回想『名前が失われた日』
リリーが意識を取り戻したのは、頭上から浴びせられた氷のような水の冷たさゆえだった。
「……っ! げほっ、かはっ……ぅ、ぁ」
激しく噎せ返り、酸素を求めて蠢くリリーの顎を、エドワーズ・フォレストは力任せに掴み上げた。
無理やり顔を持ち上げさせられたリリーの瞳に、逃げ場のない至近距離から、実の父の冷徹な言葉が突き刺さる。
「呪われた子よ。これからお前を生かす代わりに、クリスティーナの侍女になってもらう」
朦朧とする意識の中で、リリーは必死にその言葉を理解しようとした。
侍女。
あの日まで共に笑い合っていたはずの、双子の妹の影。
「髪は茶色く染め、忌々しい目と傷はその長い前髪で隠せ」
「それから、私のことは閣下と呼べ。お前は孤児院から貰い受けた子として、フォレスト家に尽くすのだ。赤の他人として、その命を救われた忠誠をもってな」
「分かったな」と無言の圧力を吐き捨てると、エドワーズは汚物に触れた後のように雑に手を放した。
リリーは虚ろな瞳のまま、力なく床に項垂れた。
目に映るのは、薄暗く灰にまみれた冷たい石畳だけ。ここが屋敷のどこなのか、これから自分に何が起きるのか、もはや彼女にとってはどうでもいいことだった。
エボニーが死んだ。
リリーにとって唯一の光、唯一の拠り所だった乳母。
(私のせいで死んだ。……私が殺した)
その自責の念だけが、冷えた身体の奥底で燻り続けている。
――生きる意味など、あるのだろうか。
これほどまで辱められ、泥を啜ってまで、生きなければならないのか。
……それ以前に、自分は死ぬことさえ許されないのだろうか。
部屋の扉が開き、エドワーズと入れ替わるように、侍女長と呼ばれる女性が入ってきた。
あの惨劇の夜を境に、エドワーズの執事を除いた屋敷の使用人はすべて入れ替えられていた。
過去を知る者は、もうこの家にはいない。
侍女長に引き摺られるようにして、リリーは仄暗い地下室から階段を登り、地上へと出た。
生まれてから一度も存在さえ知らされなかった、奈落のような地下室。
連れて行かれた浴室で、汚れた身体が無機質に拭われていく。
そして、その頭には、粘ついた茶色の液体が容赦なく流し込まれた。
侍女長は一言も発さない。
慈しみも嫌悪もなく、ただ目の前の「物品」を加工するかのような、事務的で冷淡な手つきだった。
かつてエボニーが愛おしそうに梳いてくれた白金色の髪は、どこにでもある平凡な茶色に染め変えられた。
伸び切っていた前髪は、火傷の痕とペリドットの瞳を隠すように、鼻のあたりでざくりと切り落とされた。
鏡を見るまでもなかった。
そこにいるのは、リリーではない。
名前を奪われ、過去を消され、ただ「生かされている」だけの、無色の侍女。
濡れた茶色の髪が重く首筋にまとわりつく中、少女はただ、自身の影が伸びる冷たい床を凝視し続けていた。
それからの日々は、彼女にとって生き地獄以外の何物でもなかった。
自分という存在がこの世から消え、誰も自分の正体を知らないという現実を、一分一秒突きつけられるからだ。
「クリスティーナ、お前の侍女を連れてきたよ」
エドワーズの声に促され、リリーは一歩前へ出た。
あらかじめ用意されていた黒のメイド服に身を包み、あらかじめ用意されていた偽りの言葉を喉の奥から絞り出す。
「……はじめまして、お嬢様。本日からお嬢様付きの侍女として参りました、リルと申します」
その背後に控えるレイチェルは、まるで汚らわしいものを見るような目でリリーを一瞥し、冷ややかに言い放った。
「……まあ貴方、なんですか。クリスティーナに相応しくないほどに、みすぼらしいわ」
かつて自分を腹を痛めて産み、慈しんだはずの母。
その口から出たのは、実の娘へのあまりにも残酷な拒絶だった。
エドワーズは冷淡な顔を崩さず、妻を宥めるように言葉を添える。
「そう言うではない。孤児院から引き取ったのだ。フォレスト家に恩こそあれ、不忠を働くことはないだろう」
「……そう。まあいいわ。クリスティーナにさえ害がないのであれば」
二人の会話を遮るように、クリスティーナが天真爛漫な声を上げた。
「もう、お父様にお母様ったら! リル、私は貴女と仲良くなりたいわ!」
リリー、いや、リルは頭を下げたまま、血が滲むほど唇を噛み締めていた。
誰も、リルの正体には気づかない。
鏡合わせのようにクリスティーナに似ているはずの口元が覗いているというのに、誰もその類似に目を向けようとはしなかった。
悲しみが毒のように胸を突き刺す。
その時、エドワーズの手がリルの背に添えられ、脇腹をぎりりと抓り上げた。
――お前は侍女だ。恩を噛み締め、フォレスト家に尽くせ。
洗脳のように叩き込まれた脅迫が、耳の奥で蘇る。
リルは反射的に、奴隷が命乞いをするかのように深く、深く頭を下げた。
「勿体ないお言葉です、お嬢様。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
それから、リルの生活はクリスティーナを中心に回り始めた。
侍女としての雑務はもちろん、遊び相手、食事のマナーの練習台、果ては学問やダンスの練習相手まで。
その役割はもはや侍女の域を遥かに超えていたが、リルはすべてを完璧にこなした。
いや、なさねばならなかった。
リルが出来なければクリスティーナが泣き、クリスティーナが泣けばレイチェルが癇癪を起こす。
そしてそのすべての責任は、常にリルに押し付けられた。
エドワーズは、何かにつけてリルの背に火かき棒を押し当てた。
最初は教育のため、やがてそれは、自らの不満をぶつけるための卑劣な憂さ晴らしへと変わっていった。
それでもなお、リルは侍女として、クリスティーナの傍らに寄り添い続けた。
この子は何も知らないのだ。
自分の頬を焼いた火の熱さも、乳母が殺された夜の月光も、この家の地下に広がる泥濘のような暗闇も。
「この子は無垢なのだ」
リルは自分にそう言い聞かせ、呪文のように繰り返した。
無垢で、何も知らないからこそ、あまりにも残酷で、あまりにも汚らわしい。
そんな妹の影として、リルは自らの心に幾重もの鍵をかけ、ただ静かに時を過ごしていった。




