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不吉な水玉模様

王城の回廊を抜け、貴族たちのざわめきがようやく遠のいた頃だった。


「お、お嬢様……!」


背後を歩いていたマーサが、酷く狼狽ろうばいした声を漏らした。

異変に気づき振り返ると、侍女二人が顔を真っ青に染め、ゼノスに添えたものとは反対の――私の右腕を凝視している。


「どうしたの、二人とも」


何気なく声をかけながら、自身の右腕へと視線を落とした。


その瞬間、思考が一瞬だけ停止する。

漆黒の手袋の指先から、どろりとした何かが絶え間なく滴り落ちていた。


(ああ……黒い手袋でよかったわ)


脳裏に浮かんだのは、そんな的外れな安堵だった。もしこれが白い手袋なら、今頃回廊はパニックに陥っていただろう。


「ゼノス様、申し訳ありません」


私は貼り付けたままの艶やかな笑みで、隣の死神に小さく告げた。けれど、その間も内心の焦燥は順当に限界に近づいている。

周囲の貴族や記者たちの数は減った。だが、まだこちらを値踏みするように見つめる視線は残っている。ここで醜態を晒すわけにはいかない。


「私を城内へ連れて行ってください。……周囲に悟られないように、……っ、引き摺ってでも」


懇願する声が、微かに震える。

体内が狂ったように熱い。まるで、全身の血管に煮えたぎているかのようだった。渇きと痛みが、内側から肉を焼き焦がしていく。


(まだ……まだよ、ここで倒れるわけには……)


ゼノスは眉根を深く寄せ、私を睨みつけた。


「……了承した」


男がそう短く応じるや否や、私の腕から手が外され、代わりに大きな手のひらが私の腰へと回された。ぐい、と強引に引き寄せられる。反対の手で私の左手を包み込むように掴み、自らの身体へと完全に寄り添わせた。


骨が軋むほどの、酷く力強い腕だった。


周囲の目から見れば、それはただの仲睦まじい光景に映るだろう。冷酷無慈悲な死神が、新妻を甘やかし、寵愛しているという噂を証明するかのような姿に。


「……ふふっ。貴方のそんなお顔、初めて、見ました……わ」


私の軽口に、上から険のある声が降ってくる。


「黙っていろ」


ゼノスはそう吐き捨てると、さらに腰を抱く腕の力を強めた。

足元が完全に覚束ない。凄まじい耳鳴りが脳を叩き、強烈な吐き気が容赦なくせり上がってくる。

自分が歩いているのか、それとも歩かされているのかすら、もう分からなかった。ただ、身体が床に崩れ落ちないように保つだけで、精神のすべてが削られていく。


かつん、かつん。

自らの足音が頭に響くたび、意識が遠のきそうになる。


(私は今……ちゃんと笑えているのかしら)


ゼノスの「切り札」として王都に君臨するのなら、こんな端役たちの前で膝を折ることなど絶対に許されない。その執念だけが、私の足を前へと動かしていた。


城内へと続く巨大な扉の前に、重装の衛兵が立ち塞がっている。


「ゼノス・グレイルだ」


ゼノスが低く告げると、衛兵は即座に頭を垂れた。


「お聞きしております。……通行を許可します」


がたり、と重々しい音を立てて門が開く。


城内へと足を踏み入れると、そこは中央回廊の喧騒が嘘のように、酷く静まり返っていた。


「お待ちしておりました、グレイル公爵様」


出迎えた燕尾服の男が恭しく一礼する。王の案内役だろう。


「挨拶はいい。部屋へ案内しろ」


ゼノスは男の言葉を遮り、冷徹に命じた。

案内された客室へ滑り込むように入り、背後でパタリと、リーザが扉を閉めた。


――その音と同時だった。

張り詰めていた糸が千切れ、私の身体は膝から床へと崩れ落ちた。


「お嬢様! しっかりしてください!」


リーザの悲鳴が聞こえる。けれど、私の意識は急速に混濁していく。


ぽたり、ぽたり。

下を向いた視界の先、白大理石の床に、不吉な赤の水玉模様が広がっていく。


「は、鼻血が……っ!」

「マーサ、早くハンカチを……!」


侍女たちの騒ぐ声が、まるで水底から聞くように遠い。


その時、目の前に影が落ち、ゼノスが床に片膝をついた。彼は容赦のない手つきで私を抱き上げると、そのまま室内のベッドへと乱暴に横たわらせる。


手袋の指先から絶え間なく溢れる血を見つめながら、ゼノスがその黒い革を乱雑に引き剥がした。


「――なんだ、これは」


ゼノスの声に、初めて明確な戦慄が混じる。


露わになった私の右腕。『ヨツウデ』の傷痕に重なるように肘下から手首にかけて、肉が酷く裂け、まるで内側からの圧力に耐えかねたように大量の鮮血が噴き出していた。


「…いつもの、ことですわ」


私は、自らの壊れた腕を、ただぼんやりと眺めていた。


(……ああ。やっぱり、そうなのね)


渇いた唇から、ぽつり、と掠れた独白が零れ落ちる。


「私……薄々、気づいていましたの。……自分は、神に呪われた子などではなく……本物の、悪魔なのだと」


血を流して。肉が裂けて。それでも死ねず、肉を繋ぎ合わせる。


「そうでなくては、……説明がつきませんでしょう?」


視線をゼノスへ向ける。

その黒い瞳に映る私は、きっと酷く惨めで、化け物そのものの顔をしているに違いない。


「でも、受け入れられなかった。……いいえ、受け入れたく、なかったの。……人間で、いたかった……」


自嘲の笑みが、涙のように頬を伝う。


「もう……疲れましたわ……」


すべてを諦めたような私の言葉に、ゼノスはフッと冷たい鼻笑いを漏らした。

私の腕の傷口を容赦なく掴み、その激痛で私の意識を強引に引き戻す。


「はっ。ここに来て子兎に戻るとは、興醒めだな」


その冷酷な声を聞きながら、私はゆっくりと、重い瞼を閉じた。

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