第19話 みんな同じ曲を聴いていた
今回のお題:曲の中で一番好きなところ
サビ、イントロ、歌詞、低音、楽器、ライブ演出など。
同じ曲が好きでも、どこを気に入ったのかまで同じとは限らないようです。
「ハジメ、今夜空いてる?」
背後から呼ばれて振り返ると、ミナが端末を片手に立っていた。隣にはポルカもいる。
「飯食って、ネット見て、寝る予定」
「じゃあ空いてるね」
「俺の予定、全部なかったことにされた?」
「いつでもできるでしょ。それより、これ見て」
ミナが端末をこちらへ向けた。
《多感覚音楽公演》
《会場:第二娯楽ホール》
《一般観覧枠:追加受付中》
紹介映像には、光に包まれた巨大な舞台が映っていた。いくつもの音が重なり、最後に会場全体が明るくなる。
「ライブか」
「そう。この演奏団、前に配信で見たんだけど、すごくよかったんだよ。今日で公演があるのは知ってたんだけど、観覧枠が埋まってて」
「それで追加枠が出たと」
「そういうこと。どう?」
画面の残席表示はまだ受付中になっている。
「面白そうだな。俺も行こうかな」
「よかった!」
『三曲目が楽しみだ』
ポルカが突然言った。
「曲目まで知ってるの?」
『以前の公演記録を見た。あれが入っている』
「へえ。ポルカも好きなんだ」
『悪くない』
「それ、結構気に入ってる言い方だろ」
ポルカの炎が少し大きく揺れた。
せっかくなのでケイロにも連絡してみると、すぐに返事が来た。
《行ける。何時から?》
開始時刻を送る。
《大丈夫。四人分取れる?》
「ケイロも行くって」
「じゃあ予約するね。席が少し離れるかもしれないけど」
ミナが四人分の情報を登録すると、各自に対応した鑑賞設備を持つ席が自動で割り当てられた。
《予約確定》
《観覧者:四名》
《鑑賞位置:近傍配置》
「取れた!」
「間に合ってよかったな」
「ほんとだよ。さっきまで全然空いてなかったんだから」
ミナは予約確認をもう一度眺めてから、ようやく端末を閉じた。
そんなに楽しみにしていたのか。
俺も少し楽しみになってきた。
◇
第二娯楽ホールの前には、すでに大勢の観客が集まっていた。
移動の仕方からして様々で、二本脚や四本脚で歩く者の間を浮遊型の種族が通り、身体を支える専用装置ごと進む者もいる。入場経路はそれぞれの体格や移動方式に合わせて案内されていて、混雑している割にはスムーズに進めた。
「広いな」
「この演奏団、結構人気あるみたいだよ」
「ミナは前から好きだったの?」
「うん。最初は配信でたまたま見ただけなんだけど、気に入って何回か聴いてる」
「好きな曲とかある?」
「今日やるか分からないけど、二曲くらい。生で見るのは初めてだから楽しみ」
ミナは先ほどから少し落ち着かない様子だった。いつもより歩くのが速い。
案内された場所へ着くと、ケイロが先に来ていた。
「遅かったな」
「まだ開演前だろ」
「座席を確認してた」
「早いと思ったら、それか」
俺たちの鑑賞位置は、ほとんど横並びだった。
ただし四つとも同じ座席ではない。
俺とミナには椅子があり、ケイロの席には四本の腕を支えるための接触面が付いている。ポルカの場所には椅子自体がなく、青白い炎を囲むように環境制御フィールドが展開されていた。
俺が座ると、視界の端に設定が表示された。
《主要知覚:聴覚》
《視覚演出:標準》
《触覚振動補助:弱》
《生理安全補正:有効》
特に変更せず確定する。
周囲を見れば、ミナの席では照明が細かく調整され、ポルカの場所には熱覚出力の表示が浮かんでいる。
ケイロはというと、さっきから四本の腕をあちこち動かしていた。
「何してるんだ?」
「位置合わせ。前に使ったやつ、下の腕がちょっと窮屈だったんだよ」
「四本分合わせるの大変そうだな」
「まあな。お前だって足の置き場が変だったら気になるだろ」
「それは嫌だな」
「同じことだよ」
ケイロが最後の支持具を調整したところで、会場の照明がゆっくり落ち始めた。
「お、始まるぞ」
俺が声をかけると、ケイロは支持具を一度だけ動かして頷いた。
「よし」
満足したらしい。
◇
舞台の中央に、演奏者たちが現れた。
身体の大きさも形もまるで違う者たちが、それぞれの演奏装置の前へ移動していく。弦楽器に似たものもあれば、空中に浮かぶ光の輪や、巨大な金属板を何枚も重ねたような装置まであった。
