漆黒の檻
馬車に揺られること、十余日。
南方の穏やかな気候は見る影もなく失われ、車窓の隙間から滑り込んでくる風は、刃物のように冷たく私の肌を削るようになった。
公爵領、北の果て。
そこは、人間が住む世界の境界線であり、魔獣を阻むための巨大な砦そのものだった。
フォレスト伯爵家が政争に敗れ、強大なグレイル公爵家へ「従属の証」として娘を差し出す――。
名目こそ「公爵閣下の婚約者」だが、その実態が、我が家が二度と刃向かわぬようにするための「人質」であり、いつ首を撥ねられても文句の言えない「捕虜」であることは、私自身が一番よく分かっていた。
「……お嬢様、到着いたしました」
御者の声には、貴族の令嬢を迎えるような敬意は微塵もなかった。
ただ、死神の生贄を送り届けた安堵と、早くこの不毛な地から去りたいという焦燥だけが滲んでいる。
ベールの隙間から外を覗くと、目に飛び込んできたのは、灰色の雲に覆われた空と、岩山を削り出して作られたかのような漆黒の城郭――グレイル公爵邸だった。
華美な装飾は一切ない。あるのは、敵を拒絶するためだけの冷徹な機能美だけ。
ガタリ、と馬車が止まり、扉が開けられる。
吹き込んできた痛烈な吹雪の中、私はクリスティーナとしての気品を保ちながら、上質な革の手袋に包まれた手で御者の差し出してきた手を掴み、ゆっくりと馬車を降りた。
城の重厚な鉄門の前には、数人の男たちと、白髪を厳格に整えた初老の執事が出迎えていた。
だが、その誰もが私を「未来の公爵夫人」としては見ていなかった。
格下の家から首を差し出しにやってきた哀れな生贄。
あるいは、いつ処分されるかも分からない厄介者。
そんな、侮蔑と憐れみが混ざり合った冷ややかな視線が、私のベールへと突き刺さる。
「ようこそおいでくださいました、フォレスト伯爵令嬢。私はグレイル公爵家が総執事、バルトと申します」
バルトと名乗った男は、事務的に一礼した。
「早速、公爵閣下へご挨拶を」と告げようとした、その時だった。
バルトがすっと右手を上げた。
「皆さん、この御方の持ち物を、全て検閲しなさい」
そう言うやいなや、後ろに控えていた数名の使用人たちが、馬車から降ろしたばかりのトランクを城の門前で乱雑に開き出した。
「……お嬢様、荷物はこれだけですか?」
バルトは、伯爵令嬢の嫁入り道具としてはあまりにもお粗末な、二つばかりのトランクが気がかりだったようだ。
ガサガサと音を立てて中身をひっくり返している使用人たちの手元をちらりと一瞥し、こちらへと視線を戻してくる。
私はベールの下で、にこりと淑やかに微笑みながら答えた。
「ええ。こちらに早く慣れるようにと、お父様が必要最低限の嫁入り道具にしなさい、と」
「そう、ですか」
バルトは一瞬だけ目を細めたが、何事もなかったかのように表情を戻した。
衣服が冷たい石畳の上へ無造作に広げられていく。
私はその光景を見つめながら、鈴を転がすようなクリスティーナの声を真似、小さく声を上げた。
「それはそうと、これは些かやり過ぎではございませんか?不敬罪に当たるのでは?」
これではただの罪人ではないか。
城の中に入れてもらうこともできず、不衛生な門前で、仮にも主人の妻となる者の私物をこのように扱うのは、あまりにも無礼が過ぎる。
しかし、バルトは眉一つ動かさず、むしろ冷酷な現実を教え込むように言葉を重ねた。
「不敬、ですか。お嬢様、勘違いをなさらないでいただきたい。この度の婚姻は、フォレスト家が我がグレイル公爵家へ無条件の服従を誓ったからこそ成されたもの。貴女様は『婚約者』という名の人質なのです。いつお首が撥ねられても文句の言えない立場であることを、お忘れなきよう」
バルトの瞳には、南方の弱小貴族に対する底冷えするような見下しが宿っていた。
「それに」
バルトは一拍置き、猛吹雪の向こう、禍々しくそびえ立つ城のさらに奥を冷ややかに見つめた。
