女神の帰還
王都を発つ前。
私とゼノスは、国王への挨拶のため、再び謁見の間を訪れていた。
静まり返った空間だった。
だが、あの緊迫した審問会の時とは、全く違う意味で息が詰まる。
玉座へ腰掛ける王は、頬杖をつきながら、どこか愉快そうにこちらを見下ろしていた。
「北へ戻るのか」
「は」
ゼノスが短く答える。
「その後は?」
「リア大聖堂へ」
私がそう答えた、その瞬間だった。
王の口元が、ゆるりと不気味に吊り上がる。
「ほう……」
愉快で仕方がないのだろう。
まるで、とびきり面白い玩具を見つけた子供のように、その瞳がねっとりとした光を帯びる。
「神官長自ら、聖女を呼びつけたか。……くく」
低い笑い声が、広い謁見の間へ不気味に響き渡る。
「大悪魔サタリウスの封印を守るグレイル家。奇跡を起こした聖女。そして、330年もの間、沈黙を守っていたリア大聖堂までが、今更動くとはな……」
王は玉座へ深く背を預けた。
だが、その目だけは飢えた獣のようにぎらついている。
とん、と。
指先で肘掛けを叩く。
「……実に良い。くく……堪らんな」
ぽつり、と溢されたのは、熱に浮かされたような悦楽の声だった。
背筋が、ぞわりと粟立つ。
王は今、国の未来を案じている顔ではない。
己の尽きせぬ欲望と支配欲が満たされる瞬間を、心から愉しんでいる狂気の顔だった。
「この国も、いよいよ安泰だ」
笑う。傲慢に、欲深く。
まるで世界のすべてを手中へ収めた絶対の支配者のように。
「――のう、グレイル卿よ」
その瞬間、室内の空気が一気に凍りついた。
ゼノス様は何も答えない。
ただ、底の知れない冷え切った黒い瞳で、静かに王を見返している。
王はそんな彼の峻烈な視線を浴びて、ますます愉快そうに肩を揺らした。
「悪魔の血に、聖女の奇跡。これほど国威を示すに優れた『駒』もあるまい」
ぞくり、と。背筋を嫌な冷気が這い上がった。
この王は――私達を祝福しているのではない。ただ都合良く“使える武器”が揃ったと、獰猛に喜んでいるのだ。
なら、その期待に歪んだ笑みで応えてみせましょう。
「ええ。――すべては、陛下の赴くままに」
この男の前では、聖女の微笑みさえも鋭利な刃。
私はそれを深く心に刻み込むように、唇に完璧な「聖女」の笑みを貼り付けた。
北へ戻る馬車の中は静かだった。
王都へ来た時と同じように、私の目の前にはゼノス様が深く腰掛け、腕を組んでいる。
車輪が規則正しく地面を叩く音だけが響く車内。
ふと視線を感じて顔を上げると、ゼノスが顎を引いて、こちらの顔をじっと見つめていた。
「……何でしょう、ゼノス様?」
「……随分と楽しそうだったな」
「まあ」
私は小首を傾げ、悪戯っぽく微笑んだ。
「ゼノス様にもそう見えていたなら、聖女の姿も随分と板に付いてきた証拠ですわね」
私の言葉に、ゼノスは僅かに目を細める。
しばしの沈黙のあと、彼は低く深く、私を呼んだ。
「……なあ、女狐」
「はい」
「逃げるか?」
その言葉に、私は思わず目を見開いた。
一体、この男は何を言っているのだろう。
冷酷に私の首を刎ね、「聖女」という檻に誘い出した張本人から、まさかそんな言葉が飛び出してくるなんて、思いもしなかった。
けれど、何を考えているのか分からない男ではあるが、これだけは確信が持てた。
――この男は今、本気でそう言っている。
「逃がして下さるの?」
「望むならな」
間髪入れずに返ってきた答えに、私は一瞬、本当にこの男の思考が分からなくなった。
本気で私を逃がそうとしているのか。
それとも、試しているだけなのか。
だが――。
「いいえ」
私はきっぱりと、迷いなく首を振った。