最初の曲は、低い音から始まった。
ゆっくりしたリズムに別の旋律が重なり、やがていくつもの音が交差していく。知らない楽器ばかりだったが、俺には普通に音楽として聴こえた。
ただし、音だけではない。
低音に合わせて背中へ小さな振動が伝わり、舞台上の光が演奏に合わせて形を変える。曲が盛り上がるにつれて、その光は客席の頭上まで広がっていった。
映像で見るよりずっと迫力がある。
一曲目が終わると、観客席から大きな反応が返った。
「いいね、これ!」
ミナが嬉しそうに言った。
「想像してたより聴きやすいな」
「そうでしょ? もっと変わった曲もあるよ」
『次の方がよい』
ポルカが横から言う。
「お前、さっき三曲目が楽しみって言ってなかった?」
『二曲目もよい』
「全部好きなんじゃないか?」
『全部ではない』
妙にきっぱり否定された。
ケイロは公演の感想を言うより先に、自分の座席を確認していた。
「お、やっぱり新しい型は違うな」
「ちゃんと音楽聴いてた?」
「聴いてたって。最初の低音、よかっただろ」
「そこは俺も好きだった」
「だろ? 腕の先まで響くんだよ」
そう言って、ケイロは下側の二本の腕を軽く動かした。
俺には背中の振動しか分からなかったが、本人はずいぶん満足そうだった。
◇
二曲目は、静かな始まりだった。
高い音が長く伸び、その下を低い旋律がゆっくり流れていく。途中から細い光の帯が舞台の奥に現れ、音の流れに合わせて少しずつ客席の方へ広がってきた。
曲の終盤、いくつもの旋律が一斉に重なる。
その瞬間、俺は思わず身体を前へ傾けた。
いい曲だ。
演奏が終わると、ミナが満足そうに息をついた。
「今の、すごくよかった」
「最後の盛り上がるところ?」
「うん。光が一気に広がったでしょ。あそこ好きなんだ」
「俺、音の方ばっかり気にしてた」
「見てないの?」
「途中までは見てたんだけどな」
「もったいない!」
ミナは本当に残念そうだった。
『あの部分は熱の方もよかった』
ポルカが会話に加わる。
『一度落ちてから戻るのがよい』
「温度が?」
『そうだ』
「俺の席だと分からないな」
ポルカは少し考えたようだった。
『聴覚で言えば、急に静かになったところから音が戻る感じに近い』
「ああ、それなら分かる」
「それ、私が好きって言ったところじゃない?」
ミナが再生記録の位置を示す。
『同じだな』
そこへケイロも覗き込んできた。
「お前たち、ここか?」
「そうそう」
「俺もそこが一番よかった。右側から振動が来て、最後に全部まとめて――」
「待って。何となく分かったから」
「まだ説明してないぞ」
「説明されても俺には体験できないだろ」
「それはそうだな」
結局、四人とも同じ曲の同じ部分を気に入っていたらしい。
理由はずいぶん違う。
俺には旋律が重なるところで、ミナには光が広がるところ。ポルカには熱の変化があり、ケイロには身体全体へ伝わる振動があった。
同じ音楽なのに、そこまで違うものか。
不思議ではあるが、全員楽しんでいるのだから悪いことではない。
◇
三曲目が始まると、ミナとポルカの反応が明らかに変わった。
「あ、これ!」
『来た』
どうやら二人とも知っている曲らしい。
速いリズムが続き、短い旋律が次々に入れ替わる。舞台上には幾何学的な光の模様が現れ、客席からも演奏に合わせて様々な反応が返り始めた。
俺も自然に足で拍子を取っていた。
隣ではケイロが四本の腕を動かしている。
上の二本は大きく、下の二本は細かく。
別々の動きをしているのに、本人は何でもなさそうな顔で演奏を楽しんでいた。
「それ、難しくない?」
「何が?」
「四本とも違う動きしてるだろ」
「慣れれば普通だぞ」
試しに自分の左右の腕で違うリズムを取ろうとしてみた。
無理だった。
足まで使えば何とかなるかもしれない。
いや、余計に混乱しそうだ。
そんなことをしていると、隣からミナの笑い声が聞こえた。
「ハジメ、何してるの?」
「いや、ちょっと試してみた」
「楽しそう」
「できないんだけどな」
ミナは笑いながら舞台へ視線を戻した。
その直後、曲が大きく展開する。
ポルカの炎が一瞬だけ強く揺れた。
