劇薬の修復
リーザの退室からしばらくの後、客室の空気が微かに、不自然に震え始めた。
床に浮かび上がった複雑な紋様が、淡い光を放ちながら魔法陣を形作っていく。
次の瞬間、ぱちり、と火花が散るような硬質な音とともに、一人の青年が空間から姿を現した。
グレイル公爵家専属の魔術師、ハンスだった。
「お呼びでしょうか、閣下――」
淡々と頭を下げかけた、その時だった。
ハンスの視線がベッドに横たわる私を捉え、その表情が瞬時に凍りついた。
「……クリスティーナ様!?」
ハンスは儀礼を放り出し、すぐさまベッド脇へと駆け寄る。
内側から裂けた右腕、白いシーツを汚し続ける赤黒い血、そして死人のように青白い私の肌。
「これは……っ」
震える声のまま、ハンスは即座に掌をかざして治癒の魔法陣を展開した。エメラルドグリーンの淡い光が私の腕を包み込む。
だが、傷口に触れた次の瞬間、その光はまるで拒絶されたかのように、霧となって儚く掻き消えてしまった。
「……駄目です」
ハンスが悔しげに薄い唇を噛む。
「やはり、通常の回復魔法は通りません……!」
「だからお前を呼んだ」
背後から、ゼノスの冷徹な低い声が降ってきた。
「こいつの身体を、一番理解しているのはお前だ」
ハンスの瞳が大きく揺れる。
「一日。……いや、二日だ」
ゼノスは一歩近づき、静かな、けれど絶対的な威圧をハンスへと注ぎ込んだ。
「気付け薬でも、禁忌の魔術でも何でも使え。明日の朝までに、こいつを人前に出せるまともな状態にしろ」
数秒の沈黙。
やがてハンスは、覚悟を決めたように深く息を吐き出した。
「……理由は後でお聞きします。公爵閣下」
そう言いながら、ハンスは私の裂けた腕へそっと優しく触れる。
「ですが、必ず何とかします。……僕のすべてを懸けても」
その声音は、妙に狂信的な熱を帯びていた。
それから数時間、ハンスによる過酷な処置が続けられた。王城の結界の目を盗み、あらゆる強壮の魔術と、肉体を強制起動させる秘薬が私の体内に流し込まれる。
血管が破裂しそうなほどの激痛の狂瀾を抜け、私の意識が完全に覚醒した頃には、謁見の時間が迫っていた。
「……なるほど」
ハンスが額の汗を拭い、小さく息を吐いた。
客室の机の上には、ハンスが調合した、空になった薬瓶が無数に並んでいる。
「これからお二人が、王の御前で何をするつもりかは理解しました」
淡々とした声音。だが、私を見つめるその目だけは全く笑っていなかった。
「ですが、クリスティーナ様の現状を見る限り――」
ハンスは一拍置き、残酷な事実を告げる。
「度重なる損傷により、自己回復能力そのものが追いついていない」
さらに言葉を続ける。
「あるいは……別の何かが、能力そのものを内側から阻害している。現段階では、そのどちらかと判断するしかありません」
室内が、しんと静まり返る。
ハンスはゆっくりと立ち上がり、重苦しい視線を私へと向けた。
「ですので」
その目が、静かに警告する。
「その手段が成功するかどうかは……五分五分です」
絶望的な確率。下手をすれば、今度こそ醜悪な化物に成り下がるだろう。
凄惨な沈黙が部屋を満たす中。
「……ええ」
最初に声を上げて笑ったのは、私だった。
「もし本当に失敗して。国王は、極上の余興として笑って終わるでしょうね。退屈しのぎには、丁度いいでしょう?」
私のその言葉と同時に、それまで静観していたゼノスが、音を立てて立ち上がった。
重い黒の軍靴が、床を威圧的に鳴らす。
「行くぞ」
ゼノスの深淵のような瞳が、真っ直ぐに私を射抜いた。
「今から王へ謁見する。……盤面を壊しにな」
低く、けれど確信に満ちた声。
「女狐。覚悟はいいな」
私は、唇を艷やかに吊り上げ、最高に美しい悪魔の笑みを浮かべた。
「ええ。――喜んで」




