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悪魔と死神の、ありふれた幸福論  作者: 百助蝶子
『公開審問』編
25/32

覚悟の悪魔

――前日。王城、客間。


「もう……疲れましたわ……」


すべてを諦めたような私の言葉に、ゼノスはフッと冷たい鼻笑いを漏らした。


私の腕の傷口を容赦なく掴み、その激痛で私の意識を強引に引き戻す。


「はっ。ここに来て子兎に戻るとは、興醒めだな」


その冷酷な声を聞きながら、私はゆっくりと、重い瞼を閉じた。


―――数秒。

やがて再び開いた瞳の奥には、もう先程までの脆さは残っていなかった。


私の唇が、ゆるやかに弧を描く。

息を呑むほど、艶やかに。


「……いいえ」


静かに、そう返した。


「そうではありませんわ」


この男は、死んだエボニーのように、痛む身体を優しく気遣ってくれるわけではない。額から流れる脂汗を、慈しむように拭ってくれるわけでもない。痛みと恐怖に泣きながら耐える私の手を、温かく握り締めてくれるわけでもない。


けれど。


あの北の地で頭を斬り落とした時も。

猛獣の猛毒をその身で解毒した時も。

そして、異形のように肉体を蠢かせ、血を流して倒れている今この瞬間も。


この男の、私を見る目は何一つ変わらない。


気味悪がりもしない。

恐れおののきもしない。

世間の誰もが向けるような、「化け物」を見る目を、この男だけは決してしない。


ただ、それだけでよかった。


この男は、私を見ても何も変わらない。

それだけで、自分という存在を、この世界で初めて肯定された気がした。


ならば。


この世界で唯一、この冷酷な死神が私を受け入れるのだとしたら。


当の私が、自分自身を化け物だと拒絶するのは――きっと、酷く可笑しな話なのだ。


ただ、漠然とそう思った。


胸の奥から、乾いた、けれど圧倒的な熱がせり上がってくる。


私は笑った。

今まで以上に艶やかに。

それでいて、美しい怪物のように。


「……わたくし、悪魔になりますわ」


室内にしんと静寂が落ちた。

主の豹変ぶりとただならぬ気迫に、リーザもマーサも息を呑んだまま動けない。


そんな中、ゼノスの低い声が室内の静寂を破った。


「……リーザ」

「はっ」

「魔術師、ハンスへ連絡を取れ」


その命令に、マーサが驚愕して目を見開いた。


「っ、お待ちください! ここは王城内です! もし王側の連中に発覚すれば――」


ゼノスが小馬鹿にするように鼻で笑う。


「その程度、どうとでもなる」

「ですが……!」

「こいつに通常の回復魔法は効かん」


ゼノスは冷淡に、事実だけを言い切った。


「だが、強制的に意識を覚醒させる気付け薬なら、多少は持つだろう」


私の壊れた身体の仕組みを、すでにこの男は理解しているようだった。

リーザが僅かに息を呑み、迷いのない声で応じた。


「……承知しました」


そう言って、すぐさま踵を返す。

遠のいていくリーザの足音を聞きながら、私はぼんやりと天井を見上げた。


この男は、本当に変わらない。

私がどれだけ壊れても、どれだけ血を流しても、どれだけ化け物じみていても。


一度たりとも、その瞳を私から逸らさない。


「……ゼノス様」

「何だ」


低い声。私はゆっくりと笑ってみせた。先程までの無理に貼り付けた仮面ではなく、ずっと自然に、ずっと穏やかに。


「北を出る前に仰っていた案――」


ゼノスの黒い瞳が、僅かに細まる。


「お受けいたしますわ」


濃密な静寂が、二人の間に流れる。


「……『聖女』として国王へ進言する、あの案を」


その瞬間。

ゼノスの口元が、ほんの僅かに歪んだ。


それは確かに、笑みだった。


「ようやく頭が回り始めたか、女狐」

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