『そう来たか』
「予想と違った?」
『ああ。前の公演ではもう少し早かった』
「アレンジ変えてるんだ」
『こちらの方がよい』
今度は気に入ったらしい。
演奏が終わると、会場全体が一気に沸いた。
音による歓声だけではない。身体の色を変える者、強い光を放つ者、身体全体を震わせる者など、観客たちがそれぞれの方法で反応を返していた。
俺には聞こえない歓声も多いのだろう。
それでも、盛り上がっていることだけは十分に伝わってくる。
ポルカが満足そうに炎を揺らした。
『やはり来てよかった』
「まだ終わってないぞ」
『知っている』
そう言いながら、次の演目表示を確認している。
◇
四曲目は、それまでよりずっと長い曲だった。
演目案内には、演奏時間が十七分ほどと表示されている。
ゆっくりした旋律が何層にも重なり、遠くで一定のリズムが続いていた。舞台上の光も控えめで、座席の振動もほとんど感じない。
さっきまでの賑やかさが嘘のようだった。
俺は椅子へ身体を預け、演奏を聴いていた。
細い音が少しずつ形を変え、いつの間にか最初とは違う旋律になっていく。大きな変化はないのに、聴いていると妙に引き込まれる。
しばらくして、ふと右上が気になった。
何か聞こえたわけではない。光ったわけでも、動くものが見えたわけでもなかった。
気がつけばそちらへ顔を向けていた。
会場上部の壁と照明設備が見える。
それだけだった。
見逃した演出でもあったのかと思ったが、特に何も起きない。俺はすぐに舞台へ視線を戻した。
曲は何事もなかったように続いている。
しばらくすると、旋律は少しずつ強くなり、最後には最初の静けさへ戻っていった。
◇
公演の後半には、かなり古い音楽も混じっていた。
《旧地球系文化圏》
《聴覚主体作品》
《多感覚補助変換:有効》
曲が始まると、今度は俺の方が馴染みのある感覚になった。
旋律とリズムを中心に構成され、光や振動はその流れを補うように変化している。まったく知らない時代の音楽だったが、さっきまでの曲よりも素直に聴けた。
「これ、結構好きかも」
俺が言うと、ミナがこちらを見た。
「ハジメ、こういう曲も好きなんだ」
「なんか聴き慣れた感じがする。古い曲なのにな」
「私はさっきの三曲目の方が好きかな」
「それは俺も好きだった」
ミナは少し笑って、また舞台へ視線を戻した。
ポルカはしばらく黙って演奏を聴いていたが、曲が終わると小さく炎を揺らした。
『惜しい』
「何が?」
『最後の細かい部分。熱にすると少し平坦になる』
「俺にはいい感じだったけどな」
『なら、それでいい』
ポルカはあっさり言った。
別に自分と同じ感想を求めているわけではないらしい。
その隣で、ケイロが満足そうに腕を伸ばす。
「俺は結構好きだな、今の」
「振動が?」
「それもあるけど、途中でリズムが変わるところ。あれ面白い」
「変わってたっけ?」
「二回目の繰り返しだけ、少し違っただろ」
俺は曲を思い返した。
そんなところがあった気もするし、なかった気もする。
「……全然気づかなかった」
「ちゃんと聴けよ」
「お前にだけは言われたくない」
さっきまで座席ばかり気にしていた奴に言われると、少し悔しい。
◇
全演目が終わるころには、すっかり夕食の時間になっていた。
会場を出ながら、ミナが今日の公演評価を開いている。
「ハジメ、どれが一番よかった?」
「三曲目かな。あの速いやつ」
「やっぱり? 私も」
『私もだ』
ポルカが即答する。
「ポルカは最初から楽しみにしてたもんな」
『期待以上だった』
ずいぶん高評価らしい。
「ケイロは?」
「俺も三曲目。ただ、一曲目ももう一回聴きたい」
「椅子の調整が終わってなかったから?」
「そう。ちゃんとした状態で聴き直したい」
「そんなに違うのか」
「違うんだよ」
本人がそこまで言うなら、きっと違うのだろう。
俺は今日の公演記録を購入しようと端末を開いた。
《公演記録版を購入しますか?》
《聴覚主体版》
《視覚補助強化版》
《熱覚補助強化版》
《多点触覚補助版》
《会場標準版》
《個人鑑賞記録再現版》
「……多いな」
「私は個人記録版にするよ。今日の見え方で残しておきたいし」
「俺は会場標準版だな。あとから出力を変えられる」
