史実『聖女ルーヴェリアの願い』
大聖堂の真っ白な空間に、神官長アルフレッドの低く落ち着いた声音だけが、雪のように静かに、けれど確実に降り積もっていく。
紡がれるのは、歴史の教科書には決して載ることのない、この国の根底に隠された凄絶な真実の記録であった。
―――
神の呪縛を逃れ、大悪魔サタリウスの腕に抱かれて夜の深淵へと消えた聖女ルーヴェリアは、やがて彼との間に一つの新しい命を成していた。
名を、トリニード。
父たる悪魔の漆黒の闇と、母たる聖女の白金の光が混ざり合ったかのような、美しい褐色の肌を持った男児であった。
数年の空白を経て、ルーヴェリアがその明らかに異形の血を引く赤子を抱き、再び地上へと帰還した時、王国の民が浴びせた非難と罵声は轟々(ごうごう)たるものであったという。
聖女が、あろうことか大悪魔にその身を汚されたのだと、人々は彼女を激しく糾弾した。
けれど、実情として、彼女が戻ったことで世界は再び潤いを取り戻した。
枯れ果てていた大地は甦り、作物は豊かに実り、悪魔の脅威はピタリと去った。
目の前の圧倒的な奇跡を前にして、民たちは徐々にその口を閉ざしていった。
……少なくとも、表立っては。
何故、神を呪ったはずのルーヴェリアが再び人間の前へと戻ってきたのか。
それは、神が仕組んだあの残虐な「聖女の移り変わり」の循環を、今度こそ完全に終わらせるためであった。
自分がただ死を迎えれば、また世界の均衡を保つために、どこかで罪のない少女が名前を奪われ、その家族が惨殺される。
それを防ぐ唯一の方法は、自らが「生きたまま永久の封印」に就くことだと、彼女は気付いていた。
だが、聖女という絶対的な奇跡の導き手を失えば、人間はまたすぐに自滅の道を歩むだろう。
だからこそ彼女は、自らが完全に消える前に、民たちに神の奇跡に依存せず、己の力で生きていける術を教えるために帰ってきたのだ。
悪魔界で至高の王であったサタリウスもまた、愛した彼女のその決意に同意していた。
彼は、ルーヴェリアが慈しみ、守ろうとしたこの人間界に、他の悪魔たちが決して害をなさないよう、自らの圧倒的な力ですべての魔族を統制し、説得し続けた。
すべては、一人の女の願いを叶えるために。
それからのルーヴェリアは、こんこんと、民に教えを説き続けたという。
『私の力が無くとも、世界は続いていく。貴方達には愛する人を自身の力で守れるように、共に生きていけるように、この世界を自身の手で切り開いていってほしい』
その声が届く限り、彼女は語りかけた。
神からの、まるで洗脳のように人間の根にこびりついていた依存の考えを、彼女は一枚一枚、丁寧に溶かしていった。
一人、また一人と、民たちは自身の力で、自らの頭で考え、草木を潤し、病を治していく術を身につけていく。
それは気の遠くなるような、けれども神殿の奥で孤独に祈るよりも、遥かに愛おしい時間であった。
けれど――圧倒的に、時間が足りなかった。
息子のトリニードが十五を過ぎた頃であった。
民が自分たちの力で国を回し、それがようやく軌道にのってきた、まさにその時。
不死だと認識されていたはずのルーヴェリアの身体が、急速に朽ち始め、崩れていったのだ。
悪魔と交わり禁忌を犯したからか、あるいは、神の教えを呪ったからか……。
何にせよ、その衰えを目にした人間たちは、再び不穏にざわめき始めた。
そして民は、ある残酷な摂理に気づき始める。
自分たちの力で育て、実ったはずの果実が、聖女の衰えと共に枯れ始めたことに。
聖女の力を借りずに病を治したはずの病人が、また同じ病を患い始めたことに。
民は、自らが必死に世界に携わったがゆえに、ルーヴェリアの力の真実を、ルーヴェリア本人よりも先に察知してしまったのだ。
――聖女の意思に関係なく、聖女という存在がただ地上に存在しているだけで、その力が世界に発揮されているのではないか。
そして、聖女の衰えに対するように、世界もまた枯れていくのではないか。
皮肉にも、民たちはルーヴェリアの想いを受け継ぎ、立派に成長しすぎていた。
自身の手で世界を潤す楽しみを、愛する人を己の手で護る慈しみを、すでに知ってしまっていたのだ。
ゆえに、聖女の魂を維持するために裏で何が行われているか(器の犠牲)を知らぬ民たちは、あまりの恐怖に狂った。
聖女が衰え、消えてしまえば、この地は永遠に潤うことがないのではないか。
愛する人が、再び病に伏せて死んでしまうのではないか、と。
それならば、彼女が完全に消えてしまう前に、聖女ごと、その魂を封印してしまえばよいのではないか。
身体が朽ち果てても、魂さえこの地に繋ぎ止めておけば、この世界は永遠に安泰なのではないか――。
聖女が命を懸けて人間に伝えた「自立」の教えは、民たちの「この幸福を失いたくない」というあまりにも切実な欲望によって、歪みに歪んで、ルーヴェリアの思わぬところに着地した。
