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暖かな光

翌日。


未だ王都の喧騒が収まることはなかった。


「聖女様万歳!」


「奇跡の聖女様だ!」


けれど、窓の外から聞こえてくる熱狂的な歓声は、私にとってはどこか遠い国の出来事のように感じられた。


四日前までこの世に存在しなかったはずの『聖女』という名が、まるで最初からそこにあったかのように街中へ広がっていく。


ゼノス様の言う通り、全ては上手くいったはずだった。

悪魔になると、そう決めてあの日あの場所で首を差し出したのも、自分自身の意志だ。


けれど今は、その『聖女』という言葉そのものが、どうしようもなく煩わしいものに聞こえてしまう。


呪い。神官長。――そして、私の内に宿る聖女の力。


どれだけ考えても答えのない問いを、私はただ何度もなぞり続けているだけだった。


エボニーを殺されて、私は神を憎んだ。

フォレスト家で虐げられたあの六年間は、ただ神を呪い続けた。


これはその罰、なのだろうか。

神への不敬に対する報いなのだろうか。


だが、もしそうであるならば。

こんなにも長く苦しい罰を下すくらいなら――あの寒い冬の夜、熱く痛く、蹲っていたあの日に。


いっそそのまま殺してくれたら良かったではないか。


窓硝子に映る自分の酷く冷えた顔をぼんやり見つめていると、不意に背後から、陶器の触れ合う小さな音がした。


振り返れば、マーサとリーザがお茶の用意をしているところだった。


立ち昇る白い湯気。

優しく、どこか甘い香りが部屋の空気へ静かに広がっていく。


「お嬢様」


呼ばれて顔を上げる。

マーサは私の表情を見て、少しだけ困ったように眉を下げて笑った。


「そんなお顔をなさらないでくださいませ」


「どんな顔かしら」


「とても、お寂しそうなお顔です」


思わず言葉に詰まる。


そんなつもりはなかった。

けれど、否定もできなかった。


マーサは私の前へ静かに紅茶を置く。


それから少し考えるように視線を落とし、やがてそっと語りかけるように口を開いた。


「城下へ降りてみませんか」


「……城下へ?」


「はい」


彼女は穏やかに微笑む。


「お城の中は、どこへ行っても『聖女様』のお話ばかりでしょう?」


確かにそうだった。


廊下を歩けば誰もが珍しい動物を見るような視線を寄せ、私が近づけば、侍女たちは一斉に噂話を止める。誰も彼もが私を見ている。


「少し、息が詰まってしまいますもの」


マーサはそう言って窓の外を見た。


「城下も、お城の噂話でもちきりですから、かわりはないかも知れません。ですが、あの大きな喧騒の中に紛れてしまえば、リル様の気も少しは紛れるかもしれません」


マーサは私を見ない。

慰めるわけでも、哀れむわけでもない。

ただ静かに続ける。


「閣下がくださったお名前、とても素敵だと思うのです」


――リル。


自分の名より聞き慣れた、侍女の時に呼ばれていた名前。

けれど、ゼノス様がその意味を完全に変えてくれた、私だけの新しい名前。


「せっかくですもの」


マーサは微笑んだ。


「今日は聖女様ではなく――ただの『リルさん』として、お散歩いたしませんか?」


すると、それまで静かに控えていたリーザも一歩前へ出た。


彼女は人差し指を自身の薄紅色の口元に当てると、


「ハンス様にお手伝いをしていただきましょう」


そう言って、パチリ、と綺麗にウインクをしてみせたのだ。


「……あら、リーザ。貴方、そんな感じなのね」


驚いて、私は僅かに目を丸くした。


いつもはマーサが主として動いているから気づかなかったけれど。

じっとこちらを見て首を傾げるリーザの仕草は、驚くほど愛らしかった。


「チャーミングね、とても」


私が思わずクスリと笑うと、リーザは嬉しそうに目を細めた。


「ふふ。はしたないかとこれまでは内緒にしてたのですが……リル様とは、これからきっと長いお付き合いになるでしょう? ですから、早々にバラしておこうかと」


「長いお付き合い……。ええ、そうね。そのほうがこれからの日々が、ずっと退屈しなさそうだわ」


