史実『聖女ルーヴェリア』
まだ、神と悪魔がこの地上を歩いていた時代。
世界は神と悪魔、そして人間が混沌のなかで共存する、果てしない破壊と再生の渦中にあった。
神が構築した秩序を悪魔が破壊し、また神がそれを創り直す。
永遠とも思えるその不毛な繰り返しを、根底から覆す存在が突如として現れた。
神の御髪をそのまま映したかのような、白い絹の髪。透き通るほどに真っ白な肌。瞳は瑞々しい草原を切り取ったかのように青々としており、その微笑みは、一度見れば生涯忘れることなど出来ないほどに慈悲深いものだったという。
創造神ペルギウスがこの地上へと作り落とした、世界規模の人間兵器。
それこそが――聖女ルーヴェリアだった。
圧倒的な「聖力」と呼ばれる力を授けられた彼女は、神の構築した世界を悪魔の破壊から救うため、完全なる対悪魔兵器として、ペルギウスの手によって生み出された。
神は幼き彼女に、こう告げた。
『そなたはこの世で、ただ一人の神の使いである。故に、神が愛しているこの世と、そこに生きる人間を、命を賭さずとも守り切れるよう、神の最高たる祝福をそなたに授けようぞ』
それが、後に大陸中で謳われることとなる、不死の聖女ルーヴェリア伝説の始まりであった。
最初の数百年の間、彼女は神の言われるがまま、純潔な聖女として生きていた。
戦火に倒れる人々を癒し、枯れ果てた生命を潤し、邪悪な悪魔の存在を一掃する。
そしてその肉体が寿命を迎え、朽ち果てれば――次に目を覚ました時には、いつも新しい若々しい身体に、その魂が宿っていた。
始まりは、ほんの小さな疑問だった。
果てしない時間のなかで、彼女はふと、自分を包むこの新しい身体が、一体どうやって生まれてくるのかが気になった。
だから、純粋な敬愛を込めてペルギウスに尋ねた。
『私の身体は、ペルギウス様がその都度、無からお与えになってくださっておられるのですか?』
『――神の祝福によって、清らかな聖女の器が生まれるのだ』
神はそう言って、優しく彼女の髪を撫でた。
ルーヴェリアは、その手の温もりにそれ以上の疑問を抱くことはなかった。
そしてまた数百年の時が流れ、人間の数は膨れ上がり、逆に対抗する悪魔の数は激減していった。
役目を終えつつある神々が、地上を離れて天界へと自らの居場所を移し始めた頃、ルーヴェリアはペルギウスから正式にこの地上を任された。
『人間を愛し、慈しみ、この世のすべての災いから守り給え。ルーヴェリア、我が愛娘に神の不滅の祝福を』
彼女は神の教えを、狂信的なまでに遂行し続けた。
だが、それからまた数十年の時が流れた、ある日のこと。
それは、世界の涙のようにしとしとと恵みの雨が降る、ひどく肌寒い日だった。
ルーヴェリアが新しい身体へと変わったばかりの、瑞々しい時期。
神が山を丸ごと切り取って創り出したという、誰も辿り着くことの出来ない断崖の上の聖堂で、彼女がいつものように朝の祈りを捧げていた時のことだった。
厳重な結界に守られたその不可侵の聖域に、どうやって紛れ込んだのか、泥に塗れた一人の人間の女が、息を切らせて入ってきたのだ。
周囲の神官たちが一斉にざわめき、不審者として捕らえようとする。
けれど、慈悲深きルーヴェリアはそれを手で制した。
『迷える子羊よ。よくぞ、このような高き場所まで辿り着きましたね。神のご加護がその御身に賜るよう、今ここで御祈りを――』
微笑み、そう続けようとした、その瞬間だった。
『……っ、マリー!!』
女が顔をぐちゃぐちゃに崩し、激しい涙を流しながら、あろうことか聖女ルーヴェリアの身体をきつく抱きしめたのだ。
マリー?
