呪いの痕跡
目が霞むほどの眩い光の中だった。
「ああ、やっと……やっと見つけたわ」
誰かが泣いている。
揺蕩うような白金の髪を揺らしながら。
―――
夢を見ていた気がする。
ひどく寂しそうだった。
けれど、その顔だけはどうしても思い出せない。
『――私の器よ』
そんな声だけが、妙に耳に残っていた。
「聖女様万歳!!」
「奇跡の聖女様だ!」
「聖女様万歳!!」
遠くから地鳴りのような歓声が聞こえる。
まるで王都を挙げた祭りのような騒がしさだった。
「……騒がしいわね」
掠れた声が零れた。
重たい瞼を無理に持ち上げる。
ぼやけた視界の先――白い天蓋。豪奢な装飾。磨き上げられた大理石。
見慣れない贅沢な天井をしばらく見つめてから、ようやく思い出す。
――王城だ。
「目が覚めましたか……!?」
弾かれたような声。
視界の端で、椅子に座ったまま眠っていたらしいマーサが勢いよく飛び起きていた。
「……まー、さ?」
「ええ! そうです! よ、良かった……!」
今にも泣き出しそうな顔で何度も頷く。
胸元で握られた手が、小さく震えているのが見えた。
「本当に……本当に良かったです……!」
「……私」
喉がひどく渇いていた。
声が掠れて、うまく紡げない。
審問会のあと、客間へ戻ったこと。
そこまでは覚えている。
けれど、その直後からの記憶が完全に抜け落ちていた。
「どれくらい眠っていたのかしら」
マーサの表情が、一瞬だけ曇った。
「三日です」
「……三日」
思ったより長いわね。
窓の外からは、ガラスを透過してなお、熱狂的な歓声が響き続けている。
「聖女様万歳!!」
「神の祝福を!!」
「奇跡だ!!」
私は思わず顔を顰める。
「だから騒がしいのね……」
その呟きに、マーサは複雑そうに苦笑した。
「今の王都は、その話でもちきりなんです。号外まで出ましたから」
「号外……」
聞き慣れた単語だった。
けれど、何故そこまで街全体が騒ぐのだろう。
私が首を傾げると、マーサはどこかいたたまれないような顔になる。
「『聖女誕生』です。今、王都中がその話をしております」
一瞬、言葉の意味が脳内で結びつかなかった。
けれど次の瞬間、あの白聖大広間での出来事が鮮明に、生々しく蘇る。
『リル・グレイル。貴殿を我が国の聖女としてここに宣言する』
でっぷりと肥えた国王の、傲慢な声。貴族たちの悲鳴、歓声。
そして――。
私は無意識に自分の首筋へと触れた。
指先に伝わる僅かな凹凸。
未だ残る赤黒い傷痕。
夢ではなかった。
あれは確かに起きた、いや、私が起こした現実だった。
「……そう」
小さく息を吐く。
私は『切り札』として上手くやれたのね。
あの日。
私は確かにリリー・フォレストという人間を捨てた。
あんな泥濘のような過去を、今更振り返る必要などどこにもない。
「ゼノス様は?」
自然とその名を口にしていた。
マーサは張り詰めていた表情を少しだけ和らげる。
「公爵閣下は、北東砦へ向かわれました。魔獣の大規模発生です。王都から戻られて、ほとんど休まれないまま……」
「……そう」
不思議と、冷たい安心感が胸に広がった。
私がどれだけ無様に倒れても、王都がどれだけ聖女誕生だと大騒ぎになっても、あの方は何も変わらない。ただ北を護るために、冷酷にその剣を振るう。
――それで良い。
それが、 私の選んだゼノス・グレイルなのだから。
「ハンス様にもお知らせして参ります! きっと飛んできますよ!」
そう言って、マーサは慌ただしく部屋を飛び出していった。
再び、広い客室に深い静寂が戻る。
私はゆっくりと窓の外へ視線を向けた。
王城の美しく整えられた庭園には、大勢の人影が見える。新聞を抱えて走る少年。興奮気味に身振りを交えて語り合う貴族たち。
どこからともなく響く、狂信的な歓声。
「聖女様万歳!!」
遠くで再び跳ねた声に、私はそっと肩を竦めた。
「……だから、騒がしいのよ」
三日。たった三日。
それだけで、世界は私の知らないところで随分と変わってしまったらしい。
そして、その狂った変化の中心にいるのが、自分自身なのだということを、私はまだ、上手く実感できずにいた。
数分後。
静かなノック音とともに、ハンスが部屋へ入ってきた。
「お加減はいかがですか、リル様」
急いで来たのだろうか。
髪は乱れ、息も少し上がっている。
ハンスはベッド脇へ椅子を引き寄せると、静かに私を見つめた。
「……クリスティーナ様。いえ、これからはリル様、とお呼びした方が良いのでしょうか」
私は僅かに目を瞬かせるとハンスは困ったように、けれどどこか優しく笑った。
「閣下から、詳しい事情は聞いておりません。ですが……『今日からはあの女をリルと呼べ』と、それだけ命令を受けました」
「…………」
たった、それだけ。
名前が一つ変わっただけ。
