本物の奇跡
「待たれよ」
低く、重い声が白聖大広間へ落ちた瞬間だった。
沸き立っていた傍聴席のざわめきが、一瞬で凍りつく。
ドミニクは条件反射で声の主へと振り返った。
最奥――本来ならば固く閉ざされているはずの、王族専用の重厚な扉が、ゆっくりと左右へ開かれていく。
そこから溢れ出した眩い光が、白亜の法廷を真っ二つに長く裂いた。
「へ、陛下……!?」
記者席のすぐ近くで、誰かが掠れた悲鳴を漏らす。
次の瞬間、法廷内の貴族たちが一斉に立ち上がった。
椅子が鳴り、高級な布地が擦れ合う音が大広間に低く響く。上段の審問官たちですら顔色を土気色に変え、慌てたように深く頭を垂れた。
ユリウス・ド・ゼラコニア国王。
絶対権力の象徴たるその男が、金糸の刺繍が施された重たい王衣を引きずりながら、ゆっくりと中央通路を進んでくる。
だが、そのぎらついた瞳は、最初からただ一人だけを見ていた。
――被告席の、あの女を。
「……っ」
ドミニクは、エドワーズの表情が初めて強く強張るのを見逃さなかった。
これまで絶対の勝利を確信していた男が、初めて、自分の理解を超えたものを見る顔をしている。
王はそんな周囲の狼狽など意にも介さず、ゆっくりと壇上へ視線を巡らせた。
「随分と、騒がしい余興ではないか」
にちゃり、と。
脂に塗れた唇が歪む。
「偽物の断罪、と聞いていたが」
その瞬間、王の目が、真っ直ぐに女を射抜いた。
ざわり、と。
大広間の空気が不穏に揺れる。
審問官たちが困惑したように顔を見合わせ、エドワーズの頬を一筋の冷や汗が伝った。
ドミニクは息を呑んだまま、手元の羽ペンを握りしめて王を凝視した。
(……知っている)
ドミニクは確信した。
王は知っているのだ。
昨夜、王城の奥で何か決定的なことがあったのだと。
だからこそ、この王都の絶対権力者は、こんな馬鹿げた身元審問の場にわざわざ姿を現した。
「グレイル卿」
王の低い声が落ちる。
「昨夜の話。あれは真であるな?」
空気が、完全に変わった。
エドワーズが愕然と目を見開く。
「……陛下? 何を――」
「黙れ」
王は一瞥すら与えなかった。
その一言が放たれた瞬間、フォレスト伯爵家が周到に積み上げてきた盤面が、音を立てて崩れ始める。
静寂。
その完全なる沈黙の中で、被告席の女だけが、静かに笑っていた。
艷やかに、美しく。
そして、どこまでも怪物のように。
「陛下」
ゆるやかに、女の唇が開く。
「貴方様は、どちらをご覧になりますか?」
女の赤い瞳が、ゆっくりと細まった。
「フォレスト家の“偽物”を?」
「――それとも、“聖女”を?」
水を打ったような静寂が落ちた。
ドミニクも含め、誰も息をしていないようだった。
白聖大広間を満たしていた嘲笑も、怒号も、侮蔑も、すべてがたった一言で凍りついている。
――“聖女”。
その言葉だけが、呪いのように空間へ冷たく残っていた。
「……き、貴様」
最初に我へ返ったのは、ヴァレンティノ侯爵だった。
顔を真っ赤に歪め、激昂したまま女を指差す。
「陛下! お戯れを! こんな小娘の妄言に耳を貸すなど――!」
「妄言?」
ぴたり、と。
王の低い声が、ヴァレンティノの怒鳴り声を冷酷に切り裂いた。
「余は昨夜、この目でしかと“見た”のだがな。……お前の目は節穴だったか?」
その瞬間、ヴァレンティノの顔色が、さっと鉛色に青褪める。
エドワーズもまた、初めて明確に動揺を露わにした。
「……昨夜、だと」
エドワーズの口から掠れた声が零れる。
(終わった……)
ドミニクは全身に鳥肌が立つのを感じていた。
フォレスト伯爵家が誇っていた優位は、今、王の一言によって根底から崩壊し始めている。
「グレイル卿」
王が、ゆっくりとゼノスを見る。
「余は、非常に悩んでおる」
脂に塗れた唇が、にたりと歪んだ。
「これは“公開審問”か。――それとも、“聖女降臨”の儀であったか?」
ざわり、と。
せき止められていた空気が、爆発したように騒然となる。
「せ、聖女……!?」
「まさか、本当に……」
「あり得ん……!」
傍聴席が大きく揺れる。
だがその中心で、女は静かに微笑み続けていた。
まるで最初から、この瞬間が来ることをすべて知っていたかのように。
「陛下」
ゆるやかに、女が立ち上がった。
黒いドレスの裾が、血のような真紅の絨毯を優雅に撫でる。
「わたくしは、偽物でも構いませんわ。悪魔でも、怪物でも、化け物でも」
女のペリドットの瞳が、ゆっくりと細まった。
「ですが」
にこり、と。
あまりにも美しく、そしてあまりにも狂気的に、女は首を傾げる。
「あの――“奇跡”だけは、本物ですの」
王は――笑っていた。
喉の奥を震わせ、でっぷりとした腹を揺らし、心底愉快そうに。




