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悪魔と死神の、ありふれた幸福論  作者: 百助蝶子
『公開審問』編
24/32

『淑女の笑み』

エボニーの設定をフォレスト家で使えていた元使用人の乳母、に変更しました。

「リリー様が流行病で亡くなられたあの日から……奥方様とクリスティーナ様は、酷く気を病まれていたのです」


クロフトのかすれた声が、静まり返った白聖大広間へ重く落ちる。


「だから妻は、フォレスト家の別宅へ住み込みで入るようになった。お二人のお世話をするために……」


そこで一度、男の喉が詰まった。

込み上げる感情を無理やり押し殺すように、何度も浅い呼吸を繰り返す。


「……そして、それから七年後の冬です」


壇上で握り締められた拳が、小刻みに震え始める。


「忘れもしない。――エボニーが死んだ。そう、連絡が入った」


ざわり、と傍聴席が不穏に揺れる。


「王都の調査官が別宅を調べた結果、あの日、屋敷へ見知らぬ女が出入りしていたことが分かりました」


男の首が、ゆっくりと被告席の女へと向けられた。


「だが、誰が妻を殺したのかまでは掴めなかった」


悔しげに、ぎり、と奥歯を噛み締める。


「そんな時です。エドワーズ様から、“最近、孤児院から引き取った侍女がいる”と聞かされた」


憎悪を孕んだその視線が、真っ直ぐにリリーへ突き刺さる。


「……だから私は、あの女が妻を殺したのだと思った」


そこで、法務官が冷徹に口を挟んだ。


「ならば何故、即座に憲兵へ突き出さなかった?」


水を差すような、それでいて鋭利な声だった。


「あえてエドワーズ氏の元へ侍女として置き続けるなど、正気の沙汰とは思えんが」


責め立てるような追及。

その矛盾を突かれ、クロフトは苦しげに顔を歪めた。


「……あの時点で、私の言葉を誰が信じてくれたというのです!」


張り裂けるような絶叫が、高い天井へと木霊こだまする。


「だから私はエドワーズ様へ懇願した! 目の届く場所へ置き、確実に尻尾を掴んでくれ、と……!」


その緊迫した応酬を、激しい怒号が残酷にぶち壊した。


傍聴席の最前列、木製の柵をがたりと鳴らして飛び出したのは、一人の少年――クロフトの息子だった。

彼は柵に指が白くなるほどすがりつき、被告席の女を、血の滲むような目で見開いて睨みつける。


「――母を返せ! お前は、お前のことは絶対に許さない……ッ!!」


リリーは、何も答えない。


会場中の無数の視線が、針のむしろのようにそこへ一斉に突き刺さっていた。

値踏みする目、嘲笑う目、隠された醜聞を暴こうとする目。


記者席のドミニクは、無意識のうちに羽ペンを握る手を止めていた。


おかしい。最初はただの安っぽい見世物だったはずだ。どこからか現れた偽物の令嬢を、王都の貴族たちが寄ってたかって笑って終わらせるだけの、残酷な公開処刑。


そのはずなのに――。


今、自分たちは、何かとてつもなくおぞましく、醜いものを見せられている。


「……反論はございますかな?」


上段から審問官の声が降る。


その問いに対し、先ほどから机をカツカツと、一定の、そして酷く不穏なリズムで指先で叩いていたゼノスが、ゆっくりと立ち上がった。


黒い軍靴が、磨き抜かれた白大理石を容赦なく鳴らす。


――かつん。


たったそれだけの硬質な音が、広間の空気をひりついた緊張感で支配した。


「クロフト卿の話はこの審問に関係のない話だ。ただ下らん同情を誘い、この女を潰すためだけに用意された安っぽい戯言に過ぎん」


周囲を馬鹿にするかのように鼻で笑ったまま、ゼノスはまっすぐにフォレスト卿へと視線を向けた。


「審問を戻そう。フォレスト卿、確認するが」


