月明かりの涙
王城へ戻ると、リーザとハンスが既に部屋で待っていた。
「おかえりなさいませ!」
弾んだ声と共に迎えられ、私は思わず微笑む。
ほどなくしてハンスが杖を振るえば、足元に淡い魔法陣が浮かび上がった。
柔らかな光が身体を包み込み、一瞬の浮遊感のあと、鏡の中には見慣れた白金の髪が戻っている。
それでも不思議と名残惜しさはなかった。
今日一日、確かに私は“リル”として息をしていたのだから。
城下での出来事を話しながら、私は道中で選んだ小さな土産をそれぞれへ手渡していく。
リーザには彼女らしい可愛らしい品を。
ハンスには仕事の邪魔にならない実用品を。
そしてマーサには、いつも酷使している手を労わるための香油を。
三人は驚き、喜び、そして少しだけ困ったように笑った。
贈り物というものは不思議だ。
相手を思い浮かべながら選ぶ時間も。
渡した瞬間の顔を見ることも。
どちらも思っていたより心地良い。
「……楽しかったわ」
ぽつりと零した言葉に、三人は何故か嬉しそうに顔を見合わせていた。
―――
「おやすみなさいませ」
そう言って、マーサとリーザが部屋を出ていく。
賑やかな時間が終わり、一人になった私は、ベッドへゆっくりと腰を下ろした。
薄暗闇の中、ベッドサイドのチェストの上に置かれた、小さな硝子の小箱が目に留まる。
昼間、あの古びた露店で見つけた、漆黒のブローチ。
「……闇夜で見ると、まるであの方の瞳のようだわ」
ぽつりと呟き、私は苦笑いを溢した。
その時だった。
遠い廊下のほうが、何やら少し騒がしいことに気づいた。
足音が近づき、私の部屋の前で止まる。
そして――ガチャリ、と。
「起きたか」
「……ええ。驚きましたわ、えらくお早いお戻りで」
ゼノス様はノックも無く、当然のように部屋へと入ってきた。そのあまりの彼らしさに、呆れにも似た笑みが唇から零れる。
月明かりに照らされた彼の姿は、あちこちが血に塗れたままだった。戦地から馬を飛ばし、そのまま真っ直ぐにここへ帰って来たのだろう。
「そんなお姿で……。私のことを、心配でもしてくれましたの?」
カツン、カツンと、重い乗馬靴の音を響かせながら近づいてくるゼノス様に、私は少しの悪戯心を込めて軽口を返した。
いつもなら鼻で笑われるか、睨まれるかのどちらかだ。
カツ、と、私の目の前で靴音が止まる。
「ああ」
無表情のまま、短くそう応じた彼に、私は思わず目を丸くした。
予想外の肯定に硬直する私を見て、ゼノス様はふっと鼻で笑う。
「なんだ。俺が、そんな冷酷な奴に見えていたのか?」
「……そうですわね。血も涙も無い、冷血漢だとばかり思っていましたわ」
ゼノス様なりの不器用な冗談なのだろう。
私はそう受け止め、ふふ、と笑いながら言い返した。
「言うようになったじゃないか、女狐」
口元を僅かに上げ、満足げにそう呟いたゼノス様は、するりと私の後ろを通り過ぎる。
それを追いかけるように振り返ると、彼はチェストの上に置いてあった硝子の小箱を、大きな手でひょいと持ち上げていた。
月明かりにかざすようにして、箱の中の漆黒の輝きを見つめながら、ゼノス様が口を開く。
「今日の戦利品か?」
「ええ、城下の露店で見つけましたの」
「……随分、お前らしい趣味だな」
「そうかしら?」
「ああ。その辺の、きらきらと着飾るだけの宝石を選ばない所がな」
ゼノス様の言葉に、胸の奥がくすぐったくなる。私の本質を、この人は誰よりも見抜いているのだ。
私はくすりと笑って、まっすぐに彼を見つめた。
「それは――ゼノス様に、ですわ」
ひどく静かな時間だった。
この北の地に来てから、この人とこんなに穏やかに、言葉を交わしたことなどなかったのではないだろうか。
いつも刃を突きつけ合うようだった関係が、今は硝子一枚を隔てたかのように静謐だった。
案の定、私の言葉を聞いたゼノス様は、不機嫌そうに眉間に皺を寄せてこちらを睨んできた。
私はそれに苦笑いを返し、そっと瞳を伏せる。
「首元のチョーカーのお返しです。それから……私に、新しい名をくれたことへの感謝を」
ありがとう、と。
本当は、その後にそう続けるつもりだった。
けれど。
ポタリ。
ポタリ、ポタリ。
静まり返った部屋に、音もなく、何かが零れ落ちた。
驚いて自分の頬に手を当てれば、しとりと熱い、濡れた感触が指先へ伝わってくる。
「あら……?」
笑っているはずの唇が、僅かに痙攣していた。
おかしい。
瞬きをするたびに、堰を切ったように流れ落ちる涙を、私は慌てて袖で拭った。
可笑しいわ。別に悲しいことなんて何もないし、泣くような理由なんて、どこにもないはずなのに。
それなのに、一度溢れ出した涙は、どうしても止まってくれなかった。
「申し訳、ないですわ。……お目汚しを」
笑おうとした喉がひきつって、上手く声が出ない。
何故だか急にゼノス様の顔が見られなくなって、私は必死に下を向いた。
その瞬間。
ぐい、と強い力で顎を掴まれ、強引に顔を上に向けられた。
否応なしに、ゼノス様の漆黒の瞳と視線が交差する。
「何故泣く」
「……わかりませんわ」
掠れた声が、自分でも驚くほど弱々しく零れた。
何故泣いているのか、自分でも本当に分からなかった。
ただ、血塗れのまま、当然のようにここへ戻って来たこの人を見た瞬間――胸の奥で張り詰めていた何かが、ふつりと、切れてしまったのだ。
「……っ」
うまく笑えない。
ボロボロと溢れる涙が、視界を滲ませる。
「……厄介な女になるんじゃなかったのか?」
ゼノス様はそんな私を、少し鬱陶しそうに見下ろしたあと、その無骨な指先で、頬を伝う涙を乱雑に拭った。
少し痛いくらいの強さだったけれど、その指の熱が、酷く心地よかった。
「城下に降りて、その強欲な毒牙でも抜かれたか」
馬鹿にするかのように鼻で笑うと、ゼノス様は顎を掴んでいた手をぶっきらぼうに離した。
「もう遅い。寝ろ」
それだけを言い残し、ゼノス様は大きな背中を向けて、足早に部屋を出ていった。
パタンと扉が閉まったあと、私は涙の引いた目で、何気なくチェストの上へと視線をやった。
そこには、もう、何もなかった。
少し前まで月光を浴びていた、あの硝子の小箱は、綺麗に消え去っている。
「……ふふ」
私の唇から、今度は本物の笑みが零れ落ちた。
溢れていた涙は、いつの間にか綺麗に引っ込んでいた。
「本当に、良く分からない人だわ」




