覚悟の悪魔
――前日。王城、客間。
「もう……疲れましたわ……」
すべてを諦めたような私の言葉に、ゼノスはフッと冷たい鼻笑いを漏らした。
私の腕の傷口を容赦なく掴み、その激痛で私の意識を強引に引き戻す。
「はっ。ここに来て子兎に戻るとは、興醒めだな」
その冷酷な声を聞きながら、私はゆっくりと、重い瞼を閉じた。
―――数秒。
やがて再び開いた瞳の奥には、もう先程までの脆さは残っていなかった。
私の唇が、ゆるやかに弧を描く。
息を呑むほど、艶やかに。
「……いいえ」
静かに、そう返した。
「そうではありませんわ」
この男は、死んだエボニーのように、痛む身体を優しく気遣ってくれるわけではない。額から流れる脂汗を、慈しむように拭ってくれるわけでもない。痛みと恐怖に泣きながら耐える私の手を、温かく握り締めてくれるわけでもない。
けれど。
あの北の地で頭を斬り落とした時も。
猛獣の猛毒をその身で解毒した時も。
そして、異形のように肉体を蠢かせ、血を流して倒れている今この瞬間も。
この男の、私を見る目は何一つ変わらない。
気味悪がりもしない。
恐れおののきもしない。
世間の誰もが向けるような、「化け物」を見る目を、この男だけは決してしない。
ただ、それだけでよかった。
この男は、私を見ても何も変わらない。
それだけで、自分という存在を、この世界で初めて肯定された気がした。
ならば。
この世界で唯一、この冷酷な死神が私を受け入れるのだとしたら。
当の私が、自分自身を化け物だと拒絶するのは――きっと、酷く可笑しな話なのだ。
ただ、漠然とそう思った。
胸の奥から、乾いた、けれど圧倒的な熱がせり上がってくる。
私は笑った。
今まで以上に艶やかに。
それでいて、美しい怪物のように。
「……わたくし、悪魔になりますわ」
室内にしんと静寂が落ちた。
主の豹変ぶりとただならぬ気迫に、リーザもマーサも息を呑んだまま動けない。
そんな中、ゼノスの低い声が室内の静寂を破った。
「……リーザ」
「はっ」
「魔術師、ハンスへ連絡を取れ」
その命令に、マーサが驚愕して目を見開いた。
「っ、お待ちください! ここは王城内です! もし王側の連中に発覚すれば――」
ゼノスが小馬鹿にするように鼻で笑う。
「その程度、どうとでもなる」
「ですが……!」
「こいつに通常の回復魔法は効かん」
ゼノスは冷淡に、事実だけを言い切った。
「だが、強制的に意識を覚醒させる気付け薬なら、多少は持つだろう」
私の壊れた身体の仕組みを、すでにこの男は理解しているようだった。
リーザが僅かに息を呑み、迷いのない声で応じた。
「……承知しました」
そう言って、すぐさま踵を返す。
遠のいていくリーザの足音を聞きながら、私はぼんやりと天井を見上げた。
この男は、本当に変わらない。
私がどれだけ壊れても、どれだけ血を流しても、どれだけ化け物じみていても。
一度たりとも、その瞳を私から逸らさない。
「……ゼノス様」
「何だ」
低い声。私はゆっくりと笑ってみせた。先程までの無理に貼り付けた仮面ではなく、ずっと自然に、ずっと穏やかに。
「北を出る前に仰っていた案――」
ゼノスの黒い瞳が、僅かに細まる。
「お受けいたしますわ」
濃密な静寂が、二人の間に流れる。
「……『聖女』として国王へ進言する、あの案を」
その瞬間。
ゼノスの口元が、ほんの僅かに歪んだ。
それは確かに、笑みだった。
「ようやく頭が回り始めたか、女狐」




