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回想『死出の愛』

リリーは三日三晩、死の淵を彷徨った。


二日目の夜、往診に来た医師は、傍らで祈り続けるエボニーに「今夜が山場だろう」と冷淡に告げた。しかし、幼い少女の生命力は、周囲の絶望よりも遥かに強靭だった。彼女は暗い淵を這い出し、四日目の朝、ついにその瞳を開いた。


「ぅ……あ……」

「っ! ああ、神様……! ありがとうございます、ありがとうございますっ!」


エボニーは涙を溢れさせ、ベッドに横たわるリリーの小さな右手を、砕けんばかりの力で握りしめた。


あの惨劇の夜。

騒ぎを聞きつけたエドワーズと執事たちは、狂乱するレイチェルからリリーを引き剥がした。エドワーズは、離れの別宅にいたエボニーを呼び戻すと、大火傷を負って泣き叫ぶ娘を毛布で無造作に包み込んだ。


「死んでも構わん。こいつをレイチェルの目に入らない場所へ連れて行け」


それは実の娘に対する言葉とは思えない、まるで汚物を掃き出すかのような所作だった。エドワーズからリリーを「物」のように手渡されたその日から、エボニーは別宅で世間の目を盗むようにして、リリーを育て始めたのである。


あの日を境に、フォレスト伯爵家において「リリー」という娘は死んだことになった。

レイチェルの精神は完全に崩壊し、自分にとって都合の悪い真実を記憶の底へ葬り去った。エドワーズもまた、自らの犯した過ちから逃避し、妻の狂気じみた妄想に同調することを選んだ。

「リリーなど最初からいなかった。我が家にいるのは、愛らしいクリスティーナだけだ」

三歳のクリスティーナもまた、両親による執拗な刷り込みの中で、かつて共に笑い合った双子の姉の存在を完全に忘却していった。


しかし、偽りの平穏は長くは続かなかった。


――あれから二年。

「娘が死んだ」ことで世間からは同情が集まり、その悲劇を糧にするようにして伯爵家としての格、そして妻であるレイチェルの社交界での立場が昇華し始めたのだ。そのおかげか理性を保ち始めた妻と、何も知らず健やかに育つクリスティーナ。エドワーズにとって、その「完璧な幸福」を汚す唯一の生き残り――リリーの存在は、もはや許しがたい不浄となっていた。


五歳になったリリーは、ある春の日、別宅の裏庭で独りシロツメクサを編んでいた。「日中は外に出てはいけない」というエボニーとの約束を、退屈に負けて破ってしまったのだ。エボニーは今、本邸でクリスティーナの世話をしている。

小さな指先でシロツメクサを束ねていた、その時だった。

背後の茂みで、ガサリと不吉な音が鳴る。リリーが振り返るよりも早く、空を切り裂く鋭い音が響いた。


「――っ!」


衝撃と共に、リリーの小さな身体が後ろへと吹き飛ぶ。右肩に突き刺さった矢から、どろりと熱い鮮血が溢れ出した。追撃の二の矢が、容赦なく放たれる。狙いは、倒れ伏したリリーの胸元。

――グサリ。

手応えは確実だった。しかし、その矢が彼女の命を散らすことはなかった。


放たれた矢から始まった暗殺の試みは、やがて食事に盛られる毒へと変わっていった。

だが、リリーの体は異常だった。どれほど血に塗れようとも、どれほど劇薬を煽ろうとも、彼女から生命が失われることはなかった。その様子に、往診した医師は「聖女の器ではないか」とエボニーに耳打ちしたが、これ以上の注目はリリーをさらなる窮地へ追い込む。そう確信していたエボニーは、医師に多額の口止め料を握らせ、その事実を闇に葬った。


八歳の時、リリーは悟った。

どれだけ泣き叫ぼうとも、どれだけ神に願おうとも、あの温かな「家族」に戻れる日は二度と来ないのだと。それから十歳になるまで、彼女は別宅の屋根裏部屋に、息を潜めるようにして閉じこもった。


十歳の誕生日の夜、エボニーはリリーのために、ささやかな祝いの席を設けた。


「エボニーから、私だけの小さなお姫様へ」


差し出された小さな箱には、リリーの髪色と同じ、透き通るような白金色のシフォンリボンが掛けられていた。蓋を開けると、そこには一粒のペリドットが輝くネックレスが収められていた。


「リリー、これはね、あなたの石なのよ。あなたが生まれてきてくれた幸せを願う、希望の石なの。私は、あなたがこの世に生を受けてくれたことが、とても幸せなのよ。たくさんの幸せをありがとう」


しゃらり、と涼やかな音を立てて首に掛けられた石の重みを感じながら、リリーは涙が枯れ果てるまで泣いた。生まれて初めて、剥き出しの、真っ直ぐな愛に触れたからだ。


だが、運命はどこまでも非情だった。


ガタガタという不穏な物音と、引き裂くような悲鳴。

屋根裏部屋でまどろんでいたリリーは、心臓を鷲掴みにされたような予感に跳ね起きた。裸足のまま一階の寝室へ駆け込んだ彼女を待っていたのは、冬の月光よりも冷徹な殺戮の光景だった。


「……あ、…………」


床には、つい先ほどまで自分を抱きしめてくれたエボニーが倒れていた。純白の寝衣は、胸元に突き立てられた剣から溢れ出す鮮血によって、見る間にどす黒く染まっていく。

傍らには、返り血を浴びたエドワーズが立っていた。彼は剣の脂を無造作に振り払い、リリーへ視線を向けた。その瞳に宿っているのは後悔などではなく、害虫を仕留め損ねた時のような底冷えする嫌悪だった。


「……執念深い女め。毒も効かぬ、矢を放っても死なぬ。ならば、この手で確実に仕留めるしかないと思っていた。だが――この女が邪魔をした。貴様の代わりに、この女が死ぬのだ、リリー」

「……あ、あ、あああああああ!!!」


リリーは叫び、エボニーのもとへ縋り付こうとした。しかし、その細い首をエドワーズの手が掴み上げ、壁へと叩きつける。


「いいか、リリー。お前は今日、死ぬ。……だが、お前の肉体にはまだ使い道があるかもしれない。……そうだ、お前は『死なない』のだからな」


エドワーズの腕に力がこもり、リリーの意識が混濁していく。薄れゆく視界の端で、エボニーの手が微かに動いた。彼女は最期の力を振り絞り、震える指先でリリーの首元――ペリドットのネックレスに触れようとした。


(……生きて……リリー……幸せに……)


声にはならなかった。けれど、その瞳に宿った最期の光は、確かにそう告げていた。

音にならない願いを遺し、エボニーの瞳から光が消えた。

自分を愛してくれた唯一の光が、自分の身代わりに、冷たい床の上で息絶えた。

リリーの心は、肉体の死すら拒絶する呪わしき生命力を糧に、深い深い絶望の淵へと沈んでいった。

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