回想『幸福のペリドット』
伯爵家の長男、エドワーズ・フォレストと、同じく伯爵家の令嬢レイチェル・トリデン。
二十7歳と十八歳という若さで結ばれた政略結婚ではあったが、二人の仲は睦まじく、結婚から一年三ヶ月が過ぎた頃には、新しい命が宿った。
しかし、それは幸福の絶頂ではなく、狂気へと続く扉だった。
「奥様、胎動が二つございます」
「ああ、なんてこと……」
医師の言葉に、レイチェルは血の気を失った。
この時代、双子は「不貞の証」あるいは「悪魔を呼び寄せる不吉」として忌み嫌われていた。
医師からは当然のように堕胎を勧められたが、レイチェルは首を縦に振らなかった。
エドワーズの猛反対を押し切り、彼女は自らの命を削るようにして二人の女児を産み落とした。
父親譲りのペリドットの瞳を持つ、姉のリリー。
母親譲りの黄金の瞳を持つ、妹クリスティーナ。
レイチェルは周囲の母親と同じように、二人を慈しみ、掌中の珠として育てた。
使用人だったエボニーを乳母に迎え、嵐の前の静けさのような、穏やかな日々が過ぎていった。
だが、その平穏は砂上の楼閣に過ぎなかった。
双子が二歳になった頃。
伯爵邸で開かれた茶会で、その亀裂は決定的なものとなる。
「レイチェル様、素晴らしいですわね。双子をお育てになるなんて、並大抵の覚悟ではございませんでしょう?」
まだ二十歳になったばかりの世間知らずなレイチェルは、向けられた言葉の裏にある猛毒に気づかなかった。
「いえ……本当に育てやすい、良い子たちなのです。夫もよく手伝ってくれますし、この前も……」
頬を染めて語るレイチェルの姿に、令嬢たちは扇子の陰でくすくすと忍び笑いを漏らす。
耐えかねた一人が、ついに嘲笑を剥き出しにして言い放った。
「あははっ! レイチェル様、本当に何もご存じないのね。貴女、社交界では有名よ? 『悪魔を産み落とした売女』としてね」
耳を疑う言葉に、レイチェルの思考は停止した。
怒ることも、泣くこともできない。
ただ、周囲から降り注ぐ冷ややかな笑い声だけが、鋭い針のように彼女の心を突き刺した。
その日を境に、レイチェルの世界は暗転した。
社交界に出れば後ろ指をさされ、かつて優しかったエドワーズさえも、「双子のせいで事業が傾いた」と彼女を疎むようになった。
孤立無援の中、レイチェルの心は、かつての面影を失うほど急速に荒んでいった。
乳母のエボニーだけが、部屋に閉じこもり育児を放棄したレイチェルの代わりに、懸命に双子を守り続けた。
夫のライアンから何度も辞めるよう叱責されても、懸命に生きる子供たちを見捨てることなど、彼女には到底できなかった。
そして、双子が三歳になった冬の、酷く冷え込む夜のこと。
元々寝付きの浅かった姉のリリーが、深夜にふと目を覚ました。
幼いリリーは冷え切った子供部屋を抜け出し、リビングの暖炉の前へと向かった。
赤々と燃える火を見つめ、エボニーがいつも歌ってくれる子守唄を、覚えたての拙い言葉で口ずさむ。
「……ねんねん、ころり……」
それは、冬の夜風に消えてしまいそうなほど小さく、愛らしい歌声だった。
けれど、幼い彼女は気づかなかった。
背後から、烈火のごとき殺気を孕んで近づいてくる影に。
「がっ……!」
突然、リリーの視界が不自然に揺れた。
ガタンッ、と鈍い音が響き、彼女の小さな身体は冷たい床へと叩きつけられる。
何が起きたのか分からず、肩に食い込む指の痛みに顔を歪めたリリーの目に、久しく見ていなかった「母」の顔が映った。
「……かあ、さま……?」
その声に、レイチェルの肩が大きく跳ねた。
「……ぁ、ぁあ、あああああああぁぁぁ!!!」
それは、もはや人間の発する声ではなかった。
