造園の中の地獄
数日後。
長く続いた雪原が途切れた頃、馬車の窓から見える景色は、少しずつ色を変え始めていた。
白銀ばかりだった北の世界に、くすんだ緑と、濁った石造りの街並みが混ざり始める。
人の気配が増えていく。
街道を行き交う商人、巡回兵、遠くから響く鐘楼の音。人の営みが濃くなるにつれ、地平線の向こうに巨大な城壁がその姿を現した。
王都――ルーヴェリア。
高くそびえる白亜の外壁は、冬の薄陽を受けて鈍く輝いている。
空へ突き刺さるような聖堂。
幾重にも重なる貴族街。
美しい都だった。
まるで、腐りかけた果実を、豪奢な硝子箱へ閉じ込めたように。
「……王都は、こんなにも美しかったのですね」
私がぽつりと呟くと、向かい側に座るゼノスが窓の外を一瞥した。
「……まるで初めて見たようなセリフだな」
「ええ。お恥ずかしいながら、……初めてですわ」
窓の外から、子供の無邪気な笑い声が聞こえる。
その声を聞きながら、私は薄く笑った。
まるで、自分とは無縁の世界を眺めているようだった。
「王都どころか、どこも行ったことはありませんわ」
零した声に、ゼノスは何も返さなかった。
ただ頬杖をつき、流れていく景色へ視線を向けている。その横顔は相変わらず冷たく、何を考えているのか分からない。
けれど、下手な憐憫を向けられないことに、私は僅かに安堵していた。
馬車が巨大な城門へ近づくと、「グレイル公爵家の馬車だ!」という衛兵の声が響いた。
途端に空気が変わる。
街道の人々が一斉に道を開け、恐怖と好奇が混ざり合った視線が黒い馬車へ突き刺さる。
「北の死神」――その名は、この国においてあまりにも不吉で、それでいて有名だった。
重々しい音を立てて城門が開く。閉ざされていた馬車の隙間から、王都の空気がゆるやかに流れ込んできた。
甘い香水、 焼きたての菓子、 人々の笑い声。
そして絹の擦れる、耳障りな音。
北の血と鉄の匂いの方が、よほど清潔だった。
「顔に出ているぞ」
低い声にハッとし、即座に微笑みを貼り付りつける。
ゼノスの黒い瞳が、静かに細められた。
「気を抜くな。ここから先、お前は常に見られている」
王城の門を潜り、石畳へ降り立った瞬間、数多の視線が肌へ突き刺さった。
磨き抜かれた白亜の回廊。 優雅に談笑する貴族たち。 陽光を受けて輝く硝子窓と、色鮮やかな花々。
誰もが羨むような、美しい王城。
けれど私にとって、そこは「造園の中に作られた地獄」に他ならなかった。
咲き誇る薔薇より、その陰に隠された棘の方が、よほど鋭く肌を刺してくる。
私は隣へ立つゼノスの差し出した手を取り、その腕へ静かに指を添わせた。
「……見ろ、あれが」 「まあ、本当に連れてきたの?」 「あれは火傷かしら……」 「惨たらしい」
聞こえるように落とされる囁き。
それでも私は優雅に、堂々と笑っていた。視線を返さず、立ち止まらず、ただ「高貴な令嬢」として歩き続ける。
「ですが、本物のクリスティーナ様は今朝も茶会へ出席なさっていたのでしょう?」 「あら、ではこの方はどなたなのかしら」 「さあ……グレイル公爵閣下のお戯れではなくて?」
くすくす、と笑い声が漏れる。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
ぴくり、左の眉がはねる。
気味悪がられることより、傷を見られることより。
「存在しているのに、いないものとして扱われる」――その屈辱が、かつての私へと引き戻そうとする。
ああ、そうだ。
これが私だった。
惨めで情け無い、私だ。
誰も私を「リリー」として見ない。
フォレスト家にとって私は、 存在していると都合が悪いものだった。
呼吸が浅くなる。
肺が、うまく空気を飲み込まない。
気づけば、指先が無意識に銀のチョーカーへ触れていた。
「本物のクリスティーナ様は、それはお優しく美しい方で」 「まあ、では随分違いますのね」 「ええ。まるで別物」
別物。
その言葉が、額に滲む汗を冷たく変える。
周囲を埋め尽くしているのは、公爵家同士の対立を見世物として楽しむ貴族たちと、言葉を武器にする記者たち。
その数は、数十では利かなかった。
無数の視線が、肌へまとわりつく。
値踏みする目。 嘲る目。 暴こうとする目。
それらはまるで、生きたまま人を“存在ごと削り取る”ための刃だった。
猛獣に喰われる方が、まだマシだと思えるほどの精神的な蹂躙。
『泣くな。怯えるな。黙るな』
不意に、ゼノスの声が脳裏を掠めた。
泣いてはいない。 怯えてもいない。
ちゃんと笑っている。
けれど、所詮は付け焼き刃だ。
額に、薄く汗が滲んでいた。
組んだ腕越しに、自分の震えが伝わってしまいそうで、私はさらに身体を強張らせる。
「……女狐、こっちを向け」
耳元で囁かれた低い声は、冷たいのに妙に熱を帯びていた。
見上げれば、ゼノスの黒い瞳が真っ直ぐに私を射抜いている。
次の瞬間、彼は周囲に見せつけるように、私の左頬――火傷痕の残る場所を、ゆるりと撫でた。
ざわり、と周囲の空気が揺れる。
それは「これは自分のものだ」と王都中へ見せつけるような、あまりにも傲慢な触れ方だった。
――そうだ。
今の私は、「隠されるもの」ではない。
この死神が王都を蹂躙するために連れてきた「切り札」だ。
ここにいる連中は、私の地獄を知らない。北で流した血も、耐え抜いた苦痛も、何一つ知らない観客に過ぎない。
私はゆっくりと、深く息を吸い込んだ。
冷え切っていた指先へ、どろりとした熱が戻ってくる。
「……ええ、閣下。心得ておりますわ」
唇の端を、艷やかに吊り上げる。
私は顔を上げた。先ほどまで私を「存在しないもの」として嘲笑っていた貴族たちへ、今度は真っ向から、射抜くような視線を投げ返す。
黒いドレスの裾を翻し、私は再び歩み出した。




