まれようとも死なない。本物のクリスティーナを安全な南方に囲い込みながら、死なない盾を公爵家へ生贄として差し出すことで、フォレスト家は滅亡の危機を免れ、同時に目障りな不浄わたしを合法的に処分できる。


どこまでも、どこまでも、あの家族は私を道具としてしゃぶり尽くすつもりなのだ。


胸の奥から、ドロリとした昏い感情がせり上がってくる。

それは悲しみではなく、あの血塗られた伯爵邸にいる全員を、奈落の底へ引きずり落としてやりたいという、狂おしいほどの憎悪。


「死にたがり、かつ死ねぬ子兎」


ゼノス公爵がゆっくりと私に近づき、ベッドの脇に落ちていたネックレスを拾い上げた。


「お前の願いは、本当に安らかな死か? それとも、お前をここに放り込んだ奴らへの復讐か」


「……両方よ」


私は声を隠すのをやめ、地を這うような私自身の声で、冷酷に言い放った。


ゼノスは冷たく口角を上げると「女狐だったか」と溢し、拾い上げたペリドットのネックレスを私のひざ元へと落とした。


「ならば、取引をしよう。偽物のクリスティーナ」


彼は私の前に屈み、白粉の剥げた醜い左顔を、冷たい指先で乱暴に、しかし確かにその存在を認めるようにゆるりとなぞった。


「お前をフォレスト家へ送り返し、不敬罪で奴らを今すぐ処刑するのは容易い。だが、それではあやつらは一瞬で楽に死ぬ。それでは退屈だろう? お前が我がグレイル家の『盾』として、その呪われた身体で北の地を護るというのなら、私はお前に、あの愚図どもを最も残酷に破滅させる『力』と『時間』を与えてやろう」


「私の道具となり、フォレストの血を、その絶望を、じっくりと味わい尽くすか?」


私は、ひざ元に落ちたペリドットを強く、壊れるほどに握りしめた。

首の傷跡が、まるで新しい契約の刻印のように熱く脈打っている。


(エボニー。ごめんなさい、私はまだ、あなたのところへは行けないわ。あの家を、お父様を、お母様を――全員地獄に道連れにするまでは)


私は淑女の笑みを浮かべて、死神の差し出してきた手を取った。


「ええ……喜んで。あなたの道具になってあげるわ、公爵閣下」

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