伏魔殿への進軍
王都へ向かう出立の日は、驚くほど静かに訪れた。
数日吹き荒れた雪嵐はようやく止み、重く垂れ込めた灰色の雲の隙間から薄陽が差している。けれど、グレイル公爵邸を包む空気は、戦の前日を思わせる張り詰めた緊張に満ちていた。
玄関ホールには、出発を見送る兵士や使用人たちが、整然と列をなしている。
誰一人として口を開く者はいない。ただ、その視線だけが、重厚な階段をゆっくりと降りてくる私へと、吸い寄せられるように集まっていた。
黒と深紅のドレス。肘までを覆う漆黒の手袋。
そして、首元を締め付ける銀のチョーカー。
硬い踵が石の階段を叩く。
――かつ、かつ、と。
その無機質な音だけが、静まり返ったホールに冷たく響き渡った。
並んでいる者たちの瞳には、明らかな「恐れ」が宿っている。正体の知れぬ、死なない怪物への警戒。
けれど同時に、その奥底には「期待」が混ざり合っていた。
この女なら、王都という伏魔殿すらも喰らい尽くしてしまうのではないか、と。
階段を降り切ると、そこには既に旅装束へ着替えたマーサとリーザが控えていた。
厚手の外套に、防寒用の革手袋。腰には小さな護身用の短剣を帯びている。その姿は、高貴な令嬢に傅く侍女というよりは、戦場へ随伴する従軍者に近かった。
「お荷物は全て馬車へ積み込み済みです、クリスティーナ様」
マーサが頭を下げる。その声は微かに震えていたが、瞳に逃げ出したいという卑屈な色はない。
私はその二人を見つめながら、小さく息を吐いた。
この二人は、私が「壊れた時の駒」として連れて行かれる。ゼノスが語った理由は、あまりにも冷徹で、酷く合理的だった。
けれど、それでも二人はこうして私の隣に立つことを選んだ。
「……怖くはないの?」
思わず零れた問いに、リーザが少しだけ目を丸くした。
「怖い、です。……本当に」
正直な返答だった。
彼女は唇を噛み締め、震える拳を握りしめた。
「ですが……お嬢様をお一人で王都へ向かわせる方が、ずっと怖いのです」
胸の奥が、微かに、けれど決定的に軋んだ。
フォレスト家では、誰もそんなことは言わなかった。泣こうが壊れようが。誰も。
その時だった。
ホールの奥にいた一人の若い兵士が、ぎこちない動きで膝をついた。
それを合図にしたかのように。
続けて一人、また一人。
やがて、整列していた兵士たちが次々と胸へ拳を当て、一斉に頭を垂れた。
「……っ」
隣でリーザが小さく息を呑む。
以前なら、有り得なかった光景だ。彼らは今でも、私を恐れている。怪物だと思っている。
けれど同時に、この北を救った「何か」として、認め始めているのだ。
悪魔、呪われた子、隠された影。
それが私だった。
なのに今、怪物であることを隠さず、むしろその牙を剥き出しにした途端、人々は私に頭を垂れている。
(なんて皮肉なのかしら)
「……行くぞ」
氷を砕くような低い声が響いた。
気づけば、ゼノスが既に開かれた馬車の扉の前に立っていた。
黒い軍装を纏い、雪の反射を受けて光るその姿は、これから魂を刈り取りに向かう死神そのものに見えた。
私は視線を前へと戻し、ゆっくりと歩き出した。
その途中、ふと一人の老兵と目が合う。
顔の半分を古い傷跡で潰した、大柄な男。彼は数日前、ヨツウデの毒に侵され、私の血によって死の淵から引き戻された兵士の一人だった。
老兵は無言のまま、深々と、腰を折って頭を垂れた。
その姿を見た瞬間。
私の胸の奥で、どろりと昏い快感が、甘い毒のように広がった。
ああ。私は今、確かに必要とされている。
その歪な「居場所」が、どうしようもなく愛おしく、甘美だった。
「……クリスティーナ様?」
足を止めた私を、マーサが不安げに呼ぶ。
私は何事もなかったように、ただ優雅に微笑んでみせた。
「なんでもないわ。行きましょう」
再び歩き出す。
黒いドレスの裾が、雪を掃くように揺れる。
その背を、兵士たちは誰一人として目を逸らすことなく見送っていた。
まるで、 災厄が王都へ解き放たれる瞬間を、 見届けるように。
「感傷は済んだか」
不意に、真上から低い声が落ちる。
馬車の前に立つゼノスが、私を射抜くような眼差しで見下ろしていた。
「ええ」
私は静かに笑った。
「いつでも、結構ですわ」
ゼノスは数秒、私の瞳の奥に潜む「何か」を無言で探るように見つめていた。
やがて、満足げに鼻を鳴らす。
「ならば行くぞ」
死神はそう言い残し、先に馬車へ乗り込んでいく。
私は最後に一度だけ、雪に閉ざされたグレイル公爵邸を振り返った。
怪物として迎えられ、女神として恐れられた、冷酷で美しい北の地。
今、私はその凍てつく北の意志を背負って、あの忌々しい王都へと進軍する。
黒いドレスの裾を翻し、私はゆっくりと、けれど確かな足取りで馬車の闇へと乗り込んだ。




