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片割れの耳飾り

北へ戻ってきた城の中は、慌ただしかった。

王都へ発つ前とは、比べ物にならないほどに。


原因は明白だ。


王都での公開審問。


そして――私が、ゼノス・グレイルの妻であると公言されたこと。


その所為せいか、今まで離れていた私の部屋は、ゼノス様の私室と続き部屋になっている隣室へ移されることになったらしい。

廊下ではマーサやリーザ、それに他の侍女達まで巻き込んで、忙しなく荷物が運び込まれ、動き回っている。


その様子を横目に見ながら、私は静かな足取りで執務室へ向かっていた。


リア大聖堂から、再び書簡が届いたからだ。


『リル・グレイルをリア大聖堂へ』


書かれていたのは、ただそれだけだった。


封もない。長い挨拶文もない。押印と、短い要件のみ。

それも一通ではない。

同じ内容の書簡が何通も、急かすように届いていた。


余程急いでいるのだろう。


三百三十年間沈黙を守っていたリア大聖堂。その頂点に立つ神官長が、自ら動いている。


何故。何のために。


私は何処へ向かっているのだろう。

この歩みの終着点は何処なのだろう。


歩きながら、そんなことばかりを考える。

そして気付けば、全く別のことも考えていた。


――何故、私はゼノス・グレイルをここまで信用しているのだろう。


自分でも、上手く説明が出来なかった。


復讐を果たした恩義があるからだろうか。それとも命を救われたからだろうか。


……いや、違う。


首を落とされてもなお、その男の傍に居続けることを選んだのは私自身だ。


一人になる時間が増えるほど、その疑問は胸の奥で音もなく大きくなる。

けれど、どれだけ思考を巡らせても答えは出ない。


ただ不思議と、あの男が私を害する未来だけは、どうしても想像出来なかった。


私を最初に壊したはずの男を、一番に信頼している。


それが何より奇妙で、滑稽こっけいですらあった。


廊下ですれ違う使用人達が、一様に足を止める。

恭しく頭を下げる者。怯えたように視線を逸らす者。僅かに恐怖を滲ませる者。


北へ来た当初の、あの冷めきった視線とは明らかに違っていた。

王都の噂がもう届いたのか、それとも誰かが何かを吹き込んだのか。


理由は分からない。


けれど。

もう私は、ただ怯えて鳴くだけの哀れな子兎ではいられないらしい。


そう思うと、胸の奥で少しだけ可笑おかししさが込み上げた。


やがて、執務室へ辿り着く。


ノックをして中へ入れば、ゼノスは机に積み上がった膨大な書類へ目を通していた。


私から書簡を受け取ると、そこに並ぶ文字を一瞥いちべつする。


そして。

パチリ、と。


何の躊躇ためらいもなく、それを傍らの暖炉へ放り投げた。


赤白い炎が瞬く間に紙を呑み込み、激しく燃え上がる。その容赦のなさに、私は思わず苦笑した。


「余程お急ぎのようでしたのに」


「ああ」


「良かったのですか?」


「構わん」


実にこの人らしい。

私は小さく肩をすくめた。


「マーサとリーザが張り切っておりますわ」


「そうか」


「正式に妻になったから、隣の部屋へ移るのだと、部屋をひっくり返さんばかりです」


「ああ」


興味があるのかないのか。

相変わらず、温度の分からない返事だった。


「良かったのですか?」


私はもう一度、同じ問いを重ねてみる。

今度は部屋のことについて。


するとゼノス様は、書類から目を離さないまま、低く平坦な声で答えた。


「別に構わん」


その声音には、本当にそれ以上の意味も、裏の意図もなかった。

だからこそ、私は小さく笑う。

ただの言葉の額面通りに受け取っていいのだと、私の心が静かに凪いでいく。


暖炉の火が、静かに揺れていた。


「……私、聖力があるのだそうですね」


「ああ」


「何故、私だったのでしょう」


返事はない。


「何故、三百三十年も現れなかった聖女が、今になって、フォレスト家の出来損ないの娘として現れたのか」


暖炉の火が、パチリと爆ぜる。


「その理由を、神官長様はご存知なのでしょうか」


しばらくの間、静寂だけが部屋を満たした。


沈黙の重みに息が詰まることもない。

ただ、薪が燃える音だけが心地よく響く。


やがて。


「……アルフレッドは知っているだろうな」


低い声が、ぽつりと落ちてきた。

その名を聞いて、私は静かに頷いた。


神官長、アルフレッド。

やはり、あの聖堂にすべての答えがあるのだ。


「そうですわね」


また、静かな沈黙が訪れる。


不思議と、居心地は悪くなかった。

刃を突きつけ合うようだったこの部屋の空気が、いつの間にかこんなにも自然に、私を包み込んでいる。


すると。

ふと、私の中から言葉がこぼれ落ちた。


「……今夜は、一緒に食事をしませんか?」


紙をめくる、規則正しい音がピタリと止まった。


ゼノスが、影の落ちる漆黒の瞳を動かし、ゆっくりと顔を上げる。


私は、彼に向けてそっと微笑んだ。


「たまには平凡な話をしましょう。リア大聖堂も、神官長も、聖女も、悪魔も……全部忘れて」


明日になれば、また望まぬ渦中へと飛び込まなければならない。


だから、今夜くらいは。


「他愛もない話を」


返事は待たなかった。

どうせ聞いたところで、碌な答えなど返って来ないことは分かっている。


「では、失礼しますね」


そう言って、私は執務室を後にした。

背後からは、少しの間のあと、再び書類を捲る乾いた音が響き始めていた。


廊下へ出る。

大きな窓の外では、白い雪がしんしんと降り積もっている。