そして、朗らかに笑ってみせる。
「悪魔になると、貴方様の手を取って決めた時。そして……昨夜、貴方様が無事に戻られた時」
胸の奥にある、昨夜消え去ったあの硝子の小箱を思い出しながら、私は言葉を紡いだ。
「私は、ゼノス様……貴方の傍で、私自身の『人間』らしい幸福を掴み取ると。……そう、決めたのです」
私の宣誓を聞いたゼノス様は、一瞬だけ呆れたように息を漏らし、それからフッと不敵に鼻で笑った。
「……強かな女だ」
「ふふ、最高の褒め言葉として受け取っておきますわ」
馬車の窓の外、王都の景色が遠ざかり、再び北の白銀の世界が近づいてくる。
暗雲が立ち込める未来へ向かって進む馬車の中で。
それでも私の心は、不思議なほど静かだった。
理解など、出来ない。
けれど私は、それでもこの男の隣を選んだのだ。
『私の器よ』
―――たとえ、この声が聞こえていようとも。
―――
北へ戻ると、馬車の内側にまで染み込んでくる冷気は、やはり王都の比ではなかった。
ここへ連れて来られてから、まだ一ヶ月ほどしか経っていない。
それなのに、あまりにも目まぐるしく変わる状況に、私の思考はいつ卒倒してもおかしくなかった。
けれど、肌を刺すようなこの厳しい寒さが、むしろ私の理性を静かに律してくれるような気がする。
コンコン、と外から小気味よい音が響いた。
到着を告げる合図。
ぎぃっと重い音を立てて開いた扉から、まるで吹雪そのもののような激しい風が車内へと流れ込んできた。
「おかえりなさいませ」
視界が白く煙る中、出迎えてくれたのは、執事のオリバーだった。
ゼノス様は短く返事を返し、先に馬車を降りた。
私もそれに続こうと、ロングドレスの裾を持ち上げ、馬車の足場にそっと足をかける。
すると、視界の低い位置に、すっと大きな黒い革手袋が差し出された。
「あら。――エスコートですの?」
顔を上げれば、そこにはゼノス様が不愛想に手を差し出していた。
驚いた。ここへ来てから、この人にそんな扱いを受けたことなど一度だってなかった、初めてのことだった。
私は差し出されたその手をしっかりと取り、少しの気恥ずかしさを隠すように、悪戯っぽく微笑みながら感謝を伝えた。
「ありがとうございます」
「……『聖女様』のお帰りだからな」
手を引く一瞬、彼はひどく意地の悪い顔をした。
王都で見せたあの「聖女」の姿をからかっているのだ。
相変わらず憎たらしい人、と言い返そうとして、私はふと、前方へと視線を向けた。
その瞬間、言葉が喉の奥で止まる。
出発の時と同じように、城館の前には、幾重もの甲冑に身を包んだ騎士たちが整然と列をなしていた。その厳粛な空気は、まるで戦場に立つ軍隊のようでもある。
白銀の雪景色のなか、私たちを迎える騎士たち。
その沈黙のなかから、誰かがぽつり、と声を漏らしたのが聞こえた。
「……女神様のご帰還だ」
祈るような、あるいは畏怖を込めた、静かな呟き。
すると、私の手を離したばかりの隣の男から、低く愉しげな声が響いた。
「ここでは『女神』だったか」
ゼノス様はそう口にすると、私の顔を盗み見るようにして、僅かに口元を吊り上げた。
王都の人間たちが欲に塗れた目で崇める「聖女」と、この凍てつく北の地で生きる人々が縋るように見つめる「女神」。
どちらも私の本質ではない、ただの虚像に過ぎない。
けれど、この方が楽しげに私を「女狐」と呼んでくれる限り、私はどんな姿にでもなれるだろう。
「ええ。ですから、どうぞこれからも、私を特別に敬ってくださいね、閣下」
私も負けじと気高く美しい微笑みを貼り付け、冷たい風の中、城館へと向かって歩み出した。




