鏡の中の怪物
その日の午後、私の部屋には数着のドレスが運び込まれた。
最初にマーサとリーザが広げたのは、南方風の淡い色合いのドレスだった。柔らかな桃色に淡い金、そして薄い水色。春の陽だまりをそのまま形にしたような布地が、部屋の殺風景な空気の中で場違いに輝いている。
どれも本物のクリスティーナによく似合うだろう。陽だまりの中で笑う、愛されるために生まれてきたお姫様には。
「……却下だ」
扉の傍で腕を組んでいたゼノスが、低く、切り捨てるように告げた。その言葉に、マーサとリーザがびくりと肩を震わせる。
「ですが、閣下。王都の場であれば、南方貴族らしい装いの方が――」
「その女を南方の女に戻す必要はない」
ゼノスの視線が、値踏みするように私へ向く。冬の夜の海のような、深く冷たい色。
「王都へ見せに行くのは、フォレスト家の至宝ではない」
彼は軍靴の音を響かせ、一歩、こちらへ近づいた。影が私の視界を覆う。
「グレイル公爵家が拾い上げた、怪物だ」
その言葉に、マーサが小さく息を呑み、リーザが悲しそうに眉を寄せるのが分かった。けれど、当の私は唇を歪め、愉快そうに笑っていた。
怪物。
今の私にこれほど相応しく、これほど正しい響きが他にあるだろうか。
「では、どのような装いに?」
控えていたバルトが、感情を排した声で問う。ゼノスは並べられたパステルカラーのドレスを一瞥し、忌々しそうに吐き捨てた。
「黒を基調にしろ。装飾は銀。差し色に深紅」
「深紅、でございますか」
「ああ」
ゼノスの視線が、服の下に隠された私の腕へ落ちる。視線だけで皮膚を焼かれるような錯覚がした。
「血の色だ」
沈黙が部屋を支配した。誰も言葉を発しなかった。
けれど私は、喉の奥で声を殺して笑った。
「よくお似合いになりそうですわね、私に」
「分かっているなら話が早い」
やがて運び込まれたのは、南方の令嬢が好む柔らかなドレスとは、対極にあるものだった。
光を吸い込むような、黒い厚手の生地。胸元から腰にかけて、軍服を思わせる硬質な銀の飾り紐が走り、裾には控えめな、けれど鮮烈な深紅の刺繍が施されている。
首元は喉元まで高く詰まり、あの赤黒い死の痕跡を隠すようでいて、かえってそこに語るべき「何か」があると暗示する、異様な形をしていた。
手袋は肘の上まである漆黒。足元は華奢な靴ではなく、床を鳴らす硬い踵のブーツ。
鏡の前に立たされる。
マーサが震える手で最後の飾りを留め、リーザが私の髪を――染められた茶色ではなく、本来の白金のまま結い上げていく。
顔を隠すための侍女の髪ではない。クリスティーナに似せるための、媚びるような巻き髪でもない。白金の髪は高くまとめられ、黒いリボンと銀の髪飾りで鋭利に留められた。
鏡の中にいる女を、私はしばらく、まるで別人を眺めるように見つめた。
そこにいるのは、クリスティーナではなかった。
桃色のドレスを抱えて笑う、愛されるための少女ではない。茶色の髪で顔を隠した、卑屈な使用人でもない。傷を隠し、息を殺し、誰にも見つからないように生きてきた「リリー」でもない。
黒と深紅を纏い、呪いという名の傷を抱えたまま傲然と立つ、グレイル公爵家の怪物。
「……これが、私?」
思わず呟けば、背後からゼノスの声が重なった。
「違う。これから、お前が使う顔だ」
胸の奥が、静かに、けれど激しく震えた。
顔、仮面、役割。私はずっと、誰かの都合でそれらを被らされて生きてきた。けれど、鏡の中のこの冷徹な仮面は、誰かに押し付けられたものではない。私が自らの意志で選び、使いこなすべき「武器」なのだ。
「似合っておりますか」
尋ねると、ゼノスは鼻で笑った。
「王都の連中は、さぞ怯えるだろうな」
それは決して褒め言葉ではなかった。
けれど、今の私には、どんな甘い讃美よりも甘美な響きだった。
「では、合格ですわね」
私は鏡の中の女に向かって、ゆっくりと微笑んでみせた。
だがそこにあるのは、かつての私の弱々しい笑みではない。火傷の痕を、無様ではなく「勲章」として。美しく、冷たく、そして僅かな狂気を乗せて。
フォレスト家の至宝ではなく、グレイル家の切り札として。
その夜、部屋に一人になってからも、私はしばらく鏡の前に立っていた。
黒いドレスは脱いだけれど、首元に残る赤黒い痕だけは、消えることなく私を呪い続けている。指先で、そこをそっとなぞる。
ゼノスに斬られた傷。死ねないことを証明した痕。そして、 北の地で“別の何か”へ変わり始めた証。
窓の外では、雪がしんしんと音もなく降り積もっている。
フォレスト家では隠され、王都では偽物と呼ばれるだろう。
ならば、北での私は女神か、それともやはり怪物なのか。
どれも私で、どれも私ではない。
「……私は、どこへ向かっているのかしら」
問いかけに、返事はない。
ただ、鏡の中の怪物だけが、 まるで最初からこちら側だったかのように、 静かに笑っていた。




