太陽の影
深夜の書斎。
ここへ足を踏み入れるのは、十歳の、あの凍えるような冬の日以来だった。
深夜、片付けに追われていた私に、父の執事であるオリバーが告げた事務的な呼び出し。それがなければ、私にとってこの部屋は、一生開くことのない重厚な壁の向こう側でしかなかったはずだ。
室内は、昼間の華やかな祝祭が嘘のように静まり返り、冷え切っていた。
デスクの奥に座る男の顔に、クリスティーナを抱きしめていた時の穏やかな父親の面影は、微塵も残っていない。
ランプの灯に照らされているのは、愛娘へ贈られた宝石やドレスの領収書ではなく、家門の存続を乞うための、惨めな降伏文書。
そして、クリスティーナの名が記された――「譲渡証書」だった。
「公爵家に嫁いでもらう」
父親は、私の顔を見ることすらなく、淡々と告げた。その声は、古びた道具の処分を決める時のように、あまりにも無機質だった。
「相手は北の魔獣を阻む砦だ。敗戦の代償として、我が家から娘を一人、差し出さねばならん。実質人質となるのだから、クリスティーナを地獄へと送るわけにはいかないからな」
私は、黙って下を向いた。
肩を震わせる私を見て、この男は、私が絶望に打ちひしがれているとでも思っただろうか。
茶色く染めた前髪の奥。伏せられた私の口元には、抑えきれない嘲笑が浮かんでいた。
この薄情な父親に対してだろうか。それとも、そんな男の血を引いている自分自身に対してだろうか。
ああ、そうだったのね。
納得がいったわ。
なぜ、今日までこの屋敷の隅に生かしておいたのか。
この人は、六年以上前から分かっていたのだ。
いつか、愛する「太陽の娘」に耐え難い不運が訪れたとき。
彼女の代わりに地獄へ放り込み、彼女の代わりに泥を啜らせるための、都合の良い「予備」が必要になる日が来ることを。
「……承知いたしました、閣下」
震えることもなく、私の唇は滑らかに動いた。
驚きも、悲しみも、もはや湧いてはこない。私の心は、この冷え切った書斎の空気と同じ温度になっていた。
「髪の色は戻せ。傷跡に関してはどうしようもできまい。……まあ、あの野蛮な獣共にはお似合いであろう。いいな、あちらでは二度とリル、いや、リリーの名を口にするな」
父は吐き捨てるように言った。
「了解いたしました」
私は深く、深く頭を下げた。
リリー。
この屋敷で、私を「一人の人間」として呼ぶ者は誰もいなかったけれど。
かつて屋敷の裏庭で、名もなき花を摘んでいた私を、誰かがそう呼んでくれたような気がした、その忌まわしくも愛おしい名。
それを捨てて、私は完璧な「クリスティーナ」になる。
おめでとう、クリスティーナ。
あなたはこれからも、その白く柔らかな肌に傷一つ負うことなく、幸福な夢を見続けていればいい。
あなたは何も知らず、あなたの受けるはずだった絶望も、すべて私がこの火傷の痕と一緒に、北の果てまで持っていってあげる。
姉からの最後の誕生日プレゼントよ。
私は音もなく、深夜の廊下へと出た。
窓から差し込む冷たい月光が、私の歪な半分を照らし出していた。




