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回想『泥濘の暗闇』

それからの日々は、彼女にとって生き地獄以外の何物でもなかった。

自分という存在がこの世から消え、誰も自分の正体を知らないという現実を、一分一秒突きつけられるからだ。


「クリスティーナ、お前の侍女を連れてきたよ」


エドワーズの声に促され、リリーは一歩前へ出た。あらかじめ用意されていた黒のメイド服に身を包み、あらかじめ用意されていた偽りの言葉を喉の奥から絞り出す。


「……はじめまして、お嬢様。本日からお嬢様付きの侍女として参りました、リルと申します」


その背後に控えるレイチェルは、まるで汚らわしいものを見るような目でリリーを一瞥し、冷ややかに言い放った。


「……まあ貴方、なんですか。クリスティーナに相応しくないほどに、みすぼらしいわ」


かつて自分を腹を痛めて産み、慈しんだはずの母。その口から出たのは、実の娘へのあまりにも残酷な拒絶だった。エドワーズは冷淡な顔を崩さず、妻を宥めるように言葉を添える。


「そう言うではない。奴隷商から買い取ったのだ。フォレスト家に恩こそあれ、不忠を働くことはないだろう」

「……そう。まあいいわ。クリスティーナにさえ害がないのであれば」


二人の会話を遮るように、クリスティーナが天真爛漫な声を上げた。


「もう、お父様にお母様ったら! リル、私は貴女と仲良くなりたいわ!」


リリー、いや、リルは頭を下げたまま、血が滲むほど唇を噛み締めていた。


誰も、リルの正体には気づかない。鏡合わせのようにクリスティーナに似ているはずの口元が覗いているというのに、誰もその類似に目を向けようとはしなかった。


悲しみが毒のように胸を突き刺す。その時、エドワーズの手がリルの背に添えられ、脇腹をぎりりと抓り上げた。


――お前は侍女だ。恩を噛み締め、フォレスト家に尽くせ。


洗脳のように叩き込まれた脅迫が、耳の奥で蘇る。リルは反射的に、奴隷が命乞いをするかのように深く、深く頭を下げた。


「勿体ないお言葉です、お嬢様。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


それから、リルの生活はクリスティーナを中心に回り始めた。


侍女としての雑務はもちろん、遊び相手、食事のマナーの練習台、果ては学問やダンスの練習相手まで。その役割はもはや侍女の域を遥かに超えていたが、リルはすべてを完璧にこなした。


いや、なさねばならなかった。


リルが出来なければクリスティーナが泣き、クリスティーナが泣けばレイチェルが癇癪を起こす。そしてそのすべての責任は、常にリルに押し付けられた。


エドワーズは、何かにつけてリルの背に火かき棒を押し当てた。

最初は教育のため、やがてそれは、自らの不満をぶつけるための卑劣な憂さ晴らしへと変わっていった。

それでもなお、リルは侍女として、クリスティーナの傍らに寄り添い続けた。


この子は何も知らないのだ。


自分の頬を焼いた火の熱さも、乳母が殺された夜の月光も、この家の地下に広がる泥濘のような暗闇も。


「この子は無垢なのだ」


リルは自分にそう言い聞かせ、呪文のように繰り返した。

無垢で、何も知らないからこそ、あまりにも残酷で、あまりにも汚らわしい。

そんな妹の影として、リルは自らの心に幾重もの鍵をかけ、ただ静かに時を過ごしていった。

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