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死神と女狐

馬車の扉が、重苦しい金属音を立てて閉まった。

途端に、外界の喧騒が嘘のように遠のく。

分厚い扉一枚を隔てただけだというのに、吹雪の唸りも、兵士達の気配も、まるで別世界のもののようだった。


揺れるランタンの心許ない薄明かりの中。向かい側の座席には、漆黒の外套に身を包んだゼノスが既に腰を下ろしている。

長い脚を組み、片肘を窓枠へ預けたその姿には、相変わらず一分の隙もない。まるで戦場という概念そのものが、人の形を借りてそこに座っているかのようだった。


馬車がゆっくりと動き出す。

ごとり、と伝わってくる鈍い振動。

その瞬間、私の胸の奥かひどくざわついた。

王都へ向かっている。あの場所へ。

私の存在ごと無残に殺した、忌まわしき光の都へ。


無意識だった。


私は、黒い手袋越しに自らの首元を強く押さえていた。

指先に触れる、銀のチョーカー。

その下には、ゼノスに斬られた「死ねなかった証」――赤黒い傷痕が、今も脈打つように疼いている。


「吐くか?」


不意に、声が落ちた。


顔を上げると、ランタンの影に沈んだゼノスの瞳が、こちらをじっと射抜いていた。


「……まさか」


反射的に、完璧な淑女の微笑みを浮かべて見せる。


けれど。


「顔色が悪い」


即座に、容赦なく切り捨てられた。


私は小さく吐息を漏らし、言い訳を飲み込んで窓の外へと視線を逃がした。

流れていく景色は、どこまでも色を失った冬の情景だ。

灰色、白、そして黒。

色の死んだ北の大地。


「……不思議ですわね」


ぽつり、と独り言のような言葉が零れる。


「何がだ」

「北はこんなにも寒く、恐ろしくて、四方八方から血の匂いが漂ってくる場所なのに」


私は自嘲気味に、薄く笑った。


「あの煌びやかな王都へ戻る方が、今の私にはずっと恐ろしいのです」


沈黙が訪れた。

馬車が雪を踏みしめる軋み音だけが、密室のような空間に響く。


やがて。


「当然だ」


ゼノスが、淡々と答えた。


「北の魔獣は牙を剥く。敵意を隠さん。だが貴族は違う」


黒い瞳が、静かに細められる。


「奴らは笑いながら、お前の喉を裂く」


ぞくり、と背筋が粟立った。

戦場を知り尽くし、人の醜悪さを蹂躙してきたこの男が言うからこそ、その言葉には実感を伴う重みがあった。


「……お前は、まだ優しすぎる」

「優しい……? 私が、ですか?」


思わず聞き返すと、ゼノスは鼻で笑った。


「兵士に頭を下げられた程度で、あんな顔をする女がかか?」


心臓が、どくりと大きく跳ねた。


見られていたのだ。玄関ホールでのあの瞬間を。

自分を怪物と呼ぶ者たちが膝を屈する姿に、必要とされる喜びに、甘く酔いかけていた自分の醜い本心を。


私はたまらなくなって視線を伏せた。


「……滑稽でしょう? 結局、私はあの方たちと同じ。誰かに認められなければ、自分の価値を信じられないのです」

「いや」


即答だった。


「使えるものに価値を感じるのは当然だ」


ゼノスは突き放すような冷徹さで言い放つ。


「お前は今まで、奪われるだけの『使われる側』だった。だが今は違う」


静かな断定が私の耳元に絡みつく。


「お前自身が、自分の価値を利用し始めている。他者を動かすための『力』としてな」


その言葉に、喉の奥が妙に熱くなった。


フォレスト家では、価値など欠片も与えられなかった。ただ消費され、尊厳を削られ、壊されるのを待つだけの端材だった。


けれど今、私は自分の血で、人々の恐怖を、崇拝を、そして忠誠を買い取っている。


「……閣下は」


私はゆっくりと顔を上げ、彼の黒い瞳を真っ向から見据えた。


「どうして、そんな風に迷いなく人を使えるのですか。どうして、これほどまでに冷酷でいられるのですか」


ゼノスはしばらく答えなかった。

馬車が大きく揺れ、ランタンの火が壁に大きな影を躍らせる。


やがて。


「簡単な話だ。情を持ち込み過ぎれば、判断が鈍る」


彼は再び窓の外を見やり、そのまま続けた。


「守りたいと思えば迷い、救いたいと思えば躊躇ためらう。だから、切れなくなる」


その横顔は、あまりにも静かだった。

まるで、自らの人間らしい感情を切り捨て続けてきた者の顔。


「だから俺は、最初から選ばない」


胸の奥が、鋭い棘で刺されたように痛んだ。


この男は冷酷だ。

けれど同時に、どこか根源的な部分が欠落している。


けれど、だからこそ、この北を統べる「死神」であり続けられるのだろう。


「……なら」


私は小さく、挑戦的に笑ってみせた。


「私は閣下の判断を鈍らせませんか? 」


その瞬間。ゼノスの視線が、ゆっくりと、こちらへ向いた。


馬車の薄暗い灯りの中、その黒い瞳だけが妙に鮮明だった。


数秒の、沈黙。


そして。


「さあな」


低く、掠れた笑みが彼の唇に刻まれる。


「試してみるか?」


一瞬にして、室内の空気が張り詰めた。


心臓の鼓動が、耳のすぐ傍で鳴り響く。

けれど私は、その視線から一歩も引かなかった。


「……ええ」


紅く塗った唇に、艶やかな笑みを乗せる。


「せっかくなら、閣下が後悔するくらい厄介な女になってみせますわ」


ゼノスは数秒、無言で私を見つめていた。その瞳に今の私がどう映っているのかは分からない。


「既に十分厄介だ、女狐」


けれど死神はそう言って、満足げに低く喉を鳴らした。

馬車は闇夜の雪原を裂き、審問の待つ王都へと、加速していった。

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