死神の帰還
それから、三日の月日が流れた。
公爵領の夜は恐ろしく長い。窓の外の白銀の世界は、朝も夜も結界の闇に閉ざされ、時折、砦の向こうから地響きのような魔獣の咆哮が聞こえてくるだけだ。
この三日間、私は徹底して「無垢な子兎」を演じ続けた。
朝夕の二度、部屋の前に運ばれてくる食事は、「お前は捕虜と同等だ」と言いたげな、冷え切った硬いパンと具のほとんどない薄いスープだけ。
本来のクリスティーナなら、屈辱に涙を流すような代物だ。
けれど、フォレスト家でメイドたちの残飯を啜って生きてきた私にとっては、これでも十分に贅沢な食事だった。
私は運んできた使用人の前で、わざとらしく目を潤ませながら、健気にスープを口に運んでみせた。
「温かいスープをいただけるだけで、私は幸せですわ。前線で戦う閣下に比べれば、この程度の寒さなど……」
そう言って微笑む私を、使用人たちは「あまりにも哀れな生贄」を見る目で、居心地悪そうに見つめていた。
あの夜、ダイヤモンドのブローチを握らせた二人のメイド――マーサとリーザも、約束を固く守ってくれていた。
彼女たちは毎日、私の身体の凄惨な火傷の痕を誰にも見られぬよう、細心の注意を払って着替えの手伝いをしてくれる。
それどころか、私への同情が勝ったのだろう。二人は城内の様子を、私の耳にこっそりと運んでくれるようになった。
「クリスティーナ様……フォレスト伯爵家は、本当に愚かなことをなさいました」
四日目の朝、私の白金色の髪に香油を馴染ませながら、マーサが声を潜めて囁いた。
「やはり、お父様は何か重大な過失を?」
私が鏡越しに、怯えるような瞳を向けると、リーザが周囲を気にするようにして言葉を継いだ。
「過失などという生ぬるいものではありません。フォレスト伯爵は、王都の政争で我がグレイル公爵家を失脚させようと、他国と通じて軍資金の横流しを行っていたのです。それが閣下に露見し、フォレスト家は取り潰し寸前まで追い詰められました。……今回の婚姻は、伯爵が全財産の半分を差し出し、さらに『至宝』と謳われる実の娘を差し出すことで、辛うじて一族の処刑を免れたものなのです」
(……なるほど、そういうことだったのね)
胸の奥で、冷たい納得が広がっていく。
お父様が私を「身代わり」にした本当の理由。
公爵家を裏切り、その逆鱗に触れたフォレスト家。
差し出された娘がどんな扱いを受けるか、想像がつかないはずがない。
本物のクリスティーナを送れば、怒り狂った公爵にその場で首を撥ねられるか、なぶり殺しにされる可能性が極めて高かったのだ。
だから、父は死なないと踏んだ私を「本物」として送り込んだ。
私がどれほど惨たらしく殺されたとしても、死ぬことはない。
公爵の怒りが収まるまで、何度でも「死なない盾」として身代わりになればいい。
その間に、本物のクリスティーナとフォレスト家は安全な南方で、生き延びる時間を稼ぐ――。
「本当に、反吐が出るわ……」
「え……? クリスティーナ様、何か?」
鏡の中の私の瞳に、一瞬だけ剥き出しの憎悪が宿ったのを見て、マーサが小さく息を呑んだ。
私はすぐに、悲しげに視線を落とす「子兎」へと戻る。
「いいえ。ただ、お父様がそれほどまでに閣下を怒らせていたなんて、知らなかったものですから……。そんな大罪人の娘である私を、この城の皆さんが生かしておいてくださるだけでも、奇跡のようですわ」
「お嬢様……貴女様は何も悪くないのに……」
二人のメイドは、私の健気な演技に、いよいよ同情の涙を浮かべんばかりだった。
フォレスト家が犯した罪の重さは分かった。
公爵家における私の立場は、ただの「人質」どころではない。いつ切り刻まれてもおかしくない、「大罪人の身代わり」だ。
けれど、それでいい。
フォレスト家がそれほどまでに追い詰められているなら、私の手で、背中から最後の一突きをくれてやるのは容易い。
