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完璧な侍女

厨房の喧騒と、重たい銀食器のぶつかり合う音。


主役の笑い声が壁を越えて届くたび、私の胸の奥で、飼い殺したはずの「私」が鋭い爪で内側を掻きむしる。

 

「……16歳。おめでとう、クリスティーナ」

 

暖かい黄金色のスープの表面に自分の顔が映る。


クリスティーナと同じ造作を持ちながら、陽光を奪われた歪な左側。


そこに手を滑らすと凹凸と共にがさりとした感触が広がっている。


(お父様、お母様)


ふと、考える。


(……もし今、このスープへ毒を落としたなら)


煮え立つ絶望を、そのまま注ぎ込んだなら。


(その時は、私の名を呼んでくださるのかしら)


そんな妄想を、立ち昇る蒸気と共に飲み下した。


私は汚れ一つない白いエプロンを整え、銀盆を持ち上げる。

そして再び、“光”の中へ足を踏み入れた。


「お待たせいたしました、お嬢様」


先ほど退室した時と寸分違わぬ微笑みを湛え、私はクリスティーナの前に黄金色のスープを置く。

湯気と共に立ち上る香りは、私の心を逆なでするほどに芳醇だった。


「わあ、美味しそう! リル、あなたも一緒に食べられたらいいのに」


無垢。

それは時として、どんな刃物よりも深く人を切り裂く。


クリスティーナの悪意のない言葉に、背後に立つ父親がわずかに眉をひそめた。


「クリスティーナ、それは無理な相談だよ。彼女には彼女の役割があるのだから」


父親の声には、冷徹なまでの「境界線」があった。


同じ血が流れているはずの私を、彼は一介の道具としてしか見ていない。


その視線の中に、かつて私を「呪われた子」と呼んだ面影を探すが、今の彼にあるのは徹底した無関心だけだ。


「そうよ。さあ、冷めないうちに召し上がれ」


母親が優しくクリスティーナの背を撫でる。

その手は、かつて私の顔に熱々の火かき棒を充てがった手と同じものだ。


「……はい、お父様、お母様」


クリスティーナが銀のスプーンを口に運ぶ。


「美味しい! 誰が作ったものより、リルの用意してくれたお食事が一番好きだわ」


太陽のような笑顔を向けられ、私は深く、深く頭を下げた。

視界を塞ぐ茶色の髪の隙間から、床に落ちた自分の影を見つめる。


「勿体なきお言葉です。お嬢様」


もしこのスープに、私の絶望を煮詰めた毒が混じっていたら。


この幸せな食卓が、阿鼻叫喚の地獄に変わっていたら。


その時、この人たちは私を「リリー」という一人の娘として、憎しみと共に抱きしめてくれただろうか。


「リル? どうしたの、顔色が悪いわ」


クリスティーナが心配そうに覗き込んでくる。

その瞳に映る私は、相変わらず「薄汚れた侍女」でしかなかった。


「……いいえ。光が少し、眩しすぎたようでございます」


私はもう一度、完璧な礼をした。


その夜。

深夜の書斎へ呼び出された。


ここへ足を踏み入れるのは、十歳の、あの凍えるような冬の日以来だった。


片付けに追われていた私に、父の執事であるオリバーが告げた事務的な呼び出し。


それがなければ、私にとってこの部屋は、一生開くことのない重厚な壁の向こう側でしかなかったはずだ。


室内は、昼間の華やかな祝祭が嘘のように静まり返り、冷え切っていた。


デスクの奥に座る男の顔に、クリスティーナを抱きしめていた時の穏やかな父親の面影は、微塵も残っていない。


ランプの灯に照らされているのは、愛娘へ贈られた宝石やドレスの領収書ではなく、家門の存続を乞うための、惨めな降伏文書。


そして、クリスティーナの名が記された――「譲渡証書」だった。


「公爵家に嫁いでもらう」


父親は、私の顔を見ることすらなく、淡々と告げた。

その声は、古びた道具の処分を決める時のように、あまりにも無機質だった。


「相手は北の魔獣を阻む砦だ。敗戦の代償として、我が家から娘を一人、差し出さねばならん。実質人質となるのだから、クリスティーナを地獄へと送るわけにはいかないからな」