髪を振り乱し、鬼の形相で絶叫したレイチェルは、リリーの肩を掴んだまま、何度も、何度も硬い床に打ち付けた。
「あんたのせいで……! あんたたちのせいで、私はっ!!」
狂乱するレイチェルの瞳から、大粒の涙がリリーの顔に滴り落ちる。
「あんたは悪魔の使いなのよ! あはは、あは、そうよ、今も悪魔を呼んでいたんでしょう!? ねぇ、そうなんでしょう!?」
レイチェルはそのまま、細いリリーの首に両手をかけた。
必死に空気を求め、芋虫のように身悶えするリリー。
苦しみの中で、本能的に見開かれたペリドットの瞳がレイチェルを捉えた。
その瞬間、レイチェルの狂気が沸点に達する。
「その目で見るなぁぁぁ!!!」
レイチェルは暖炉の脇に置かれていた、赤く焼けた火かき棒をひったくった。
そして、逃げ場のない幼い顔面へ、容赦なくそれを押し当てた。
「ギャァァァアアアッ!!!」
凍てつく冬の夜。
幼子の絶叫が、フォレスト伯爵邸に虚しく響き渡った。
リリーは三日三晩、死の淵を彷徨った。
二日目の夜、往診に来た医師は、傍らで祈り続けるエボニーに「今夜が山場だろう」と冷淡に告げた。
しかし、幼い少女の生命力は、周囲の絶望よりも遥かに強靭だった。
彼女は暗い淵を這い出し、四日目の朝、ついにその瞳を開いた。
「ぅ……あ……」
「っ! ああ、神様……! ありがとうございます、ありがとうございますっ!」
エボニーは涙を溢れさせ、ベッドに横たわるリリーの小さな右手を、砕けんばかりの力で握りしめた。
あの惨劇の夜。
騒ぎを聞きつけたエドワーズと執事たちは、狂乱するレイチェルからリリーを引き剥がした。
エドワーズは、離れの別宅にいたエボニーを呼び戻すと、大火傷を負って泣き叫ぶ娘を毛布で無造作に包み込んだ。
「死んでも構わん。こいつをレイチェルの目に入らない場所へ連れて行け」
それは実の娘に対する言葉とは思えない、まるで汚物を掃き出すかのような所作だった。
エドワーズからリリーを「物」のように手渡されたその日から、エボニーは別宅で世間の目を盗むようにして、リリーを育て始めたのである。
あの日を境に、フォレスト伯爵家において「リリー」という娘は死んだことになった。
レイチェルの精神は完全に崩壊し、自分にとって都合の悪い真実を記憶の底へ葬り去った。
エドワーズもまた、自らの犯した過ちから逃避し、妻の狂気じみた妄想に同調することを選んだ。
「リリーなど最初からいなかった。我が家にいるのは、愛らしいクリスティーナだけだ」
三歳のクリスティーナもまた、両親による執拗な刷り込みの中で、かつて共に笑い合った双子の姉の存在を完全に忘却していった。
しかし、偽りの平穏は長くは続かなかった。
――あれから二年。
「娘が死んだ」ことで世間からは同情が集まり、その悲劇を糧にするようにして伯爵家としての格、そして妻であるレイチェルの社交界での立場が昇華し始めたのだ。
そのおかげか理性を保ち始めた妻と、何も知らず健やかに育つクリスティーナ。
エドワーズにとって、その「完璧な幸福」を汚す唯一の生き残り――リリーの存在は、もはや許しがたい不浄となっていた。
五歳になったリリーは、ある春の日、別宅の裏庭で独りシロツメクサを編んでいた。
日中は外に出てはいけない」というエボニーとの約束を、退屈に負けて破ってしまったのだ。
エボニーは今、本邸でクリスティーナの世話をしている。
小さな指先でシロツメクサを束ねていた、その時だった。
背後の茂みで、ガサリと不吉な音が鳴る。リリーが振り返るよりも早く、空を切り裂く鋭い音が響いた。
「――っ!」
衝撃と共に、リリーの小さな身体が後ろへと吹き飛ぶ。
右肩に突き刺さった矢から、どろりと熱い鮮血が溢れ出した。
