不死の聖女
「……フォレスト家は、すべてを周到に準備しているはずです」
暖炉の火が静かに爆ぜる私室。私は、長椅子へ深く腰掛けたままのゼノスを見上げていた。
北を発つ前夜のことだ。
「テリオス公爵家も全面協力しているでしょう。王都の審問が、こちらにとって徹底的に不利になるように」
ゼノスは答えない。
ただ、深淵のような黒い瞳だけをこちらに向けている。
「……では、どうするのですか?」
数秒の沈黙。
やがて、低い声が室内に落ちた。
「女狐」
男の双眸が、妖しくきらめく。
「お前を、『聖女』として国王へ進言する」
完全に空気が停止した。
私は思わず瞬きを繰り返す。
「……どういう、おつもりですか」
「審問官は王側の人間だ」
ゼノスの声は、どこまでも淡々としていた。
「フォレスト家……いや、その後ろ盾であるテリオス家が不利になるような判決を、彼らが下すはずがない。どうあがいても、お前は初手で偽証罪を着せられ、処刑台に送られるだろう」
暖炉の火が、彼の冷徹な横顔を赤く縁取る。
「だが、聖女であれば話は別だ。この国において、『聖女』の権威は時に王権すら超越する」
喉が、乾いた。
この男――最初から、王都の連中が敷いた盤面を根底から叩き壊す気なのだ。フォレスト家も、テリオス家も、王都の貴族達も。すべて。
「今から伝えることを、その足りん頭に叩き込め」
冷徹な圧が、私の鼓膜を震わせる。
「最後に盤面をひっくり返すのは、お前だ」
――そして今。
「ユリウス・ド・ゼラコニア国王陛下。クリスティーナ・フォレスト、拝謁の栄を賜ります」
王城最奥『謁見の間』。
敷き詰められた深紅の絨毯。天を突く白亜の柱。黄金の彫刻で彩られた巨大な玉座。
その絶対の権力の頂点に、一人の男が座っている。
「面を上げよ」
傲慢に響く低い声。
促されるままに、私はゆっくりと顔を上げた。
真っ先に目に入ったのは、仕立ての良い絹をはち切れんばかりに押し広げた、でっぷりと肥え太った身体だった。指には幾重もの豪奢な宝石。酒と脂に塗れたような顔。
けれど、その肉に埋もれた瞳だけは、蛇のように妙にぎらついている。
「ほう……」
ユリウス・ド・ゼラコニア国王が、にちゃりと不快な笑みを漏らした。
「随分と面白い娘を連れて来たものだな、グレイル卿」
「光栄です、陛下」
ゼノスは片膝をついたまま、低く答えた。
王のぎらついた視線が、値踏みするようにゆっくりと私へ向く。
「フォレスト、だったか」
その姓が呼ばれた瞬間、側近たちの間に僅かな緊張が走る。
「そなた、自らその名を名乗るのだな。この期に及んで」
私はただ、美しく微笑んでみせた。
「ええ。……他に名を持ちませんので」
王の目が、鋭く細まった。
「……偽物にしては、中々肝が据わっておるではないか」
広大な空間が、しんと静まり返る。
「まあよい」
王は退屈そうに頬杖をついた。
「謁見の理由を申してみよ。我は忙しいのだ。なのにお前のために、わざわざ時間を割いてやった」
にちゃり、と歪んだ唇から、恫喝めいた言葉が紡がれる。
「此度の騒ぎは我が耳にも届いておるぞ。まさか、明日の審問を前にして『許しを請おう』などという、馬鹿げた戯言ではあるまいな?」
その射すような視線が、再びゼノスへ向く。
「……なあ、グレイル卿よ」
蔑むような嘲笑。
けれどその奥には、北の死神に対する王特有の、僅かな警戒が滲んでいた。
誰もが沈黙を守る中、
「……330年前の伝説を、もう一度我が王国が手に出来る」
静かに、凜とした声を響かせたのは、私だった。
謁見の間の空気が、文字通り凍りつく。
王の目が獰猛に細まった。
「ほう?」
私は唇を、今まで以上に艷やかに引き上げてみせる。
虚勢には、さらなる虚勢を。
嘘には、底の知れない嘘を。
――僅かな真実を混ぜ込みながら。
「そう申し上げれば、陛下はどうなさいますか?」
空気が凍りついたのは、一瞬だった。