「本日は閣下へご挨拶をなされる必要もございません。北の結界が揺らぎ、魔獣どもが押し寄せておりますので、昨日から前線へ戦いに出向かれております」
「戦いに、ですか」
「ええ。閣下にとって、この度の婚姻はただの『形式』に過ぎない。我が公爵家がフォレスト家を従属させたという事実に意味があるのであって、お嬢様がいつ来られるかなど、閣下の関心の外なのです」
冷徹なまでに明快な事実。
この結婚に何の意味もないことを、グレイル公爵は完全に理解している。
だからこそ、形ばかりの婚約者が到着する日であっても、平然と魔獣の討伐を優先して城を空けるのだ。
「お荷物の検閲は終わったようですな。……では、お部屋へ案内いたします。閣下がいつ戻られるかは分かりませんが、お戻りになり次第、即座にご挨拶へ向かっていただきます。そのおつもりで」
「ええ、分かりましたわ」
バルトの言葉に、お淑やかに小さく頷いてみせた。
旅の疲れを癒やす時間など与える気はない、ということだろう。
閣下がお戻りになり次第、すぐに私を引き合わせ、その器とフォレスト家の出方を値踏みするつもりなのだ。
バルトの背中に続く廊下は、石造りの壁から芯のような寒さが染み出していた。
すれ違う使用人たちも、頭を下げることはなく、あからさまなほど不躾な視線を投げかけてくるだけ。
(……お父様はグレイル家に一体何をしでかしたのだろう。これは思っていたよりも悪い状態だわ)
案内されたのは、城の最上階の隅にある、驚くほど簡素で冷え切った部屋だった。
フォレスト家の客間よりも圧倒的に作りは広いが、調度品が一応置いてあるだけで、クリスティーナへの歓迎の意など微塵も感じられない。
まさに「人質を閉じ込めるための檻」そのものだ。
城の最上階にこの部屋が位置するのも、人質を簡単に逃げ出させないために設計されたからだろう。
つくづく、戦に特化した城だなと認識する。
「では、私はこれで。用があれば呼び鈴を。……差し出がましいようですが、クリスティーナ様の侍女は、いらっしゃらないのですか?」
バルトは怪訝そうに眉を寄せ、自身の髭を一撫でした。
侍女など、私にあの人がつけるはずがない。
今日の朝まで、毎日朝方にやってくるメイドらしき人間が、ご丁寧にもドレスと髪のセットだけを施し、一言も話すことなく去っていったのだ。
人目のつかない時間帯に、口の堅い人間だけを使い、私を「クリスティーナ」へと作り替える。
酷く効率も金銭面も悪いが、それだけのコストを掛けてでも、秘密を隠し通すためにこうするべきだと判断したのだろう。
「侍女も先の件と同じ理由ですわ。新たな地で孤立しないよう、クリスティーナなら新たな使用人達とも仲良く出来るだろう、とお父様からのご指示でして」
ふふ、と口元に手の先をやり、可憐で馬鹿なふりをする。
何も知らない、純真無垢な子兎。
グレイル公爵家に嫁いで来たのは、手の上の駒にもならないような、無知で無垢な憐れな子兎。
そんな噂が、この公爵家中に広がればいい。
そうすれば、この屋敷の誰か彼かが、僅かにでも慈悲を与えてくれるはずだ。
前の家《フォレスト家》でも、そうやって生き延びてきたように。
バルトが去ってから、最初の試練はすぐに訪れた。
旅の汚れを落とすため、そして部屋に用意された衣服へ着替えるために、グレイル家のメイドが二人、部屋へと入ってきたのだ。
「お嬢様、お付きの侍女がいらっしゃらないとお聞きしましたので、私共が一時的ではございますがお嬢様付きを務めさせていただきます」
どちらも北の過酷な環境で育ったからか、南方のメイドたちのように軽薄な噂話に興じる様子はなく、無表情で淡々と私のドレスの編み上げを解き始めた。
重い生地が床へと滑り落ち、コルセットが外される。
その瞬間、細すぎる身体を誤魔化すために押し込んでいた詰め物が、ぼとりと音を立てて足元に転がった。
「……っ?」
二人の視線が怪訝そうに落ちた詰め物に移り、そして私の背中へと戻ったとき――メイドたちの動きが、同時にピタリと静止した。
