リア大聖堂
夜明け前。
まだ星の残る昏い闇の中を、馬車は静かに走っていた。
一人の馬車に揺られるのは、フォレスト家から北の地へ連れて行かれた時以来だった。
車外では、ハンスが馬に乗って静かに先導してくれている。
険しい山道に入ったのか、車内は外の景色を見る暇もないほどに激しく揺れ、車輪が軋む音だけが暗闇に響いていた。
北の最果て。
グレイル領からさらに険しい山を登ったその頂に、リア大聖堂は存在するという。
やがて山道を越えたのか、激しかった揺れが嘘のように落ち着いた。
ふと窓の外へ視線を向けると、そこには言葉を失うほどの、圧倒的な「白」しかなかった。
一面の雪なのか、それとも明けない空なのか、境界線すら分からない白濁の世界。
不気味なほどに、静かだった。
馬車が進む音さえも降り積もる厚い雪に吸い取られ、鈍い地鳴りのようにしか耳に届かない。
そして――。
審問会以来、ずっと頭の奥で響いていたあの不気味な声が、この山道を越えたあたりからぴたりと止んでいた。
それがかえって、嵐の前の静けさのようで、私の肌を粟だたせる。
ガタン、と馬車が大きく一度揺れ、静かに停止した。
「……着きました」
外から、ハンス様の低く張り詰めた声が聞こえる。
覚悟を決め、扉を開いて外へと一歩を踏み出した。
やはり、辺り一面は銀世界だった。
けれど、その圧倒的な白をも凌駕するほどの悍ましい存在感が、目の前に聳え立っていた。
それは、まるで山そのものだった。
白い岩肌をそのまま削り出すようにして築かれた、巨大な白亜の建造物。
幾本もの巨大な塔が灰色の空を容赦なく突き刺し、無数の尖塔が天を目指して冷酷に伸びている。
あまりにも巨大で、あまりにも静かだった。
人の手によって建てられたというよりは、遥か太古の昔からそこに根を張って存在していたかのような、異様な威圧感を放っている。
「――リア大聖堂です」
馬の手綱を握ったまま、ハンスが静かに告げた。
私の頭の中で、鋭い警告音が鳴り響いていた。
ここから先は、もう後戻りは出来ないのだと、冷たい風が肌を刺して教えてくれる。
私は息を深く吸い込み、前へと足を踏み出した。
ザク、と冷たい雪が鳴った。
巨大な反り返るような門の前には、既に人々が列をなして並んでいた。
全員が汚れなき純白の法衣を纏い、微動だにせずこちらを見つめている。
その中央に、一人の老人が立っていた。
真っ白な髪に、真っ白な衣。
けれどその背筋は定規で引いたように真っ直ぐで、年齢を一切感じさせない。
ただ、その衣服の白さとは対照的な、射貫くような鋭い眼差しだけが、じっと私を捉えていた。
「よくぞおいでくださいました」
響いたのは、驚くほど穏やかな声だった。
「リル・グレイル様」
「……お迎えいただき、ありがとうございます」
私は心を落ち着かせ、完璧な聖女の所作で静かに一礼した。
頭を上げると、老人は微かに微笑んだ。
けれど、その灰色の瞳だけが、一瞬、深く揺れる。
それはまるで、私の歪んだ中身を、あるいは私の背後にある何かを、じっと確かめるかのような視線だった。
「……神官長様、でしょうか」
「ええ」
老人は静かに頷いた。
「リア・アルフレッドと申します」
リア。
この巨大な聖堂と同じ名。
それこそが、この国の教会の頂点に立つ者の名だった。
しんしんと、音もなく雪が降り積もっていく。
世界からすべての音が消え去ったかのような静寂の中、神官長はゆっくりと踵を返した。
「参りましょう」
白い法衣の裾が、雪の上に弧を描いて揺れる。
「長い話になります」
神官長は歩き出し、私はその背を追う。
頭上からは、ただ雪だけが静かに降り続いていた。
数歩、歩いたところで神官長が不意に口を開く。
「安心なさい」
神官長は振り返らない。
それでも何故か、その言葉が私へと向けられたものだと分かった。
「貴女が聞いている声は」
ひとつ、ふたつと雪を踏む音が鳴る。
「狂気ではありません」
心臓が止まったような気がした。
「っ……」
神官長はそこで初めて振り返った。
灰色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見る。
「そして」
静かな声だった。
「貴女は聖女でもありません」
息を呑む。
背後でハンス様が固まる気配がした。
神官長だけが、恐ろしいほど穏やかなまま。
「少なくとも」
神官長は僅かに目を細める。
「今、世間が思っているような聖女ではない」
踵を返し、神官長は再び歩みを進める。
一切の躊躇いもなく雪を踏みしめ、巨大な聖堂の深淵へと進んでいく。