ケイロが言った。
『私は熱覚版だ』
「みんな違うのか」
購入欄を眺めながら、少し悩む。
自分用なら聴覚主体版で十分だろう。ただ、せっかくなら会場で見た光の演出も残しておきたい。
値段を確認する。
うん。
とりあえず保留にしよう。
「ハジメは買わないの?」
「あとで試聴して決める。今は飯の方が大事」
『賛成だ』
ポルカがすぐに反応した。
「そういえば、ポルカは今日どこで食べるの?」
『第三高温炉だ』
「いつものところか」
『今日は予約してある』
相変わらず、食事場所の規模がおかしい。
ミナが少し考えてから言った。
「じゃあ途中まで一緒だね。私たちは第二食堂にしようか」
「賛成」
「俺も」
そこから先は、今夜のメニューの話になった。
ケイロは新しく追加された料理が気になるらしく、ミナはデザートを調べ始めている。俺も夕食の一覧を開き、いつものメニューと少し高い追加料理を見比べた。
さっきまで四人で同じ音楽を楽しんでいたのに、今はそれぞれ別のことを考えている。
まあ、そんなものだろう。
今日はなかなか面白い夜だった。
◇
公演終了から二十七分後。
第二娯楽ホールの管理系では、観客が退場したあとも設備と安全記録の照合が続いていた。
音響系、光学系、座席設備、環境制御、個体別感覚補助。公演中に取得された大量の情報が自動検査され、問題のない項目から処理済みへ移されていく。
その中で、一件だけ自動判定が保留になった。
《観客行動同期率:基準値超過》
《対象:第四演目》
《検出中心時刻:十三分四十二・八八一秒》
《有効解析対象:九〇四》
《同期反応対象:八六一》
《同期率:九五・二%》
「これ、演出への反応じゃないんですか?」
若い担当者が記録を拡大した。
「九五パーセントなら、盛り上がるところでは普通に出そうですけど」
「第四演目のその時間に、何かあったか?」
「それが、出力に大きな変化はありません。共通の合図も入っていません」
先輩の担当者が作業画面を寄せた。
「まず行動記録を見よう」
安全管理用に処理された観客行動の解析映像が表示される。
第四演目の中盤だった。
観客はそれぞれの方法で音楽を楽しんでいる。身体を揺らす者もいれば、光で反応を返す者、ほとんど動かない者もいた。
問題の時刻を中心とする短い時間帯。
多数の観客が、公演とは別の方向へ注意を向けたと記録されていた。
ヒト型の観客は顔を動かしている。
複数の視覚器官を持つ者は、その一部だけを動かしていた。身体表面で周囲を知覚する種族では感覚器官の指向性が変わり、炎体種では周辺感知に使われる放出方向がわずかに偏っていた。
「同じ動きではないですね」
「種族が違うからな。問題は、解析モデルが全部を注意方向の変化として分類していることだ」
若い担当者は映像を止め、別の情報を重ねた。
「観客ごとの感覚補助出力が原因では?」
「あり得る。全員へ共通して入った信号がないか先に調べよう」
演奏データと設備の出力履歴が並ぶ。
音響、光学、振動、温度。
それぞれの出力は楽曲に合わせて予定通り変化していたが、問題の時刻に観客全体へ同時に働くような急変は見つからない。
「個人端末にも、同時刻に集中した動作はありません」
「船体側は?」
「確認しています」
船体振動、局所重力、空調、電磁環境、魔力、精神波。通常の安全監視で取得される範囲には、同期反応と結びつくような変化が見つからなかった。
その間も、観客行動の記録は画面に残り続けている。
「……そもそも、この同期率って何を基準にしているんでしょう」
若い担当者が首を傾げた。
「同じ時刻に注意方向が変わった、というだけなら、音楽を聴いているんですから不思議ではないですよね」
「その通りだ。方向まで含めて確認しよう」
観客の位置と推定注意方向が立体表示に置き換わった。
九百を超える小さな点が会場内に並び、そのうち八百六十一の点から、細い線が伸びていく。
最初はばらばらに見えた。
しかし、それぞれの位置から艦内の共通座標へ変換すると、線の多くがある方向へ集まり始めた。
「……壁の向こう?」
「もう少し範囲を広げて」
表示が第二娯楽ホールから《ながと》全体へ切り替わる。
線は船体を抜け、その外側にある狭い領域へ集まっていた。
