『淑女の笑み』
エボニーの設定をフォレスト家で使えていた元使用人の乳母、に変更しました。
「リリー様が流行病で亡くなられたあの日から……奥方様とクリスティーナ様は、酷く気を病まれていたのです」
クロフトの掠れた声が、静まり返った白聖大広間へ重く落ちる。
「だから妻は、フォレスト家の別宅へ住み込みで入るようになった。お二人のお世話をするために……」
そこで一度、男の喉が詰まった。
込み上げる感情を無理やり押し殺すように、何度も浅い呼吸を繰り返す。
「……そして、それから七年後の冬です」
壇上で握り締められた拳が、小刻みに震え始める。
「忘れもしない。――エボニーが死んだ。そう、連絡が入った」
ざわり、と傍聴席が不穏に揺れる。
「王都の調査官が別宅を調べた結果、あの日、屋敷へ見知らぬ女が出入りしていたことが分かりました」
男の首が、ゆっくりと被告席の女へと向けられた。
「だが、誰が妻を殺したのかまでは掴めなかった」
悔しげに、ぎり、と奥歯を噛み締める。
「そんな時です。エドワーズ様から、“最近、孤児院から引き取った侍女がいる”と聞かされた」
憎悪を孕んだその視線が、真っ直ぐにリリーへ突き刺さる。
「……だから私は、あの女が妻を殺したのだと思った」
そこで、法務官が冷徹に口を挟んだ。
「ならば何故、即座に憲兵へ突き出さなかった?」
水を差すような、それでいて鋭利な声だった。
「あえてエドワーズ氏の元へ侍女として置き続けるなど、正気の沙汰とは思えんが」
責め立てるような追及。
その矛盾を突かれ、クロフトは苦しげに顔を歪めた。
「……あの時点で、私の言葉を誰が信じてくれたというのです!」
張り裂けるような絶叫が、高い天井へと木霊する。
「だから私はエドワーズ様へ懇願した! 目の届く場所へ置き、確実に尻尾を掴んでくれ、と……!」
その緊迫した応酬を、激しい怒号が残酷にぶち壊した。
傍聴席の最前列、木製の柵をがたりと鳴らして飛び出したのは、一人の少年――クロフトの息子だった。
彼は柵に指が白くなるほど縋りつき、被告席の女を、血の滲むような目で見開いて睨みつける。
「――母を返せ! お前は、お前のことは絶対に許さない……ッ!!」
リリーは、何も答えない。
会場中の無数の視線が、針の筵のようにそこへ一斉に突き刺さっていた。
値踏みする目、嘲笑う目、隠された醜聞を暴こうとする目。
記者席のドミニクは、無意識のうちに羽ペンを握る手を止めていた。
おかしい。最初はただの安っぽい見世物だったはずだ。どこからか現れた偽物の令嬢を、王都の貴族たちが寄ってたかって笑って終わらせるだけの、残酷な公開処刑。
そのはずなのに――。
今、自分たちは、何かとてつもなく悍ましく、醜いものを見せられている。
「……反論はございますかな?」
上段から審問官の声が降る。
その問いに対し、先ほどから机をカツカツと、一定の、そして酷く不穏なリズムで指先で叩いていたゼノスが、ゆっくりと立ち上がった。
黒い軍靴が、磨き抜かれた白大理石を容赦なく鳴らす。
――かつん。
たったそれだけの硬質な音が、広間の空気をひりついた緊張感で支配した。
「クロフト卿の話はこの審問に関係のない話だ。ただ下らん同情を誘い、この女を潰すためだけに用意された安っぽい戯言に過ぎん」
周囲を馬鹿にするかのように鼻で笑ったまま、ゼノスはまっすぐにフォレスト卿へと視線を向けた。
「審問を戻そう。フォレスト卿、確認するが」
地を這うような低い声が、静まり返った大広間に響く。