私は、黙って下を向いた。


肩を震わせる私を見て、この男は、私が絶望に打ちひしがれているとでも思っただろうか。


茶色く染めた前髪の奥。

伏せられた私の口元には、抑えきれない嘲笑が浮かんでいた。


この薄情な父親に対してだろうか。

それとも、そんな男の血を引いている自分自身に対してだろうか。


ああ、そうだったのね。

納得がいったわ。


なぜ、今日までこの屋敷の隅に生かしておいたのか。

この人は、六年以上前から分かっていたのだ。


いつか、愛する「太陽の娘」に耐え難い不運が訪れたとき。


彼女の代わりに地獄へ放り込み、彼女の代わりに泥を啜らせるための、都合の良い「予備」が必要になる日が来ることを。


「……承知いたしました、閣下」


震えることもなく、私の唇は滑らかに動いた。


驚きも、悲しみも、もはや湧いてはこない。

私の心は、この冷え切った書斎の空気と同じ温度になっていた。


「髪の色は戻せ。傷跡に関してはどうしようもできまい。……まあ、あの野蛮な獣共にはお似合いであろう。いいな、あちらでは二度とリル、いや、リリーの名を口にするな」


父は吐き捨てるように言った。


「了解いたしました」


私は深く、深く頭を下げた。


リリー。


この屋敷で、私を「一人の人間」として呼ぶ者は誰もいなかったけれど。


かつて屋敷の裏庭で、名もなき花を摘んでいた私を、誰かがそう呼んでくれたような気がした、その忌まわしくも愛おしい名。


それを捨てて、私は完璧な「クリスティーナ」になる。


おめでとう、クリスティーナ。


あなたはこれからも、その白く柔らかな肌に傷一つ負うことなく、幸福な夢を見続けていればいい。


あなたは何も知らず、あなたの受けるはずだった絶望も、すべて私がこの火傷の痕と一緒に、北の果てまで持っていってあげる。


姉からの最後の誕生日プレゼントよ。


私は音もなく、深夜の廊下へと出た。

窓から差し込む冷たい月光が、私の歪な半分を照らし出していた。


離れにある別宅のベッドに、泥のように体を投げ出した。


明日から私を待ち受けるのは、未知の北の地。そこでの日々がどれほど過酷であろうとも、今の私にはこの静寂の方が、よほど毒のように身を削る。


ふう、と一つ溜息をついてから、私は重い体を起こした。


ベッドの下。


そのさらに下にある床板を、指先で探る。カタリ、と小さな音がして外れた板の隙間に、私は手を伸ばした。


誰の目にも触れぬよう、何よりも厳重に隠し続けてきたもの。


私を陰ながら育ててくれた乳母、エボニーが十歳の誕生日にくれた、最初で最後の贈り物。


手のひらに収まったのは、小さな、けれど確かな重みを持つペリドットのネックレスだった。


今ならわかる。

彼女にとって、これが何年分のお給金に相当するものだったのか。


「……っ」


視界が、急激に歪んだ。


止めようとしても、熱い雫が次から次へと溢れ出し、手のひらの上の石を濡らしていく。


今日、クリスティーナが贈られた大粒のペリドットに比べれば、あまりにも小さく、慎ましい石だ。


けれど、この冷え切った屋敷のどこにある宝石よりも、それは痛いほどに強く、優しい光を放っているように見えた。


エボニーが死んでから、私は一度も泣かなかった。


泣き方を忘れたわけじゃない。


泣いてしまえば、彼女が遺してくれた私の「生」が、すべて脆く崩れ去ってしまいそうで怖かったのだ。


ここはもともと、エボニーに与えられた別宅だった。


壁の傷一つ、使い古された椅子の軋み一つに、彼女との思い出が染み付いている。


双子の乳母として、光と影の双方を育てる苦労は、いかばかりだったろう。


ぼやけた視界の向こう、ペリドットの鈍い輝きが、記憶の扉を静かに押し開ける。


――それは、あの熱い、そして凍えるほどに冷たかったあの日から始まった。


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