リア大聖堂。神官長。聖女。

考えるべきことは山ほどあった。


それでも、私の胸は不思議なほどに静かだった。


――来るだろう。


今夜、あの食堂の席に、ゼノスの姿があるかどうか。

確かな約束など何一つ交わしていないのに。

理由は分からない。


けれど、私はただそう確信しながら、新しい自室へと歩みを進めた。


その後の夕食は、驚くほど静かで穏やかな時間だった。

皿の擦れ合う小さな音だけが響く中、私たちは大聖堂の話題には一切触れず、ただ流れる時間を静かに共有した。


王都での喧騒が嘘のように、城館を包む夜はどこまでも優しく、更けていく。


――だが、深夜。


どうしても寝付けなかった私は、薄手のガウンを羽織り、部屋に備え付けられたバルコニーへと足を向けた。


冷たい夜気が肌を刺す。

吹雪いていた雪はぴたりと止んでいた。

北の冬空はどこまでも澄み渡り、見上げる満天の星々は、胸が痛くなるほど美しく瞬いている。


「眠れないのか」


不意に、すぐ隣から低い声がした。


見れば、隣のバルコニーの柵に、ゼノスが腕を組んで寄りかかっている。


「ええ」


短く答え、私たちはしばらくの間、言葉もなく同じ星空を見つめていた。


静寂だけが二人の間に横たわる。


「……明日、行って参ります。リア大聖堂へ」


沈黙を破ったのは、私の方だった。


「お早いほうが良いでしょう? 向こうの要請も、随分と慌ただしかったですし」


「……何を焦っている」


ゼノスの、どこか探るような声音に、私はここで初めて彼へと向き直った。


月光に照らされたその瞳を見つめながら、ずっと胸の奥に閉じ込めていた秘密を、そっと吐き出す。


「……声が、聞こえるんです」


「……」


「私を呼んでいるのです。『私の器よ』と、何度も」


ゼノスは眉根を寄せる。


「いつからだ」


「審問会が終わった後……目が覚めてからですわ」


「……そうか」


「ええ」


呟くような応酬のあと、ゼノスは視線をこちらに縫い付けたまま、変わらずの声色で続ける。


「聖堂には、一人で行かすことになる」


「ハンス様から聞きましたわ。悪魔の血が流れる貴方様は、結界に拒まれて中には入れないと」


私は柵に背を預け、星空を仰ぎ見た。


「……お前は、何も聞かないんだな」


その言葉の裏にある意味を、私は静かに受け止める。


なぜ結界に拒まれるのか、なぜ私にそんな声が聞こえるのか。


私が何も問い詰めないことが、あの方には不思議なのだろう。


「……聞いても、聞かずとも、私のやるべきことは何も変わりませんもの」


私は自嘲気味に、ふふ、と苦笑いをこぼした。


「これが、私を救い出してくれたことへの恩なのか。それとも、この場所にすがりたいだけの執着なのか……私にはまだ、分かりませんが」


けれど、と私は言葉を区切る。


まっすぐに、隣の死神を見つめて。


「私は、ゼノス様を害することだけは致しませんわ。――私が、女狐のうちは」


私の双眸そうぼうをじっと見つめ返していたゼノスが、ふっと口元を歪めた。


「……そこで待っていろ」


そう言い残し、彼は部屋の中へ姿を消した。


何処へ行ったのだろう。


そう思っているうちに、静かに数分が過ぎた。

しんしんと冷える夜気の中、立ち尽くしていると、やがて。


隣のバルコニーの暗がりから、再び大きな人影が現れた。


そして――何かが、こちらへ向かってふわりと放られる。


「え……っ」


慌てて両手で受け止める。


「……これは」


てのひらを開けば、月光を受けて、小さな石が淡く輝いていた。


それは、片方だけの耳飾りだった。


無骨な黒銀の装飾に埋め込まれた、一粒の小さな魔石。


「割れば発動する」


ゼノス様が、柵に腕を預けたまま低い声で言う。


「魔獣一匹程度なら消し飛ぶ」


私は驚きに目をしばたたいた。


「人間相手なら、それ一つあれば十分だろうよ」


月明かりの下。

手の中の石が、ひんやりとした冷たさを残しながら静かに輝いている。


「……そんな貴重なものを、私に? 良いのですか?」


「ああ」


短い返事。

私は、もう一度手の中の耳飾りを見つめた。


それは贅沢に着飾るための宝石でもなければ、きらびやかな装飾品でもない。

ただ目の前の命を守るためだけの、実用性しか持ち合わせていない護身具だ。


あまりにも、この人らしい贈り物だった。


「……心配してくださっているのですね」


私がそっと微笑みながら、彼の漆黒の瞳を見つめると、ゼノスは鼻で笑った。


何も言い返さない。

けれど、否定もしなかった。


それだけで、十分だった。


その不器用な沈黙こそが、この人の本心なのだと分かったから。


「ありがとうございます、ゼノス様」


ひときわ強い夜風が、二人の間を吹き抜ける。

私の白金の髪が、月光を浴びて激しく揺れた。


「ここは冷える」


ゼノス様が言う。


「中に入れ」


そう言い残し、彼はすぐに背を向けて、自分の部屋へと戻っていってしまった。


振り返った背中のせいで、その顔がどんな表情をしていたのかは、ついに見えなかったけれど。


一人残されたバルコニーで、私は掌の上の耳飾りを見つめる。


月光を受けた魔石が、静かに輝いていた。


『私の器よ』


頭の奥で、また声がする。


私は耳飾りをそっと握り込み、小さく目を伏せた。


明日になれば分かるだろう。

神官長が何を知っているのかも。

この声の正体も。


――そして、私が何者なのかも。


見上げた北の夜空には、変わらず星が瞬いていた。

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