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チョコレートのムース

リーザの姿になったおかげか、物々しい警戒が敷かれた城内から城下へと降りるのは、呆気ないほど簡単だった。


初めて足を踏入れた王都の城下は、ただ「凄い」の一言に尽きた。


見渡す限りの溢れんばかりの人波、耳を圧する活気のある声、軒を連ねる様々な店に、路地を埋める露天商まで。


「凄いでしょう?」


隣を歩くマーサが、誇らしげに胸を張る。


誰一人として、私たちのことなんて見向きもしない。それぞれが求めているものに向かって忙しなく歩む人の波に揺られながら、私はその「誰でもない居心地のよさ」に、まるで夢の中にいるような奇妙な浮遊感を覚えていた。


「まずは、私のおすすめのケーキ屋に参りましょう」


初めての私に配慮するように、マーサは提案ではなく、楽しげな決定事項として話を進めていく。


「あと、はぐれてはいけませんので、少し失礼しますね」


そう言って、彼女は私の手をそっと取った。

いつも洗濯や掃除を頑張っている、少しごつごつとした、けれど柔らかで暖かな手だった。


「ええ、任せるわ」


そう言って私が微笑むと、マーサの琥珀色の垂れ目がちな瞳が、さらにゆるりと嬉しそうに垂れる。


「リルさんは、どんな色がお好きですか?」


「……ケーキのお話ではなくて?」


「はい。ケーキではなくて、リルさんの好きな色です」


好きな色。


そんなもの、長らく考えることもなかった。

薄暗いフォレスト家の日々も、生きることに必死だったエボニーとの思い出も、全ては生きるために今日を繋ぐだけで精一杯だったから。


けれど、手から伝わる温もりのせいだろうか。


私は自分の記憶の底にある、一番優しい色彩を無意識に手繰り寄せていた。


「……私の乳母もマーサ、貴方と同じような瞳の色の人だったわ。貴方より少しだけ濃い、綺麗な蜂蜜のような色をしてた。だから、その色は好きよ」


ふと言葉にしてから、私ははっと我に返って口元を押さえた。


「……今日はただのリルとして生きる日だったわね」


せっかくの気遣いを台無しにしてしまったと、苦笑いを溢す。


けれど、マーサは繋いだ手を離さないまま、立ち止まって優しく振り返った。


「いいえ、それで良いのではないですか?」


彼女の蜂蜜色の瞳が、真っ直ぐに私を映す。


「過去も現在も、悲しい思い出も、全てをひっくるめて――今のリルさんですもの。無理に切り離す必要なんてありませんわ」


そう言って、マーサはまた前を向いて歩きはじめる。


「もう少しで着きますよ。……ふふ、またリルさん、驚きますよ」


微笑む彼女に引かれながら、私は胸の奥がじんわりと満たされていくのを感じていた。


やがて辿り着いた店は、やはり人気店のようで、外まで溢れるほど大変な賑わいを見せていた。


店から漂う甘い匂いに包まれ、長く続く行列に並ぶ間も、彼女との他愛のない会話は途切れることがなかった。


好きな食べ物、お気に入りの飲み物、王都で流行りのドレスのデザインから、巷で噂になっている『悪役令嬢』が主演の演劇の話まで。


どれもこれも、私にとっては知らないことばかりの世界で、驚きに目を丸くするたびに、胸が弾むような充実した時間が過ぎていく。


そんな話の流れの最中だった。


マーサが実は既に結婚しており、まだ小さな子供もいるという事実を、彼女はごく自然に明かしてくれたのだ。


「……お子さんと離れて王都へ来てしまって、寂しくはなかったの?」


思わずそう問いかけると、マーサは「それはもちろん、寂しいですけれど」と前置きしたあと、愛おしそうな表情で穏やかに答えた。


「夫も、夫の家族も、本当に信頼できる人たちですから。私が留守の間も、あの子をいっぱいの愛情で育ててくれていると信じています。だから、私はこうして安心してお嬢様をお支えできるんです」