ルーヴェリアは、それまで一度も聞いたことのないその名前に、女にきつく抱きすくめられたまま、不思議そうに首を傾げた。
『申し訳ございません。私は、聖女ルーヴェリア。神の使いでございます。人違いではございませんか?』
女の顔を覗き込み、極めて穏やかにそう返せば、女はさらに狂ったように涙を溢れさせた。
『ああ、ああ……っ! 母よ、私は貴方の母親よ……っ! 母親の顔まで、忘れてしまったの!?』
女が絶叫した。
周囲の神官たちが、不敬であるとさらに激しくざわめき出す。
『貴女はマリーよ!! 私の、私の大切な娘よ……っ!!』
自分を抱きしめる女の腕が、折れそうなほどに激しく震えている。
『覚えてないの!? あの緑の深い森の家を!! お父さんのことを!! 弟のことを!! 貴女が大好きだった、あの一面に咲く花の名前を……っ!!』
ルーヴェリアは、言葉を失った。
何も知らない。
何一つ、そんな記憶は脳裏に存在しない。
けれど――目の前で泣き叫ぶこの泥塗れの女だけは、確かに「世界の救世主」などではなく、自分というたった一人の存在を見て、魂を千切るようにして泣いていた。
聖女ではなく、一人の少女、"マリー"を見て。
『……申し訳、ございま――』
言葉が続かなかった。
女はただひたすらに泣いていた。
泣きながら、何度も、何度も、壊れた機械のように同じ言葉を繰り返す。
『返して……』
血を吐くような、悲痛な叫び。
『神様なんていらない。聖女様なんていらないわ……っ! 私の、私の娘を返して……!!』
神の聖域で荒れ狂う女の姿に、神官たちは「神への冒涜だ」と激昂し、強引に女をルーヴェリアから引き剥がした。
そして――彼女の目の前で、容赦なくその首を刎ねた。
あまりにも、突然のことだった。
間に合わなかった。何も出来なかった。
ドサリ、と床に転がった頭部と、噴き出す鮮血。
ルーヴェリアの喉が引き攣り、胃の奥から酸っぱい何かが逆流する。
神の使いであるはずの神官が、神を祀る神聖な場で、神が愛したはずの人間を、いとも容易く殺害したのだ。
その瞬間、ルーヴェリアのなかで何かが決定的に壊れ、彼女は発狂した。
『っ……ペルギウス様!! 偉大なる創造神様っ!!』
天を仰ぎ、声を枯らして父の名を叫ぶ。
『何故、何もなされないのですか!! あなた様の愛する人間が、今、目の前で無残に殺されたのです!! この狂った神官たちに、今すぐ破滅の鉄槌を……っ!!』
だが、いくら叫べども、天からの返答は一切なかった。
静まり返る聖堂に、ただルーヴェリアを嘲笑うかのようにただ冷たい雨の音だけが響く。
『……ペルギウス様……っ! ペルギウス……っ!!!』
ルーヴェリアは白金の髪を振り乱しながら立ち上がり、今しがた女の命を奪った神官へと、血走った目で詰め寄った。
その瞳からは、神の慈悲など完全に消え失せていた。
その華奢な身体から、大気を激しく震わせるほどの圧倒的な聖圧が立ち昇る。
『聖女ルーヴェリアの名のもとに命じる。貴方達の神は、今しがた耳を塞がれた。なら、次は誰の言葉に従うべきか。……『世界の真実』を、今すぐ私の足元へ差し出しなさい』
あまりにも長く生きてきた代償だった。
操り人形のようだったルーヴェリアのなかには、すでに神の預かり知らぬところで、人間としての「感情」が、深く、豊かに育ってしまっていたのだ。
神への絶対的な信仰が、一瞬にして巨大な絶望へと反転する。
圧倒的な聖圧に圧せられ、神官は床に這いつくばり、震えながらついに世界の真実を口にした。