地を這うような低い声が、静まり返った大広間に響く。


「貴様らは、その女が「偽物」だと、ここで正式に認めるのだな?」


エドワーズが、侮蔑を孕んで目を細めた。


「当然だ」

「ほう」


ゼノスの口元が、僅かに歪んだ。

一見すれば、それは柔らかな笑みにすら見えた。


だが、ドミニクの背筋には強烈な寒気が走った。

あれは笑みなどではない。

飢えた猛獣が、獲物を前にして凶悪な牙を剥き出しにした時の顔だ。


「ならば、偽証罪で処刑される覚悟もあるのだろうな」


空気が一瞬で凍りつく。

次の瞬間、法廷内は爆発したように騒然となった。


「なっ――」

「グレイル公爵、何を!」

「無礼な!!」


口々に叫ぶ貴族たちの中で、しかしエドワーズだけは、その言葉を待っていたと言わんばかりに薄笑いを浮かべていた。


「認めないな」


どこまでも静かで、冷徹な声だった。


「その女が勝手に北へ渡ったのだ。我がフォレスト家とは無関係の人間がな」


沸き立っていたざわめきが、急速に引いていく。


「何者かが裏で手引きし、我が家の証書を持ち出したのだろう」


エドワーズは、ちらりと被告席の女を見た。

その瞳に、嫌悪すら宿ってはいない。そこにあるのは、ただ道端の虫を踏み潰した時のような、無関心で平坦な冷酷さだけだった。


「グレイル公爵家を狙ったのか、あるいは我がフォレスト家に恨みでもあったのか。まあ、どちらでもよいが」


吐き捨てるような、酷く乾いた声。


「おおかた、分不相応な大金に目が眩んだのだろう。……孤児故にな。恩を仇で返すとは」


歪んだ唇から、決定的な一言が紡がれる。


「流石は、親に捨てられただけのことはあるな。身の程を知らぬ孤児め」


その瞬間だった。


女は、ゆっくりと、一度だけ瞬きをした。

そして、その傷跡の上を、一筋の透明な涙が静かに伝い落ちた。


唇には、いまだあの艷やかな「淑女の笑み」を携えたままで。


(……っ)


ドミニクの背中が、ぞくりと激しく震えた。


あの涙が、哀れみを乞うための作り物なのか、それとも内側から溢れた本物なのか、もうどうでもよかった。


完敗だ。


ドミニクはノートを握りしめ、心の中で白旗を掲げた。目の前にいるのは、しがない記者風情が暴けるような、そんな安い女ではない。剥ぎ取られ、貶められ、なおかつ微笑みながら涙を流せる怪物を、一体誰が暴けるというのか。


「……待たれよ」


低く、あまりにも重い声が、天井のステンドグラスを震わせるようにして落ちた。


白聖大広間が、完全に凍りつく。

誰もが反射的に声の主を振り返った。


最奥――本来なら固く閉ざされているはずの、王族専用の重厚な扉が、ゆっくりと左右に開かれていく。

溢れんばかりの眩い光が、白亜の法廷へと差し込んできた。


そして、その逆光の中心に、一人の男が立っている。


「へ、陛下……!?」


誰かが悲鳴のような掠れた声を上げた。

椅子を鳴らし、高級な衣類を擦れ合わせながら、貴族たちが一斉に立ち上がる。動揺のざわめきが、怒濤の波となって広がっていく。


ユリウス・ド・ゼラコニア国王。


何故。何故、この国の絶対権力者が、こんな下俗な審問の場に姿を現したのか。


上段の審問官たちすらも、顔色を土気色に変えて激しく狼狽していた。


「こ、国王陛下……!?」


王は彼らの狼狽に一切答えず、金糸の刺繍が施された重たい王衣を引きずりながら、ゆっくりと中央へ歩みを進めてくる。


その、脂ぎりながらもぎらついた捕食者の瞳が――真っ直ぐに、被告席のリリーを射抜いていた。


ドミニクの喉が、ごくりと鳴る。


法廷の空気が、完全に変わった。

何かが、決定的にひっくり返ろうとしていた。

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