「貴様らは、その女が「偽物」だと、ここで正式に認めるのだな?」
エドワーズが、侮蔑を孕んで目を細めた。
「当然だ」
「ほう」
ゼノスの口元が、僅かに歪んだ。
一見すれば、それは柔らかな笑みにすら見えた。
だが、ドミニクの背筋には強烈な寒気が走った。
あれは笑みなどではない。
飢えた猛獣が、獲物を前にして凶悪な牙を剥き出しにした時の顔だ。
「ならば、偽証罪で処刑される覚悟もあるのだろうな」
空気が一瞬で凍りつく。
次の瞬間、法廷内は爆発したように騒然となった。
「なっ――」
「グレイル公爵、何を!」
「無礼な!!」
口々に叫ぶ貴族たちの中で、しかしエドワーズだけは、その言葉を待っていたと言わんばかりに薄笑いを浮かべていた。
「認めないな」
どこまでも静かで、冷徹な声だった。
「その女が勝手に北へ渡ったのだ。我がフォレスト家とは無関係の人間がな」
沸き立っていたざわめきが、急速に引いていく。
「何者かが裏で手引きし、我が家の証書を持ち出したのだろう」
エドワーズは、ちらりと被告席の女を見た。
その瞳に、嫌悪すら宿ってはいない。そこにあるのは、ただ道端の虫を踏み潰した時のような、無関心で平坦な冷酷さだけだった。
「グレイル公爵家を狙ったのか、あるいは我がフォレスト家に恨みでもあったのか。まあ、どちらでもよいが」
吐き捨てるような、酷く乾いた声。
「おおかた、分不相応な大金に目が眩んだのだろう。……孤児故にな。恩を仇で返すとは」
歪んだ唇から、決定的な一言が紡がれる。
「流石は、親に捨てられただけのことはあるな。身の程を知らぬ孤児め」
その瞬間だった。
女は、ゆっくりと、一度だけ瞬きをした。
そして、その傷跡の上を、一筋の透明な涙が静かに伝い落ちた。
唇には、いまだあの艷やかな「淑女の笑み」を携えたままで。
(……っ)
ドミニクの背中が、ぞくりと激しく震えた。
あの涙が、哀れみを乞うための作り物なのか、それとも内側から溢れた本物なのか、もうどうでもよかった。
完敗だ。
ドミニクはノートを握りしめ、心の中で白旗を掲げた。目の前にいるのは、しがない記者風情が暴けるような、そんな安い女ではない。剥ぎ取られ、貶められ、なおかつ微笑みながら涙を流せる怪物を、一体誰が暴けるというのか。
「……待たれよ」
低く、あまりにも重い声が、天井のステンドグラスを震わせるようにして落ちた。
白聖大広間が、完全に凍りつく。
誰もが反射的に声の主を振り返った。
最奥――本来なら固く閉ざされているはずの、王族専用の重厚な扉が、ゆっくりと左右に開かれていく。
溢れんばかりの眩い光が、白亜の法廷へと差し込んできた。
そして、その逆光の中心に、一人の男が立っている。
「へ、陛下……!?」
誰かが悲鳴のような掠れた声を上げた。
椅子を鳴らし、高級な衣類を擦れ合わせながら、貴族たちが一斉に立ち上がる。動揺のざわめきが、怒濤の波となって広がっていく。
ユリウス・ド・ゼラコニア国王。
何故。何故、この国の絶対権力者が、こんな下俗な審問の場に姿を現したのか。
上段の審問官たちすらも、顔色を土気色に変えて激しく狼狽していた。
「こ、国王陛下……!?」
王は彼らの狼狽に一切答えず、金糸の刺繍が施された重たい王衣を引きずりながら、ゆっくりと中央へ歩みを進めてくる。
その、脂ぎりながらもぎらついた捕食者の瞳が――真っ直ぐに、被告席のリリーを射抜いていた。
ドミニクの喉が、ごくりと鳴る。
法廷の空気が、完全に変わった。
何かが、決定的にひっくり返ろうとしていた。