部屋の冷たい空気が、一瞬で凍りついたのが分かった。
私はベールの下で、静かに溜息を吐き出した。
(早かれ遅かれ、こうなることは分かっていたわ。思ったより少し早かっただけよ)
メイドたちの目前、剥き出しになった背中には、無数の、ただれて引き攣った凄惨な火傷の痕が、醜く広がっていた。
「失礼致します」
あまりの異様さに、一人が弾かれたように私の手袋を剥ぎ取り、ベールを外す。
そこに現れたのは、骨が浮き出した身体に手入れがされていない、ひび割れてボロボロになった手指。
そして、厚塗りの白粉でも隠しきれない、左顔の凄惨な火傷の痕だった。
それが、社交界の華と謳われるフォレスト伯爵家の「至宝」の正体だ。
「……っ!」
メイドたちの瞳に、明らかな動揺と不審、そして恐怖にも似た衝撃が走る。
当然だ。
格下の家から差し出された人質とはいえ、目の前にいるのは「至高の美姫」などではなく、どこからどう見ても、手荒く扱われ、虐待され続けてきた「まがい物」なのだから。
一人がたまらず、この異常事態をバルトへ報告するために扉へと足を向けようとした。
「――待って」
淑女らしく穏やかで、けれど芯に冷徹さを孕ませた声で呼び止めた。
そしてトランクの底から、大粒のダイヤモンドが嵌められた花の形を模したブローチを取り出した。
お父様が本物のクリスティーナのために誂えたものだ。
今回の「生贄の旅」に必要であろうと、私が密かに盗み出してきた、フォレスト家本物の至宝。
それを、部屋を出ようとしたメイドの手のひらに、無理やり握らせた。
「お、お嬢様……これは……?」
メイドは戸惑い、差し出された目の眩むような宝石と、私の火傷だらけの姿を交互に見つめた。
「お願い。このことは、ゼノス様にお会いするまで、どうか内緒にしておいて。……バルト様にも、他の方にも、絶対に」
私は口元にそっと手を当て、目元を涙で濡らす「哀れな子兎」の瞳を作って見せた。
「お父様は……私がこの地で孤立しないようにと、全てを私に委ねてくださいました。けれど、もしこの傷のことが閣下に知られれば、私はお会いすることすら叶わず、追い返されてしまうかもしれないわ……。そうなれば、フォレスト家は滅びてしまう。お願い、一度だけでいいの。閣下に直接お会いしてお話しする機会を、私にくださいな」
ふふ、と心の中で冷笑する。
実家のために身を粉にし、これほどの傷を負いながらも、公爵の慈悲を信じて縋ろうとする健気な生贄。
前の家でも、エドワーズの側近だったオリバーがそうであったように。
どれほど冷徹に教育された使用人であっても、この極限の「哀れみ」と「目の前の巨万の富」を同時に差し出されれば、僅かな慈悲が、あるいは欲が、理性を上回るものだ。
メイドたちは、握らされたブローチの重みと、私の必死な眼差しに気圧されたように、ごくりと息を呑んだ。
やがて、二人は視線を交わし、静かに頭を下げた。
「……承知いたしました、クリスティーナ様。ゼノス様がお戻りになるまでは、私どもの胸に留めておきます」
「ありがとう。あなたたちのような優しい方に会えて、私、救われたわ」
私は満面の笑みを浮かべて見せた。
その後、静かに湯船に浸かり、再び一人になった部屋で、私は白粉を手に取った。
隠しきれない傷だと分かっていても、ゼノス公爵の前に出るその瞬間までは、完璧な「クリスティーナ」の仮面を貼り付けておかなければならない。
(これで彼が戻るまでは、私の正体は誰にも露見しないはず……)
フォレスト家がしでかした不祥事の全貌はまだ見えない。
けれど、この城の人間たちの冷遇、そしてメイドたちの動揺を見るに、あの家は私が思っていた以上に崖っぷちに立たされている。
私は再び白粉を肌に叩き込みながら、明日からの計画を練り始めた。
騙し討ちの生贄として放り込まれたこの檻で、私は私のやり方で、まずは足場を固めてみせよう、と。




