鏡の中の断罪
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ベッドの上で、私は一度だけ大きく息を吐き出した。
握りしめていたペリドットのネックレスは、私の体温を吸って、じっとりと熱を帯びている。
重い腰を上げ、エボニーがいつも優しく髪を梳いてくれた鏡台へと近づいた。
たかが六年、されど六年。
フォレスト家という名の檻に繋がれ酷使され続けた身体は、心身ともに限界を迎え、ボロボロに朽ちていた。
鏡の中に映る、茶色い髪をしたみすぼらしい少女。
私はその姿を認めると、喉の奥から這い出すような嘲笑を漏らした。
連日の水仕事のせいで指先はひび割れて荒れ、安物の染料で染め続けた髪は、艶を失いギシギシとごわついている。
与えられる食事はメイド以下の質素なもので、身体は痛々しいほどに痩せ細り、何不自由なく育ったクリスティーナよりも二回りも小柄だ。
何より、内側に飼い慣らした憎悪が表に滲み出しているのだろう。
クリスティーナと同じはずの瞳は、彼女のそれよりも鋭く、目尻が険しく吊り上がっていた。
掠れた笑い声が、誰もいない部屋に虚しく響く。
これを見て、誰が伯爵家の高貴なお嬢様だと思うだろうか。
鏡の中の自分、その痩せこけた頬にするりと手を当てた。
髪の色を戻したところで、肌や唇のかさつき、ましてや凄惨な火傷の痕に気づかないほど、公爵家の使用人たちは愚かではない。
白粉で塗り固めたところで、その不自然さは早晩露呈するだろう。
(お父様。愛するクリスティーナを守るために、私を地獄へ送ったつもりでしょう?)
けれど、その場凌ぎの杜撰な計画なんて、長くは持ちはしない。
私はその綻びが露わになる時を、ただ静かに待つだけだ。
もし「身代わり」が露見し、反逆罪で一家全員が晒し首になるというなら、それもまた悦楽だ。
鋭い刃で首を撥ねてしまえば、流石のこの「死ねない身体」も、ようやく永遠の眠りにつけるだろう。
私は握っていたペリドットを鏡台の上に置いた。
カラン、という小さな音が、決別の合図のように聞こえた。
さあ、最期の「リル」としての汚れを落としましょう。
私は冷え切った身体を引きずりながら、静かに風呂の準備を始めた。
湯船から上がり、湿った重い身体を引きずって再度鏡台の前へと座る。
鏡の中にいる自分と、これほど長く視線を合わせるのはいつぶりだろうか。
ふと、窓の外から伝わる微かな足音に意識が向く。
毎日毎日、この別宅には見張りがついていた。
逃げ出さないためか、それともこの「不浄」を外に出さないためか。
見張りをつけるくらいなら、いっそ本邸の地下にでも閉じ込めておけば良かったものを。
わざわざ離れに軟禁してまで生かしておいたのは、やはりこの「予備」としての価値を損なわないためだったのだろうか。
まあ、今となってはどうでもいいことだ。
本来の白金色に戻った髪に、見張りの男から渡された香油を塗り込む。
指先に絡みつくその香りは、嫌になるほどクリスティーナと同じ匂いがした。
ついでに、痩せ細った身体にもそれを塗り込んでいく。
毎日、私が跪きながら丁寧にクリスティーナの肌へ塗り込んでいた香油。
それをまさか、自分自身に塗り付ける日が来るなんて。
皮肉を通り越して、笑いすら込み上げてくる。
ポタリ、ポタリと、髪から雫が落ちて床を濡らす。
塗り込んだ髪を再度タオルで巻き込み、きつくまとめ上げた。
そして露わになった顔に、クリスティーナと同じ化粧水を叩き込み、同じクリームを塗り、その上から白粉をはたく。
「……馬鹿馬鹿しい」
ふと、白粉を伸ばす指が止まった。
鏡の中の自分は、相変わらず私だった。
厚く塗り固めたところで、引き攣った火傷の痕が消えるわけでも、鋭く吊り上がった瞳が穏やかになるわけでもない。何も隠せてなどいない。
だが、不思議と焦りも心配もなかった。
どうせ公爵領に着くまでは、厚いベールで顔を隠し通すのだ。荒れ果てた手は上質な手袋で隠れ、艶を失った髪も、香油の力でそれらしく見えるだろう。
私は再び指を動かし、作業を再開した。
「クリスティーナ」を作り上げるための、虚飾の作業。
この仮面が剥がれる時、私の命が尽きるのか、それとも新しい地獄が始まるのか。
どちらにせよ、私はもう、逃げる場所も無い。
ドレスを身に纏う段階になると、流石に一人では無理があった。
部屋に入ってきた侍女長によって、私は無機質に「クリスティーナ」へと作り替えられていく。
彼女の手は相変わらず冷たく、事務的だった。
クリスティーナより二回りも痩せ細った私の体に、何枚もの詰め物をし、コルセットを限界まで締め上げる。
肺が圧迫され、浅い呼吸しかできなくなる感覚が、たとえ場所が変わっても、私はこれからも囚われの身でしかないのだと予感させた。
支度が整った頃、部屋の扉がノックされた。
現れたのは、父――閣下の代わりとして遣わされた、執事のオリバーだった。
「お迎えの準備が整いました。……リリーお嬢様」
その呼び名に、一瞬だけ指先が跳ねた。
閣下の名代として、見送りに来たという。
実の父は、身代わりを送り出すその瞬間まで、私の前に姿を見せることさえ拒んだのだ。
侍女長が部屋を辞し、二人きりになった刹那。
オリバーは深く、これまでの人生のすべてを詫びるように頭を下げた。
「……申し訳ございません。貴女様を守る術を持たず、このような過酷な道へ送り出す不甲斐なさを、どうかお許しください」
オリバーはこの屋敷で唯一あの夜を知り、閣下の側近でありながら、影で私を気遣ってくれた人だった。
誰もいない深夜、エドワーズに火かき棒で焼かれた私の背に、震える手で軟膏を塗ってくれたのは彼だった。
メイドたちの残飯を啜る私に、隙を見て「余り物ですから」と、クリスティーナが残した甘いデザートをこっそり食べさせてくれたのも、彼だった。
「謝らないで、オリバー。……あなたの優しさに、どれほど救われたか分からないわ」
私は手袋に包まれた手で、彼の肩にそっと触れた。
背中につけられた火傷の傷が疼いた気がする。
けれど、今の私の話し方は、クリスティーナに似せたそれだった。
「あちらでは……グレイル公爵家では、どうか御身を大切になさってください。貴女様の無事と、いつの日か心安らぐ時が来ることを、私はこの地で祈り続けております」
「祈りなんて、神様は聞いてくださらないわ。エボニーが死んだ時に、もう分かっているもの」
私は冷たく微笑んだ。
オリバーは悲しげに目を伏せ、震える手で私に厚いベールを被せた。
「さあ、お行きなさい。……リリー様」
その、最後かもしれない慈しみに満ちた呼び声を背に受け、私は歩き出した。
背中に残る軟膏の、微かな薬草の匂いが鼻をかすめる。
それが、この血塗られた屋敷で私が受け取った、最後の温もりだった。
朝靄の中、私は別宅の階段を降り、公爵家の馬車へと向かった。
一度も振り返ることなく。
オリバーの祈りなど、きっと届きはしない。
けれど、その小さな優しさの記憶だけが、北の雪原へと向かう私の胸の奥で、唯一消えない残り火のように燻り続けていた。