追撃の二の矢が、容赦なく放たれる。狙いは、倒れ伏したリリーの胸元。
――グサリ。
手応えは確実だった。
しかし、その矢が彼女の命を散らすことはなかった。
放たれた矢から始まった暗殺の試みは、やがて食事に盛られる毒へと変わっていった。
だが、リリーの体は異常だった。
どれほど血に塗れようとも、どれほど劇薬を煽ろうとも、彼女から生命が失われることはなかった。
その様子に、往診した医師は「聖女の器ではないか」とエボニーに耳打ちしたが、これ以上の注目はリリーをさらなる窮地へ追い込む。
そう確信していたエボニーは、医師に多額の口止め料を握らせ、その事実を闇に葬った。
八歳の時、リリーは悟った。
どれだけ泣き叫ぼうとも、どれだけ神に願おうとも、あの温かな「家族」に戻れる日は二度と来ないのだと。
それから十歳になるまで、彼女は別宅の屋根裏部屋に、息を潜めるようにして閉じこもった。
十歳の誕生日の夜、エボニーはリリーのために、ささやかな祝いの席を設けた。
「エボニーから、私だけの小さなお姫様へ」
差し出された小さな箱には、リリーの髪色と同じ、透き通るような白金色のシフォンリボンが掛けられていた。
蓋を開けると、そこには一粒のペリドットが輝くネックレスが収められていた。
「リリー、これはね、あなたの石なのよ。あなたが生まれてきてくれた幸せを願う、希望の石なの。私は、あなたがこの世に生を受けてくれたことが、とても幸せなのよ。たくさんの幸せをありがとう」
しゃらり、と涼やかな音を立てて首に掛けられた石の重みを感じながら、リリーは涙が枯れ果てるまで泣いた。
生まれて初めて、剥き出しの、真っ直ぐな愛に触れたからだ。
だが、運命はどこまでも非情だった。
ガタガタという不穏な物音と、引き裂くような悲鳴。
屋根裏部屋でまどろんでいたリリーは、心臓を鷲掴みにされたような予感に跳ね起きた。
裸足のまま一階の寝室へ駆け込んだ彼女を待っていたのは、冬の月光よりも冷徹な殺戮の光景だった。
「……あ、…………」
床には、つい先ほどまで自分を抱きしめてくれたエボニーが倒れていた。
純白の寝衣は、胸元に突き立てられた剣から溢れ出す鮮血によって、見る間にどす黒く染まっていく。
傍らには、返り血を浴びたエドワーズが立っていた。彼は剣の脂を無造作に振り払い、リリーへ視線を向けた。
その瞳に宿っているのは後悔などではなく、害虫を仕留め損ねた時のような底冷えする嫌悪だった。
「……執念深い女め。毒も効かぬ、矢を放っても死なぬ。ならば、この手で確実に仕留めるしかないと思っていた。だが――この女が邪魔をした。貴様の代わりに、この女が死ぬのだ、リリー」
「……あ、あ、あああああああ!!!」
リリーは叫び、エボニーのもとへ縋り付こうとした。しかし、その細い首をエドワーズの手が掴み上げ、壁へと叩きつける。
「いいか、リリー。お前は今日、死ぬ。……だが、お前の肉体にはまだ使い道があるかもしれない。……そうだ、お前は『死なない』のだからな」
エドワーズの腕に力がこもり、リリーの意識が混濁していく。
薄れゆく視界の端で、エボニーの手が微かに動いた。彼女は最期の力を振り絞り、震える指先でリリーの首元――ペリドットのネックレスに触れようとした。
(……生きて……リリー……幸せに……)
声にはならなかった。
けれど、その瞳に宿った最期の光は、確かにそう告げていた。
音にならない願いを遺し、エボニーの瞳から光が消えた。
自分を愛してくれた唯一の光が、自分の身代わりに、冷たい床の上で息絶えた。
リリーの心は、肉体の死すら拒絶する呪わしき生命力を糧に、深い深い絶望の淵へと沈んでいった。