――ルーヴェリア自身が、新たな犠牲を出さないために己を封印しようとしていることも、彼らは知らずに。
それは、突然のことであった。
いや、あの歪んだ世界においては、もはや必然であったのかもしれない。
ルーヴェリアが、自身を封印するために、かつての大聖堂へトリニードと共に馬車で向かっている最中であった。
結界の壊れたあの場所なら、最後にサタリウスとも会えるだろう。
あの方は悲しむだろうか、それとも、いつものようにただ静かに抱きしめてくれるだろうか……。
そんなことを、揺れる馬車の中で考えていた、その時。
ルーヴェリアの目の前が、酷く歪んで揺れた。
目の前で、愛しい我が子であるトリニードが必死に口を動かし、何かを叫んでいる。
けれど、何も聞こえない。
――なにも、見えない。
それもそのはずであった。
本当に、一瞬の出来事だった。
ルーヴェリアの肉体は、その場から完全に消失した。
まるで、乾いた砂が指の隙間からサラサラと零れ落ちるかのように。
魔術師たちにとって、悪魔と交わり、肉体が急速に朽ち、聖力すらも酷く枯れ始めていたルーヴェリアの魂を捕らえ、封印することなど――赤子の腕を捻るよりも、遥かに簡単なことであった。
術を仕掛けたのは、王都の魔術師たちだった。
数百年の間、代々聖女と共に悪魔や魔獣を退け、この国の存続を陰で支えてきた者たち。
時の王は、何千、何万もの民の狂気にも似た懇願に、耳を傾けるしか無かったのだろう。
魔術師は、ルーヴェリアの魂を閉じ込めた聖杯を手にしたまま、瞬く間にその場から姿を消した。
しかし。
彼らが望んだ安寧など、訪れる筈が無かったのだ。
王は、分からなかったのだろうか。
分かろうとしなかったのだろうか。
目先の民の暴動を収めることだけを考え、その後に訪れる本当の破滅から目を背けたのか。
大悪魔サタリウスが、そのような暴挙を許すはずがないことなど……少し考えれば、分かりきったことのはずであったろうに。
サタリウスは、激昂した。
人間たちの身勝手な欲望が、ルーヴェリアの張り裂けそうな決意と覚悟を、あまりにも無惨に踏みにじったからだ。
激しい怒りに狂った大悪魔は、王都の強固な結界を容易く打ち破り、王のいる王城へ単独で突撃した。
この狂った世界の頂点に君臨する、王の首を刎ねるために。
だが……王城が黒い炎に包まれる中、暴走する大悪魔の前に立ち塞がり、それを止めた者がいた。
彼らの息子である、トリニードであった。
サタリウスは再び激昂した。
なぜ道をあけない、なぜ人間を庇うのかと、その威圧で息子を圧殺せんばかりに。
けれど、トリニードは父であるサタリウスを深く愛しているがゆえに、その刃を父へ向けることはしなかった。
彼は、その身に流れる魔族の力を完全に解放し、――この大悪魔の魂を繋ぎ止め、受け止められる器は、世界で唯一、その血を引く己しかいないと。
他でもない「自身の身体」を器にして、父サタリウスを封印したのだ。
すべては、母ルーヴェリアの願いであった。
『トリニード、人間を恨んではいけません。愛しなさい。そして、この世界を変えるのです。神の奇跡に支配されない、民、一人一人が自分の力で生きて行ける世界に……』
母は、こうなる未来が分かっていたのだろう。
だからこそ、旅立つ前に彼へこう続けていた。
『サタリウスが人間に刃を向けたとき、貴方が止めるのです。サタリウスの血が流れている、貴方しか、あの方を止められないから』
なんて酷な願いだろうと、母は何度も、何度も謝りながら、大粒の涙を流してトリニードを細い腕で抱きしめていた。
サタリウスもまた、悪魔である前に、一人の父親であった。
立ちはだかる息子が涙を流し、血が滲むほどに唇を噛み締めながら己を受け入れようとする姿を見た瞬間――大悪魔は抗うのをやめ、そのすべてを愛息へと委ねた。
トリニードは、世界を滅ぼしかけた大悪魔を封印した功績により、王から「グレイル」の名を賜った。
人間たちは、その力を恐れ、崇めたのだ。
そしてトリニードは、自身に封じたサタリウスの魂を永遠に繋ぎ止め、守り続けるため。
そして、絶対的な王であったサタリウスが消えたことで、統制の利かなくなり暴走し始めた悪魔や魔獣たちを、最果ての地で排除し続けるため――子を成した。
その呪われた血と役目を、代々、未来へと受け継ぎ続けるために。
やがてトリニードは己の命が尽きる間際、その身に宿る父の魂を完全に道連れにするようにして、屋敷の地下の奥深くへと自らを封印した。
それこそが、この極寒の最果てに縛られたグレイル家の、血塗られた生業の始まりであった。
―――
アルフレッドの声が途切れ、真っ白な聖堂に、元の冷徹な静寂が戻ってくる。
すべてを知ったリルの胸の奥で、運命の歯車が、あまりにも重く激しい音を立てて噛み合っていくのだった。