まるで、最初からこれから起こるすべてを知っているかのように。
そして私は、その背中を見つめながら、生まれて初めて確信していた。
この老人は知っている。私が何者なのかを。
そして、私の中に宿る、この不気味な聖力の正体を。
「ここから先は、限られた者しか入ることはできません」
聖堂の入り口で、神官長はそう告げた。
――私一人で、ということだろう。
私はハンスに向かって微笑むと、まっすぐ前を向いた。
そして、逃れられぬ運命の扉の向こうへと、静かに足を踏み出した。
中は驚くほど、大聖堂と呼ぶには静かなものだった。
祈りを乞う者が座る長い椅子に、大きな白亜の祭壇。
ただ、それだけだ。
王都のあの眼が眩むような聖堂大広間に比べれば、あまりにも簡素で、余程あちらの方が仰々しい。
「驚かれましたか?」
「……ええ」
「ここに来られる方は皆、同じような顔をします」
ステンドグラスも、パイプオルガンも無い、ただ真っ白な聖堂。
「ふふ。先ずは、御祈りをしましょう」
神官長が穏やかに切り出した。
その低く落ち着いた声音に、私は歩きながらふと、胸に浮かんだ違和感を口にする。
「女性の方、だったのですね。私、てっきり男の方だとばかり思っておりましたわ」
「ええ、それもまた、皆様驚かれます」
白銀の髪を揺らし、アルフレッド様は小さな笑みを浮かべて祭壇へと向かう。
「何を祈られても構いません。悩みでも、反省でも、懺悔でも」
酷く、優しい声だ。
まるで、この世のすべてを許してしまうような。
私は促されるまま祭壇の前――この国の信仰の象徴であるはずの、ルーヴェリアの聖女像すら飾られていない祭壇の前に膝を付き、両手をきゅっと握り合わせた。
目を閉じると、暗闇の中から押し寄せる思考に胸をかき乱される。
私は、何を願えばよいのだろう。
何を、懺悔すればよいのだろう。
エボニーを助けられなかった。神を何度も冒涜した。家族も、それを見て見ぬふりをした世界もすべて恨んだ。
――そして、ゼノス様。あの方は何を思って、私を傍に置いてくださっているのだろう。
懺悔することも、分からないことも多すぎて、私はなかなか顔を上げられなかった。
どれくらいの時間、そうして祈りともつかない独白を続けていただろうか。
ようやく顔を上げたときには、長い時間硬直していたせいで膝にうまく力が入らなかった。
「神は貴方をお許しになりました」
背後から穏やかな声が落ちた。
私は息を吸い、ゆっくりと振り返る。
「……神、ですか?」
掠れた声だった。
「聖女ではなくて?」
神官長は微笑む。
神の教えを疑う私を責めるでもなく、諭すでもなく。
ただ、静かに。
「この国は長く聖女を信仰してきました」
彼女は祭壇へ視線を向けた。
そこには何もない。
神像も、聖女像も、祈りの言葉すら刻まれていない。
ただ冷徹なまでに真っ白な祭壇だけがあった。
「けれど本来、聖女は信仰の対象ではありません」
私は思わず目を見開く。
彼女は続ける。
「聖女とは神ではなく」
聖堂のひんやりとした空気が、静寂を際立たせる。
「神に最も近かった、ただの『人間』です」
雪の降る気配さえ聞こえそうなほどの静けさが落ちる。
そして、彼女は初めて私を真っ直ぐに見た。
その灰色の瞳の深淵に、私は息を詰まらせる。
「聖女ルーヴェリアをご存知ですか?」
私は記憶の引き出しを手探りしながら、小さく頷いた。
「建国の聖女様ですわね」
彼女は何も言わず、ただ私の言葉を待っている。
だから、私はそのまま世間一般の常識をなぞるように続けた。
「神に愛され」
「民を導き」
「この国を救った方」
この国に住む人間なら、幼い頃から何度も、それこそ耳にタコができるほどに聞かされる物語。
貴族も平民も関係ない。
誰もが知る、絶対的な英雄譚だった。
けれど。
アルフレッド様は、静かに首を振った。
「それは歴史です」
穏やかな声だった。
私を否定するわけでも、物語を蔑むわけでもない。
ただ、客観的な事実を口にするような声音。
「私がお話しするのは」
灰色の瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「一人の女として生きた、ルーヴェリアです」
その瞬間、胸の奥が小さく、痛みを伴って軋んだ。
何故だろう。
まだ、何も具体的なことは聞いていない。
それなのに、まるで決して暴いてはならない世界の禁忌に、触れてはいけない深淵に、このまま引きずり込まれていくような予感がした。
「神に愛された聖女ではありません」
彼女は再び、何もない真っ白な祭壇へと視線を向けた。
「神に呪われた、一人の女の話です」