今度は三人で顔を見合わせて笑い合う。


小さく、けれど胸の奥に確かに響く私たちの笑い声。

胸の奥に張り付いていた冷たいものが、ほんの少しだけ溶けた気がした。


リーザが部屋を出て本当に数分だった。

彼女がハンスを部屋へと連れて戻ってきたのは。


「リーザさんから大体の話は聞きました。ちょうど僕も少しお休みを、と思っておりましたので、喜んでお手伝いさせて頂きます」


「まあ、本当に仕事が早いのね。ハンス様、急なわがままを聞いてくださってありがとうございます」


私がお礼を言うと、ハンスはくすりと不敵に笑った。


「わがままなんて、普段の閣下の横暴さに比べれば些末なことです。これくらい、可愛いものですよ」


「……そう、大変なのね。魔術師様も」


「はい。こう見えて、僕はグレイル家の筆頭魔術師ですので」


「……あら、そうだったの。なんだか今日は驚くことが多いわね」


私が少しからかうように目を細めると、ハンスは「なら」と杖を構えた。


「もう一つ、驚くことが増えてしまいますね」


ハンスが短く呪文を紡いだ、その瞬間だった。


リーザと私の足元に、小さなオレンジ色の魔法陣が浮かび上がる。


そして、柔らかな温かい光が、私達の全身を優しく包み込んだ。


それは、本当に一瞬の出来事だった。


「……ふふ、上出来ですね」


声が、すぐ隣から聞こえた。


眩に瞑っていた目をゆっくりと開けば――目の前に、()がいた。


驚きのあまり、私は言葉を失って目を瞬かせる。


「リル様、早くお鏡の前へ。もっと驚きますよ」


「もう……、十分に驚いてますわ」


私の顔をしたリーザが嬉しそうに声を弾ませ、私の手を引いて姿見の前へと引っ張っていく。


鏡の中に映っていたのは、リーザと私だった。


けれど、その見目が、綺麗に入れ替わっていたのだ。

鏡の中の私は、艶やかな栗色の髪と愛らしい瞳を持つ、紛れもない「リーザの姿」をしていた。


「……凄いですわね。ハンス様、貴方本当に素晴らしい魔術師様だわ」


鏡の中のリーザ(私)を見つめながら、ぽつりと感嘆の言葉が零れ落ちる。


「お褒め頂きありがとうございます。けれど、魂を入れ替えたわけではなく、お互いの見目を模写のように変えただけですので……」


ハンスはそう言って、少しだけ言葉を詰まらせた。


瞳が、僅かに真剣なものへと変わる。


「雰囲気を壊してしまって言いづらいのですが……」


「分かっております。……それで良いのです」


外見をどれほど精緻に騙し絵のように変えようとも、私の内に眠る異様な聖力も、身体を蝕む黒魔術の呪いも、何一つ消えてはいない。


ハンスは魔術師として、それを私に釘を刺しておきたかったのだろう。


けれど、今の私にはその割り切りこそが心地よかった。


「さあ、リル様! 今日は私、その可愛いリル様の御姿を借りて、思う存分休暇を満喫させて頂きますね!」


暗くなりかけた空気を察して、リーザが、明るく声を張り上げた。


どんよりとした重い気配を、緩やかに、しかし確実に、彼女の持つ愛らしい雰囲気が塗り替えていく。


ハンスの不器用な気遣いも、リーザのどこまでも真っ直ぐな明るさも。


「……皆様、本当にありがとうございます」


私はそっと胸元に手を当て、二人に深く頭を下げた。胸の奥から湧き上がった、心からの感謝だった。


頭を上げると、目の前にいる「私の顔」が、少しだけ眉根を下げて困ったように笑っていた。

自分がそんな風に悲しそうに微笑む人間なのだと客観的に突きつけられて、なんだか妙な気分になる。


「そんなこと、なさらないでください」


リーザが()()()で口を開く。


「リル様は堂々と、私達をこき使ってくれたらいいんです。巷で流行りの、あの高慢な悪役令嬢のように」


そう言って、リーザは私の顔のまま、パチリと悪戯いたずらっぽくウインクをしてみせた。


「だって――貴女はもう、グレイル家のあるじなのですから」


私は思わず笑った。

それは、ここ数日で初めて肩の力を抜いた笑みだったかもしれない。


「ふふ、そうさせてもらいますわ。――では参りましょう、城下へと」

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