馬鹿らしいほど小さな変化。
なのに――その響きが、どうしようもなく愛おしかった。
リリー・フォレストを殺してくれたあの方の、歪な慈悲がそこに在るような気がして。
「……ハンス様」
「はい」
「酷いお顔ですわね」
目の下には色濃い隈。
瞳の奥には隠しきれない疲労が滲んでいる。
ハンスは数秒ほど沈黙したあと、真顔で言葉を返した。
「誰のせいだと思われますか」
「……さあ?」
「閣下です」
即答だった。
私は思わず吹き出しそうになる。
「リル様が倒れられた直後、北へ戻る準備と医師の招集と魔術師団への命令が同時に飛びました。しかも閣下ご本人は、翌朝には北東砦へ出発です」
「らしいですわね」
「らしいですわね、ではありません。こちらは三日間、ほとんど寝ておりません」
「まあ」
「まあ、ではありません」
そのやり取りが少し可笑しくて、思わず肩が揺れた。ハンスはそんな私を見て、小さく安堵したように息を吐く。
「……笑えるようで何よりです」
「心配をお掛けしたみたいね」
「ええ。大変心配しました」
穏やかな声音。
けれど、その言葉は驚くほど真っ直ぐだった。
私は少しだけ視線を逸らした。
こんな風に真っ直ぐ心配されることに、まだ慣れていない。
「……申し訳ありません」
ぽつりと零す。
するとハンスは僅かに目を丸くした。
「謝罪を求めたつもりはありませんよ。――リル様。生きていてくださっただけで十分です」
その一言に、胸の奥が小さく軋んだ。
生きていてくれて良かった――そんな言葉を向けられたのは、いつ以来だろう。
エボニー以外、フォレスト家では誰もそんなことを言わなかった。
リリーが生きようが死のうが、誰も気にしなかったのだから。
「……変な方」
思わず呟けば、「よく言われます」そうハンスは苦笑した。
そして、その表情がふっと真面目なものへと変わる。
「三日も眠られておりました。お身体はどうですか?」
頭が割れるほど痛むのを平気なふりで隠し、私は口元に笑みを携える。
「ええ、大丈夫ですわ」
そう言いながら、未だ微睡みの中に揺蕩う意識のまま、無意識に自分の右腕へ目をやった。
「あら……消えたのね」
古い傷痕は残っている。
だが、審問会の時に現れたあの異常な裂傷だけが、跡形もなく消え失せていた。
「……やはり驚かれないのですね」
ハンスの静かな指摘に、私ははっと顔を上げた。
「……黙っていたわけではないのよ。北に来てからは一度も起きなかったから、言うタイミングがなくて……」
「リル様、私怒っておりませんよ。むしろ、怒られるべきは私の方です。リル様が眠られている間に、閣下の命でお身体を調べさせていただきました。既に閣下へは報告済みですので、今からリル様にもお話しいたします」
ハンスの表情が、一瞬で魔術師のそれへ変わった。
「……少し、お話が長くなります。ですので、先に結論から申し上げます」
部屋の空気が、微かに張り詰める。
暖炉の火が、ぱちり、と爆ぜた。
「リル様のお身体には、呪い(・ ・)が掛けられている可能性が極めて高い。しかも、我々の想像を絶するほど、強力で悍ましいものです」
呪い。
その単語に、一瞬、思考が停止した。
「……わたくしに?」
フォレスト家で虐げられていたとはいえ、外部の魔術師に呪われるような覚えなど、ただの一つも――。
その時。
不意に、夢の女が脳裏を過る。
『――私の器よ』
ぞわり、と。背筋を氷のような悪寒が幾重にも幾重にも駆け上がった。
「……何の、呪いなのかしら」
声が震えぬよう、私はいつもの淑女の笑みを貼り付ける。
けれど、ハンスは重苦しく首を横に振った。
「……それが、僕にも分からないのです。リル様の肉体には、確かに呪いの痕跡が存在している。ですが、術式の中心となる“核”がどこにも見当たらない。……通常の呪術では有り得ない構造なのです」
暖炉の火が、寂しげに揺れる。
「それだけではありません。リル様のお身体からは、極めて強い聖力も検知されています。ええ、王都で起きた奇跡も説明がつくほどのものです」
……聖力?
私は言葉を失った。
だが、ハンスの顔色は優れない。
むしろ逆だった。
「本来ならば、あり得ません。……聖力と呪いは、混在出来ない。」
「……そんなこと」
ぽつり、零れ落ちる。
ハンスは重々しく首を振った。
「少なくとも、人間の魔術師には不可能です。ですが、一つだけ……思い当たる可能性があります。――黒魔術です」
室内の空気が、完全に凍りついた。
「悪魔と契約した術者のみが扱う禁忌の術。通常の呪いであれば、これほど強大な聖力に耐えられず、浄化され、消滅するはずです。ですが消えていない。それどころか、リル様の肉体そのものへ溶け込むように存在している。――まるで最初から、リル様の一部だったかのように」