《注意方向推定収束領域》
《位置:本艦外部》
《観測確度:追加検証要》
二人はしばらく画面を見ていた。
「これ、変換の誤差じゃないですか?」
「その可能性が高いと思う。種族別の感覚器官の向きと、実際の注意方向が一致するとは限らないしな」
先輩の担当者は、解析モデルの詳細を開いた。
「同じ方向へ補正する癖がないか調べよう。特に視覚器官がない種族の推定は慎重に扱いたい」
「了解です。外部観測も照合します」
該当時刻の艦外記録が呼び出される。
《登録天体:なし》
《航行物体:なし》
《大型生物反応:なし》
《既知空間異常:なし》
《観測装置異常:検出されず》
「記録上、対応する対象はありません」
「なら、なおさら解析結果をそのまま信用するわけにはいかないな」
若い担当者が反応時間の分布を表示した。
「注意方向の変化は、平均〇・四二秒で終了しています。その後は通常の鑑賞行動へ戻っています」
「健康影響は?」
「申告なし。生体安全記録も基準内です」
公演後アンケートにも目立った異常はなかった。
《楽しかった》
《三曲目がよかった》
《振動出力をもう少し上げてほしい》
《次回も参加希望》
《記録版を購入した》
演奏とは別の何かを見た、聞いた、感じたという報告は一件もない。
「本人たちに追加確認を取りますか?」
「今はその前の段階だな。まず原記録を保全して、安全管理部門へ共有しよう」
「特殊事象として扱います?」
「まだ分類できない。設備異常なのか、行動解析の誤判定なのか、それ以外なのかも分かっていない」
先輩の担当者は、もう一度立体表示へ視線を戻した。
八百六十一の異なる身体が、ほとんど同じ時刻に公演とは別の方向へ注意を向けている。
少なくとも、解析上はそうなっていた。
そして、その方向には観測記録上、何も存在していない。
「第四演目の再演は、一度確認を挟もう。ほかの演目を止める理由はないが、同じ記録が出るか検証も必要だ」
「了解です」
若い担当者が処理項目を更新する。
《原因:未特定》
《継続影響:確認されず》
《記録:保全》
《艦内安全管理部門:共有済み》
《第四演目再演:安全確認完了まで保留》
《追加解析:継続》
最後に、公演全体の記録が表示された。
《観客満足度:九四・八%》
《健康影響:確認されず》
《設備異常:確認されず》
《原因未特定事象:一件》
九百人を超える観客が音楽を楽しみ、帰っていった。
そのうち八百六十一名が、ほんの一瞬、同じ方向へ注意を向けたと記録されている。
誰も、そのことを申告していない。
そして記録上、その方向には何もなかった。
【TIPS:多感覚音楽】
銀河社会で「曲」と呼ばれるものの多くは、現在も音を中心に構成された音楽作品である。
ただし、すべての人類種がヒトと同じ聴覚を持つわけではない。可聴域、音の分解能力、時間感覚、身体構造などは種族によって大きく異なるため、大規模な音楽公演では楽曲と同期した光、振動、温度変化などを補助的に利用することがある。
聴覚を主要な感覚として使う者は、そのまま音楽として聴けばよい。一方、別の感覚を強く利用する種族では、拍、強弱、音域、旋律の動きなどを別の感覚情報へ対応させることで、同じ音楽を異なる方法でも楽しめる。
もちろん、別の感覚へ変換すれば完全に同じ体験になるわけではない。
聴覚主体で作られた作品を熱覚へ変換すれば失われる情報もあり、逆に最初から光や振動まで演出として設計された作品では、音だけを聴いている者が気づかない表現もある。
そのため、異種族同士で音楽の話をすると、
「原曲の方がよかった」
という意見が出ることもある。
その場合は議論を始める前に「どの再生形式を原曲と呼んでいるのか」を確認した方がよい。
確認しなかった場合、だいたい長引く。
お読みいただき、ありがとうございます!
感想や、この銀河に存在してほしい「変なもの」も募集中です。
種族、能力、魔法、超科学、怪異、都市伝説、謎の物体――なんでもどうぞ。
いただいたアイデアは、作品世界に合わせてアレンジして登場するかもしれません。
面白かったら評価・ブックマークもしていただけると嬉しいです。
それでは次回。
今日も銀河は平和です。
たぶん。




