漆黒のブローチ
「お会計は、わたくしが」
マーサがお財布を取り出そうとするより早く、私は栗色の髪を揺らしながら、上着の懐からそっと、小さな革の包みを取り出した。
「素敵なお店を教えて貰ったお礼よ。今日はわたくしに支払わせて頂戴」
店員へ手渡したその硬貨は、ゼノス様の権力でも、ハンス様の施しでもない。
北へ立つ前、執事のオリバーが『お嬢様のお給金です。これからは、あなた自身の人生を生きてください』と、誰にも見つからぬよう、私の手を力強く握って手渡してくれた、私だけの本物の財産。
あの日、私の手を握ってくれたオリバーの手の暖かさと、今、私の隣で蜂蜜色の瞳を丸くしているマーサの手の暖かさが、私の胸の中で優しく重なり合う。
「……ありがとうございます、リルさん。とっても、とっても美味しかったですわ」
マーサは少し照れくさそうに、けれど本当に嬉しそうに微笑んでくれた。
店を出たあとも、私達の足取りは驚くほど軽かった。
お腹も心も満たされたおかげか、さっきまでは夢の中のように感じていた城下の熱気が、今はとても心地よく身体をすり抜けていく。
「次はあちらの広場へ行ってみましょう! 大道芸人たちが集まっているはずですわ」
「ええ、行きましょう」
手を繋いだまま、私達はさらに深く、王都の賑わいの中へと飛び込んでいった。
広場からは、陽気な音楽と地響きのような歓声が聞こえていた。
人だかりを掻き分けて覗き込めば、色鮮やかな衣装を纏った大道芸人たちが、何本もの火のついた棍棒を器用に宙へと放り投げている。
技が決まるたびに、取り囲む群衆がドッと沸き立った。
息を呑んでそれを見つめるマーサの横顔を眺めながら、私は心の中で、ハンスやリーザへ想いを馳せる。
ハンスは今頃、この広い街のどこかで、鋭い目を光らせて周囲の不審者を警戒してくれているのだろうか。
リーザは私の姿をして、あの静かな王城の部屋で、何をして過ごしているのだろうか。
みんなが、私をただの「リル」として外の世界へ連れ出すために、力を貸してくれている。
そんな、温かい解放感に身を委ねて歩いていた、その時だった。
ふと、大通りの片隅に店を構える、古びた露天商が目に入った。
そこには年代物の不思議な装飾品や、出所の分からない奇妙な鉱石が、色褪せた布の上に雑多に並べられている。
高級店のような華やかさはないけれど、どこか時が止まったような不思議な雰囲気を纏う店だった。
何気なく目を向けた、その瞬間。
私の視線は、並べられた品々の中央に鎮座する、ある一つの漆黒のブローチへと吸い寄せられ、釘付けになった。
「どうかされましたか?」
足を止めた私に、マーサが不思議そうに声をかけてきた。
「少し、あちらに行ってもよろしいかしら?」
私が古びた露店を指差して尋ねると、マーサは蜂蜜色の瞳を優しく細めて頷いた。
「もちろんです。 お好きなところを気の向くままに見て回るのが、城下の散策の一番の楽しみですもの。行きましょう、リルさん」
今度は私がマーサの手を引くようにして、一歩、先へと歩き出す。
怪しげな骨董品が並ぶ台座の前へ辿り着き、私はもう一度、そのブローチをじっと見つめた。
それは先ほど食べたケーキの艶やかな黒よりも、もっと昏く、それでいて鈍い光を放っていた。
「触れても?」
「ああ、いいよ。手に取って見てみな」
店主が気さくに笑う。
「……綺麗だろう? 派手な輝きじゃあ本物のブラックダイヤには敵わねえが、その漆黒の深さだけなら、どんな宝石にも負けてねえ代物だ」
掌に載せたブローチは、眩しい陽の光を受けてもなお、どこまでも黒かった。
光を弾いてきらめくのではなく、静かに光を呑み込むような、深淵の黒。
けれど決して濁ってはいない。
「そうね……気高く、美しいわ」
指先で、精緻な銀細工をそっと引き摺るようになぞる。
細やかに絡み合う、茨のような装飾。
その中心で静かに佇む黒い石。
不思議だった。
王都にはもっと、誰もが目を奪われるような華やかなものが溢れているはずなのに。
色鮮やかな宝石も、豪奢なドレスも、美しい髪飾りも。
けれど、私の目には最初からこれしか映っていなかったかのように。
まるで、ずっと以前から探していたものを見つけたみたいに。
「ははは! 面白い娘さんだ」
店主が皺だらけの顔を綻ばせて笑う。
「誰かにプレゼントかい?」
その問いに、私はほんの少しだけ目を伏せた。
脳裏に浮かぶのは、あの遠い北の冬空だった。
吹き荒れる冷たい風。すべてを拒絶するように美しい漆黒の髪。その奥に秘められた、歪な静火。
―――そして、
『リリー・フォレストは死んだ』
低く静かな声だけが、不思議なほど鮮明に残っている。
胸の奥が、静かに凪いでいた。
そこには驚きも、気恥ずかしさによる迷いもなかった。
ただ、それがひどく自然なことのように思えた。
気付けば、言葉は静かに零れ落ちていた。
「ええ」
隣でマーサが、何かに気づいたように小さく息を呑む気配がした。
けれど私は、手の中のブローチから目を離さないまま、穏やかに微笑んだ。
「――とても、大切な方に」
ブローチは、小さなガラス製の小箱に収められていた。
リボンも何もない、いかにも路地裏の露店らしい簡素な包み。
私はそれを、道中で買ったリーザやハンス様へのお土産を詰めた袋の底へ、見つからないようにそっと忍ばせた。
「さあ、帰りましょうか」
リーザも退屈しているでしょうから、と告げて露天商を後にする。
「お嬢さん、またおいで」
背後から、店主の温かい声が追いかけてきた。
私はその声に振り返り、瞳を和らげて答えた。
「ええ、また」
私たちは再び手を繋ぎ、夕暮れに染まり始めた城下の雑踏の中を、穏やかな足取りで歩き出した。