ゼノス公爵が戻り、この仮面を剥ぎ取ったその時が、すべての始まりになるだろう。
その日の深夜。
激しい地吹雪が窓を叩く音の中、突如として城全体が大きく震えた。
ドォン、という重苦しい鉄門の開閉音。
それに続いて、大勢の兵士たちの足音と、金属の擦れ合う不穏な音が、最上階の私の部屋にまで響いてくる。
緊迫した空気が城内を駆け巡り、廊下を走る使用人たちの足音が絶え間なく続く。
(……戻ってきたのね)
私はベッドの上で跳ね起き、暗闇の中でそっと胸元のペリドットに触れた。
間違いない。この凍てついた城の空気を一瞬で支配する、圧倒的な威圧感。
「北の死神」ゼノス・グレイル公爵が、戦場から帰還したのだ。
部屋の扉がノックされることはなかった。
静寂を強引に引き裂くように、荒々しく、大きな音を立てて扉が開け放たれる。
入ってきたのは、凄まじい鉄と血の匂いを纏った男だった。
月明かりのみが照らす暗闇のなか、壁にもたれ掛かるようにして佇むその男から、低く地を這うような声音が響く。
「良い度胸じゃないか」
跳ね起きた瞬間から、私の本能は絶え間なく警鐘を鳴らし続けている。
男の黒い瞳が、暗闇の中で爛々と輝いた。
「フォレスト家の至宝、聖女とやらは……貴様のことか?」
影が揺らめいた、と思った次の瞬間には、男は私の目の前にいた。
チャキリ、と硬質な音を立てて、鋭利な剣先が私の喉元へ容赦なく突き立てられる。
この男だ。ゼノス・グレイル。
戦場から戻ったばかりの彼は、漆黒の軍服に魔獣の返り血であろうどろりとした液体を浴びたまま、冷酷に私を見下ろしていた。
ベールも被っていない。
月明かりに照らされた左側――火傷の痕へ、彼の視線が僅かに流れる。
どこで誰に何を聞いたかは分からないが、ゼノスはこの奇妙な状況をすべて察しているのだろう。
「クリスティーナ・フォレスト。弁明とやらがあるのなら、この場で申せ」
私は喉元に刃を押し当てられたまま、本物の「クリスティーナ」のように静かに微笑んでみせた。
「……何も、ございませんわ」
彼にとって、偽物の正体などどうでも良いことなのだろう。
私にとっても、今の名前など何の意味も持たない。
「そうか。潔さだけは褒めてやろう」
ゼノスの瞳に、一切の躊躇はなかった。
ぶんと風を切る音がして、振り上げられた長剣が、私の細い首を一閃する。
(果たして死ねるだろうか。首を落とされるのは初めてだわ)
私はそれを、酷く他人事のように感じていた。
視界が、唐突に反転した。
切断された断面が、焼けるように熱い。
衝撃で、胸元に隠していたペリドットのネックレスが、しゃらりと虚しい音を立てて床へと転がった。
ぐらりと世界が揺れ、ずしゃりと音を立ててシーツの上へ倒れ込んでいく、「首を失った私自身」の身体が見えた。
(……ああ、神様はどこまでも私に救いを与えてはくれないらしい)
「あ、ああ、ぅあ゛っ……!! あ゛、あ」
喉を失っているはずなのに、私の奥底から、引き裂かれるような痛みによる絶叫がせり上がってくる。
床を汚しかけていた鮮血がぴたりと動きを止め、まるで時間を巻き戻すかのように、凄まじい勢いで首の断面へと逆流し始めた。
切断された筋肉が、血管が、骨が、意思を持つ生き物のように蠢いて互いを探し出し、結合していく。
ゴロリと転がっていた私の頭部は、次の瞬間には、まるで何事もなかったかのように元の位置へと戻っていた。
細い首筋に、ぐるりと一周、赤黒い一筋の傷跡が残されたのを除いては。
私はベッドの上に両手をつき、激しく酸素を求めながら噎せ返った。
やはり、この身体は――死ぬことすら、許してはくれないらしい。
パチ、パチ、と静まり返った部屋に、乾いた拍手の音が響く。
剣の血を無造作に拭いながら、ゼノス公爵は冷たく口角を上げた。その黒い瞳には、化物を見た恐怖など微塵もなく、ただ冷徹な好奇だけがぎらついている。
「……ほう。至宝ではなく、呪われた聖女だったか」
