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悪魔と死神の、ありふれた幸福論  作者: 百助蝶子
『公開審問』編
21/35

『霧の中の女』

静まり返った広間へ、一つ、また一つと囁きが落ちていく。


「……本当に傷が」

「気味が悪い……」


悪意に満ちた声は、瞬く間に会場中へ広がった。


だが。


女――自称クリスティーナ・フォレストと呼ばれるその女性は、一切俯うつむかなかった。


背筋を凛と伸ばし、あろうことか、口元へ薄く笑みすら浮かべながら。まるで自分へ向けられる悪意など、最初からこの世界に存在しないかのように堂々と歩いていく。


その姿に、記者席のドミニクは僅かに眉を寄せた。


(……違うな)


ただ怯えた愛人ではない。かといって、気位の高い貴族令嬢とも違う。


もっと別の。


決定的に、何かがおかしい。


ドミニクは記者としての己の勘に、絶対的な自信を持っていた。


人間を見れば分かる。

成り上がりか、 詐欺師か、 狂人か。


あるいは、本物か。


視線と仕草、呼吸、言葉の癖。

そういう僅かな綻びを拾い上げ、記事へ変えるのが自分の仕事だった。


だが、ドミニクにはこの女が分からなかった。


まるで、霧を見ているみたいに輪郭が掴めない。


「おい、見ろよ」


隣の記者が、興奮を隠しきれない様子で肘を小突いてくる。


「グレイル公爵、あの女に触れてるぞ」


視線を向ければ、確かにゼノス・グレイルは、女の腰を強固に支えるように腕を回していた。一見すれば自然なエスコートだ。


だが、王都の貴族が「北の死神」と恐れるあの男が、これほどまでに誰かへ触れ、引き寄せている姿はあまりにも奇妙だった。


「寵愛って噂、本当かもな」

「まさか。単なる見世物だろ」


周囲がざわつく。

だが、ドミニクは気づいてしまった。


女の足取りが、僅かに揺れていることに。


(……歩けていない?)


ほんの一瞬だった。


黒いドレスの裾が不自然に乱れ、女の身体がぐらりと傾ぐ。


だがその瞬間、ゼノスの腕が強引なほどの力で彼女を強く引き寄せた。

何事もなかったかのように。


誰一人として、その異変を周囲に悟らせないまま。


「……」


ドミニクは目を細めた。

あの冷酷無比な男が、わざわざ隠した。


つまり、あの女は今、かなり危うい状態にある。


なのに彼女は、笑っているのだ。


「……は」


小さく、乾いた笑いがドミニクの口から漏れた。


面白い。急に、この安っぽい審問会が最高に面白くなってきた。


女は真紅の絨毯を進み、断罪の被告席へと辿り着く。


周囲を囲む無数の視線、嘲笑、好奇、嫌悪。その全てを全身に浴びながら、女はゆっくりと席へ腰掛けた。


その瞬間だった。


不意に、ドミニクの目が細まる。


女の右手――黒いレース手袋の指先から、赤い雫が一滴、床へ落ちた。


「……っ」


ドミニクの瞳孔が細まる。だが次の瞬間には、ゼノスの大きな手が、その傷ついた手を上から覆い隠していた。


あまりにも自然に。

まるで最初から、そこへ血など存在しなかったみたいに。


「これより――公開審問を執り行う」


重々しい声が、白聖大広間へ響き渡った。

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