数秒の静寂の後、王の傍らに控える側近たちから、ひとり、またひとりと、嘲るような笑い声が漏れ始める。
「は……」
「何を言い出すかと思えば」
「聖女、だと?」
どう考えても頭のいかれた狂人の戯言。
死罪を免れたい一心での、哀れな苦し紛れの言い訳。
王都の連中にそう思われるのは、最初から織り込み済みだった。
けれど、私の淑女の笑みは微塵も崩れない。
まるで、彼らの浅薄な反応のすべてを最初から見通しているかのように。
「330年前に消えた聖女ルーヴェリアが――“不死”であったことは、当然、ご存知ですわよね?」
ざわり、と空気が大きく揺れた。
この国の子供なら誰もが知っている建国伝説。
かつてエボニーが何度も何度も読み聞かせてくれた絵本の物語。
この国の名前の由来にもなった、不死の聖女ルーヴェリア・ド・ゼラコニア。
神の寵愛を一身に受けた女。
「陛下」
私は、ゆるやかに首を傾げて王を見つめた。
「この世は、退屈ではございませんか?」
王の眉が、ぴくりと跳ねる。
「有り余る富。有能な部下。大陸精鋭の騎士たち」
私の赤い唇が、ゆっくりと、深く深く弧を描いていく。
「すべてをその手に入れた偉大なるお方には……この世のすべてが、酷く退屈なのではありませんか?」
「な、何だと――!」
激しい怒声が響き渡った。
王の最側近の一人が、顔を真っ赤にして立ち上がる。北を発つ前、頭に叩き込んだ特徴と完全に一致する顔――ヴァレンティノ侯爵。
「無礼極まりないぞ、偽物風情が!!」
私は、その怒声に怯むことなく、視線だけを彼へと向けた。
「まあ」
くすり、と、あえて鈴を転がすように艶っぽく笑ってみせる。
「ヴァレンティノ卿。わたくし、無礼を申し上げに参ったわけではございませんのよ?」
私は静かに、跪いたままのゼノスへと歩み寄った。
そして、その頑強な手を取り――黒い革手袋越しの、冷たい指先へ、そっと恭しく唇を落とした。
広間が騒然とざわめく。
ふと男の瞳を覗き込めば、ゼノスがぴくりと僅かに眉根を寄せていた。
(やり過ぎだ、女狐)
その黒い瞳にそう言われた気がして、私の口元から、さらに小さく笑みが零れる。
――その瞬間だった。
するり、と。
ゼノスが、私に掴まれていた自らの手を引き抜いた。
次いで、腰に帯びた黒い大剣の柄へと、迷いなくその手を掛けた。
「……っ」
広間の空気が、一瞬にして爆発的な殺気へと塗り替えられる。
――チャキリ。
不吉な金属音とともに抜き放たれた漆黒の刃が、鈍く光を反射した。
そして、その恐るべき切っ先が、ゆっくりと、私の白い首筋へと添えられる。
「な、何を――!」
ヴァレンティノ侯爵が悲鳴のような声を上げた。
「頭でも狂ったか、グレイル卿!!」
周囲の騎士たちが一斉に立ち上がり、剣の柄に手をかける。
誰もが息を呑み、突如始まった死神の奇行に戦慄していた。
だが、ゼノスは一切の雑音を無視し、何も答えない。
その冷徹な黒い瞳だけが、真っ直ぐに私だけを射抜いていた。
(逃げるなよ)
そう、鋭く命じられている気がした。
私はそれに応えるように、最高に艶やかな笑みを浮かべた。
「では」
私の赤い唇が、ゆるやかに開く。
「――とくと、ご覧に入れましょう」
その言葉が、私の口から完全に放たれた、まさにその瞬間だった。
――ズバンッ!!!
一閃。
暴風のような凄まじい速度で、黒い剣が振るわれた。
謁見の間に、鮮烈な鮮血が舞い散る。
ごとり、と。
鈍い音を立てて、私の首が、真紅の絨毯の上へと転がった。
続いて、頭部を失った身体が、糸の切れた人形のようにドサリと床へ崩れ落ちる。
――。
王城の謁見の間が、今度こそ、完全に凍りついた。
誰も、動かなかった。
悲鳴すら上がらない。
転がった首から、赤い血だけが静かに絨毯を濡らしていく。
王すらも、ヴァレンティノ侯爵すらも。
――そこにいた誰一人として、目の前の光景を理解出来ずにいた。