「げほっ、ごほっ……! はぁ、はぁ……っ」
繋ぎ合わさったばかりの喉から、掠れた呼吸が漏れ出す。
まだ再生の熱が残る首筋を、手袋を外したままの指先で強く押さえた。
やはり、死ねないのか。
首を撥ねられて、肉体を文字通り切断されてなお、私の身体は生きたいと呼吸を繰り返している。
多少なりとも期待はしたが、だが別段、絶望も無かった。
「なぜ、驚かないのですか」
私はベッドに両手をついたまま、剥き出しのペリドットの瞳で彼を見上げた。
彼は首に刻まれた赤黒い「死の痕跡」を、一瞥する。
だが、これほどの異常を目の当たりにして、この男は眉一つ動かさない。
ゼノス公爵は長剣を鞘へと収めると、床に転がっていた私のペリドットのネックレスを、軍靴の先で軽く小突いた。
「我がグレイル家が、この何百年、北の地で何と戦ってきたと思っている」
彼は冷ややかに私を見下ろし、吐き捨てるように言った。
「夜が訪れるたび、砦の向こうからは首を撥ねても動く魔獣や、心臓を貫いても再生する不死の怪異が押し寄せる。お前のその身体は不気味だが、この地においては『よくある脅威』の一つに過ぎん」
ゼノスは机に寄りかかり、腕を組んで私を値踏みするように見つめる。
「なるほど、合点がいった。フォレストの連中め、我が家を侮るのも大概にせよと思ったが……あやつらは最初から、お前という『処理の困る怪物』を我が家に押し付けるつもりだったわけだ。私が激昂してお前を切り刻むか、あるいはその異常性に目をつけ、生涯人目を忍ぶ実験体にでもすることを期待してな。どちらにせよ、あやつらの手は汚れん」
ゼノスの言葉は、マーサたちから聞いたフォレスト家の罪状、そしてお父様の思惑と完璧に合致していた。
私なら、どれほど残虐な死神に切り刻まれようとも死なない。
本物のクリスティーナを安全な南方に囲い込みながら、死なない盾を公爵家へ生贄として差し出すことで、フォレスト家は滅亡の危機を免れ、同時に目障りな不浄を合法的に処分できる。
どこまでも、どこまでも、あの家族は私を道具としてしゃぶり尽くすつもりなのだ。
胸の奥から、ドロリとした昏い感情がせり上がってくる。
それは悲しみではなく、あの血塗られた伯爵邸にいる全員を、奈落の底へ引きずり落としてやりたいという、狂おしいほどの憎悪。
「死にたがり、かつ死ねぬ子兎」
ゼノス公爵がゆっくりと私に近づき、ベッドの脇に落ちていたネックレスを拾い上げた。
「お前の願いは、本当に安らかな死か? それとも、お前をここに放り込んだ奴らへの復讐か」
「……両方よ」
私は声を隠すのをやめ、地を這うような私自身の声で、冷酷に言い放った。
ゼノスは冷たく口角を上げると「女狐だったか」と溢し、拾い上げたペリドットのネックレスを私のひざ元へと落とした。
「ならば、取引をしよう。偽物のクリスティーナ」
彼は私の前に屈み、白粉の剥げた醜い左顔を、冷たい指先で乱暴に、しかし確かにその存在を認めるようにゆるりとなぞった。
「お前をフォレスト家へ送り返し、不敬罪で奴らを今すぐ処刑するのは容易い。だが、それではあやつらは一瞬で楽に死ぬ。それでは退屈だろう? お前が我がグレイル家の『盾』として、その呪われた身体で北の地を護るというのなら、私はお前に、あの愚図どもを最も残酷に破滅させる『力』と『時間』を与えてやろう」
「私の道具となり、フォレストの血を、その絶望を、じっくりと味わい尽くすか?」
私は、ひざ元に落ちたペリドットを強く、壊れるほどに握りしめた。
首の傷跡が、まるで新しい契約の刻印のように熱く脈打っている。
(エボニー。ごめんなさい、私はまだ、あなたのところへは行けないわ。あの家を、お父様を、お母様を――全員地獄に道連れにするまでは)
私は淑女の笑みを浮かべて、死神の差し出してきた手を取った。
「ええ……喜んで。あなたの道具になってあげるわ、公爵閣下」