その言葉を聴いた瞬間、私の心に、じんわりと温かな火が灯るようだった。


普通なら、自分にない「温かい家庭」の話を聞けば、羨ましいとか、あるいは妬ましいといった昏い感情が泥のように湧き上がってもおかしくないはずだった。


それなのに、今の私にはそんな醜い感情が一切湧いてこなかった。


それはきっと、マーサの話し方のせいだ。

彼女は決して私に自慢するわけでもなく、かといって哀れんで隠すわけでもなく、ただ対等な一人の人間として、私を信頼して話してくれたから。


「お待たせいたしましたー!」


明るい店員の声が響いた。

ようやく私たちの順番が回ってきたらしい。


「リルさん、入りましょう」と楽しそうに促すマーサに引かれ、私は店内に一歩足を踏み入れた。


その瞬間、私は息を呑み、言葉を失って目を見張った。


大きな硝子のショーケースに並べられた色彩豊かなケーキたちは、まさに言葉の通り、本物の宝石のようだった。


何色にもきらめく虹色のムース。サファイアのように澄んだ輝きを放つゼリー。鮮やかなルージュを思わせる真っ赤なイチゴのケーキ。


「驚いたでしょう?」


マーサが、珍しく悪戯に成功した子供のような顔で、ふふっと喉を鳴らす。


目の前の光景は、本当に宝石箱を開けたかのように眩しかった。


「……魔法みたいだわ」


ぽつりと溢れた私の呟きが聞こえたのか、品物を並べていた若い店員が、誇らしげに微笑んで教えてくれる。


「そうなんです! こちらのケーキは全て、高名な女性魔術師様との共同開発で作られているんですよ」


店員は、夢を語るように楽しげに言葉を続ける。


「ご自身の好きな色、今日のラッキーカラー。それから、大好きな方の瞳の色……。ここなら、どんな色でもお菓子にしてみせますよ!」


その言葉に、マーサが私を振り返った。


「リルさんは、何色が好きですか?」


さっき、道すがら聞かれたのと同じ問い。


けれど、今度は迷わなかった。


私はショーケースの一番端に鎮座する、けれど一際異彩を放ち、私の目を惹きつけて離さない()()を見つめていた。


「……黒」


ぽつりと、掠れた声が零れ落ちる。

気づけば、私はそう呟いていた。


「え?」とマーサが驚いたように琥珀色の目を丸くする。

そんな風に驚く彼女の様子がおかしく、愛おしくて、私はクスリと声を立てて笑った。


「ふふ、わたくしの好きな色でしょう? 」


――


案内された席に着くと、ほどなくして私が選んだ商品が運ばれてきた。


黒い、鏡のように美しく磨き上げられ、まるでブラックダイヤのように怪しく光るそれは、チョコレートで艶やかにコーティングされた美しいムースだった。


運ばれてきた漆黒のケーキを見つめながら、マーサがしみじみとした声で語り始める。


「凄いでしょう。……少し前まで、この国での女性魔術師の扱いというのは酷いものでした。けれど、一人の女性が立ち上がったんです。女性魔術師、ダリア・シスターナ様。彼女が虐げられていた女性魔術師たちを集めて、様々な新しいことに挑戦し、自らの価値を証明し続けているんです」


マーサはそう言って、私にそっと小さなフォークを差し出した。


「さあ、食べましょう、リルさん」


「……ええ」


「私には、難しい魔術のことはよく分かりません。けれど、あのダリア様たちのおかげで、この王都は少しずつですが、確実に変わり始めています」


手渡されたフォークを握り、私はその美しい漆黒のムースにそっと刃を入れた。


柔らかな手応えとともにフォークを引き抜くと、真っ黒なチョコレートの層を割り、内側からイチゴのジュレだろうか、深く鮮やかな『赤』がとろりと、滴るように零れ落ちた。


「……こうやって、自分の力で、何だって変えていけるんです」


じっと落ちる赤を見つめる私に、マーサの声がどこまでも優しく、けれど力強く鼓膜を震わせる。


「未来のことなんて、誰にも何もわかりません。けれど……自分で考えて、時には立ち止まって、それでもまた歩き出す。そうして、未来は自分の手で変えて行くことができる。――私はそう、思うのです」


マーサの言葉が、チョコレートの甘い香りと共に、私の胸の最深部へと深く、深く突き刺さっていく。


ダリアという女性魔術師が世界を変えたように。ゼノス様が私の世界を「リル」へと変えてくれたように。


滴る赤をフォークですくい、私はそれを静かに口へと運んだ。

濃厚なカカオの苦味のあと、弾けるような果実の甘酸っぱさが、私の凍えていた舌を確かに、鮮やかに溶かしていった。

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