『霧の中の女』
静まり返った広間へ、一つ、また一つと囁きが落ちていく。
「……本当に傷が」
「気味が悪い……」
悪意に満ちた声は、瞬く間に会場中へ広がった。
だが。
女――自称クリスティーナ・フォレストと呼ばれるその女性は、一切俯かなかった。
背筋を凛と伸ばし、あろうことか、口元へ薄く笑みすら浮かべながら。まるで自分へ向けられる悪意など、最初からこの世界に存在しないかのように堂々と歩いていく。
その姿に、記者席のドミニクは僅かに眉を寄せた。
(……違うな)
ただ怯えた愛人ではない。かといって、気位の高い貴族令嬢とも違う。
もっと別の。
決定的に、何かがおかしい。
ドミニクは記者としての己の勘に、絶対的な自信を持っていた。
人間を見れば分かる。
成り上がりか、 詐欺師か、 狂人か。
あるいは、本物か。
視線と仕草、呼吸、言葉の癖。
そういう僅かな綻びを拾い上げ、記事へ変えるのが自分の仕事だった。
だが、ドミニクにはこの女が分からなかった。
まるで、霧を見ているみたいに輪郭が掴めない。
「おい、見ろよ」
隣の記者が、興奮を隠しきれない様子で肘を小突いてくる。
「グレイル公爵、あの女に触れてるぞ」
視線を向ければ、確かにゼノス・グレイルは、女の腰を強固に支えるように腕を回していた。一見すれば自然なエスコートだ。
だが、王都の貴族が「北の死神」と恐れるあの男が、これほどまでに誰かへ触れ、引き寄せている姿はあまりにも奇妙だった。
「寵愛って噂、本当かもな」
「まさか。単なる見世物だろ」
周囲がざわつく。
だが、ドミニクは気づいてしまった。
女の足取りが、僅かに揺れていることに。
(……歩けていない?)
ほんの一瞬だった。
黒いドレスの裾が不自然に乱れ、女の身体がぐらりと傾ぐ。
だがその瞬間、ゼノスの腕が強引なほどの力で彼女を強く引き寄せた。
何事もなかったかのように。
誰一人として、その異変を周囲に悟らせないまま。
「……」
ドミニクは目を細めた。
あの冷酷無比な男が、わざわざ隠した。
つまり、あの女は今、かなり危うい状態にある。
なのに彼女は、笑っているのだ。
「……は」
小さく、乾いた笑いがドミニクの口から漏れた。
面白い。急に、この安っぽい審問会が最高に面白くなってきた。
女は真紅の絨毯を進み、断罪の被告席へと辿り着く。
周囲を囲む無数の視線、嘲笑、好奇、嫌悪。その全てを全身に浴びながら、女はゆっくりと席へ腰掛けた。
その瞬間だった。
不意に、ドミニクの目が細まる。
女の右手――黒いレース手袋の指先から、赤い雫が一滴、床へ落ちた。
「……っ」
ドミニクの瞳孔が細まる。だが次の瞬間には、ゼノスの大きな手が、その傷ついた手を上から覆い隠していた。
あまりにも自然に。
まるで最初から、そこへ血など存在しなかったみたいに。
「これより――公開審問を執り行う」
重々しい声が、白聖大広間へ響き渡った。




