史実『聖女ルーヴェリア』
何度、季節が巡ったのだろうか。
ルーヴェリアの涙が枯れ果てた頃には、瑞々しかった土草はすべて枯れ果て、豊かな水は干からび、世界は急速にその色を失っていった。
聖女が祈りを忘れた地上には、再び悪魔たちが蔓延り始めていた。
神はルーヴェリアを見限ったのか。
はたまた、この世界そのものを完全に見捨てたのか。
かつてあれほど甘やかに彼女を祝福した創造神ペルギウスは、どれほど声を枯らして希願えども、ついに彼女の前に姿を現すことはなかった。
かつて白亜を誇った聖堂は、今や見る影もなく煤け、静まり返っている。
カツン、と。
その荒廃した神殿の奥に、場違いな硬い足音が響き渡った。
絶望に身を灼かれ、冷たい床に蹲ったままのルーヴェリア。
その光を失ったぼやけた視界に、月光を浴びて妖しく濡れそべる、漆黒の衣装を纏った足元が映り込んだ。
頭上から、地を這うような低い声が滑り落ちてくる。
「……結界が壊れているな」
世界を拒絶していたはずの神の障壁は、すでに内側から崩壊していた。
「――ルーヴェリア、私と来るか?」
その男は、跪くようにして片膝を突いた。
大理石の床に白金の髪が散るなか、男の、人間のものとは思えないほどに均整のとれた漆黒の手が、そっと彼女の髪を掬い上げる。
それは、神に裏切られ、世界に絶望し、すべてを見捨て見放されたルーヴェリアにとって――この世で最も甘美な、救いの響きだった。
大悪魔サタリウス。
神が倒すべき敵として定めた、最悪の存在。
その男からの、あまりにも酷く、あまりにも美しい求愛だった。
神の愛がこれほどまでに残虐な大虐殺であるならば、すべてを滅ぼす悪魔の抱擁に溺れる方が、どれほど救われるだろうか。
ルーヴェリアは、ゆっくりと、その漆黒の手に向かって、自らの白い手を伸ばした。
サタリウスの漆黒の手を取った瞬間、ルーヴェリアの目から、枯れ果てたはずの涙が再び、堰を切ったように零れ落ちた。
「何故、泣く」
大悪魔の低い問いかけに、ルーヴェリアはもう、何も答えることができなかった。
何のためにこれまで生きてきたのか。
何のためにこれからも生き続けねばならないのか。
自分が一体何者なのか。
そして……何故いま、自分を滅ぼすはずの悪魔の手の温もりに、これほど涙が溢れてしまうのか。
すべてが、分からなくなっていた。
「……このような神の祝福など、いらなかった」
吐き出されたのは、今にも消え入りそうな、枯葉のように乾いた小さな声だった。
「そうか」
サタリウスは、それ以上何も言わなかった。
神を呪う彼女を責めることも、悪魔の道へ誘う甘い言葉を囁くこともしない。
ただ、長すぎる絶望の果てに皮と骨ばかりになってしまった彼女の身体を、壊れ物を扱うようにそっと抱き上げ、そのまま二人は、誰も辿り着けない夜の深淵へと姿を消した。
それから数年が経った頃、神に見捨てられ荒れ狂っていた北の土地は、奇跡のように豊かな緑を取り戻した。大地は潤い、生命が再び力強く実り始めた。
王国に、聖女が戻ってきたのだ。
―――その腕に、褐色の赤子を抱いて。
――
現実味が無かった。
何を聞かされているのか、何の話なのか、誰の話をしているのか。
何一つとして、理解が出来なかった。
気がつけば、手が激しく震えていた。
これは恐怖なのか、それとも人知を超えた存在への畏怖なのか。
けれど、頭の中が真っ白で何一つ分からない中で、一つだけ、明確に肌で感じることがあった。
目の前にいる女――神官長アルフレッドは、まるですべてを見てきたかのような、奇妙で歪な話し方をしていた。
お伽噺の歴史を語るのではない。
――まるで、かつてその場に立ち、すべてを目撃してきたかのように。
無意識だった。
私は、ドレスの懐に忍ばせていた耳飾りを、服の上からきつく握りしめていた。
割れそうなほどに、きつく、きつく。
指先が痛むほどのその冷たい感触だけが、辛うじて私をこの現実へと繋ぎ止めていた。
「……貴方は、誰なのですか?」
私の掠れた問いかけに、神官長は一瞬、意外そうに目を丸くした。
「貴方は不思議な方ですね」
変わらず、すべてを包み込むような穏やかな声だった。
「この話をすると、皆一様に神を嘲るか、運命を罵るか……。不思議ですね。貴方のように『貴方は誰か』と、私自身へ問いかけられたのは、これが初めてです」
過去にも、この話をした人がいたというのだろうか。
それは、私より前に壊れていった“聖女の器”たちにだろうか。
それとも、私の知らない別の誰かにだろうか。
「……ルーヴェリアは、神の聖女でした」
彼女はそこで一度、言葉を区切った。
「そして私は――」
聖堂の白い空間に、一段と深い静寂が落ちる。
その声音は、神官長としての威厳などではなく、まるで気の遠くなるような長い時間を生きてきた者の、切実な懺悔のようだった。
「彼女と時を同じくして、神ペルギウスから作り落とされた、もう一人の不死。……聖女ルーヴェリアの『鏡』です」
耳を疑った。
彼女が唇から紡ぐすべての言葉が、私の理解の範疇を遥かに超えていた。
「神の使いたるルーヴェリアは、どこまでも無垢であらねばならなかった。神の愛を疑わぬ存在でなければならなかった」
アルフレッド様は自嘲を孕んだ薄い微笑みを浮かべ、自身の純白の法衣を見つめた。
「故に。誰かが、その汚れを引き受けなければならなかった」
大聖堂の白さが、急にひどく歪なものに思えてくる。
「器のことも、家族が殺されることも、神官達の罪も、……神の欺瞞も。私はすべて知っていました」
「知りながら、何一つ止められなかった」
「それが、……私の役目だった」
諦めたような、酷く哀しい声だった。
世界の正義の頂点にいるはずの人が、一番深い暗闇の底で、ずっと一人で立ち尽くしていたのだ。
「私は、聖女ルーヴェリア最後の証人です」




