第18話 どんなところでもラジオ体操
今回のお題:無重力になったら一度はやってみたいこと
壁から壁へ飛ぶ、空中で回る、飲み物を丸く浮かせるなど。
なお、飛び出す前に止まり方まで考えておくことをおすすめします。
前回の身体測定から三日後、《基礎身体操作Ⅰ》の予定表には、いつもの訓練区画ではなく《第三可変重力実習室》と表示されていた。
測定の最後に出ていた《次段階訓練移行条件:適合》が、さっそく反映されたらしい。師匠は「次から少し変える」としか言わなかったので、何をするのかまでは聞いていない。
実習室へ入って、理由はすぐに分かった。
床、壁、天井の六面がほとんど同じ構造をしており、全面に手すりと固定具が並んでいる。入口がなければ、どこを床と呼ぶべきなのかも怪しい部屋だった。
《第三可変重力実習室》
《船体加速度慣性補償:独立維持》
《局所重力場:一・〇〇G》
《重力ベクトル制御:待機》
《衝突時運動量緩和場:待機》
《生体運動監視:有効》
「今日は重力ですか」
「まぁ大丈夫だと思います」
師匠が端末から顔を上げた。
「経験があるのか?」
「ありますよ。育ったところがコロニーだったので」
「聞いてないぞ」
「今まで聞かれませんでしたし」
師匠は俺を一度見て、それ以上は何も言わずに操作を続けた。
《局所重力場:〇・七五G》
《局所重力場:〇・五〇G》
《局所重力場:〇・二五G》
《局所重力場:〇・〇一G》
数字が下がるにつれて、足裏へかかっていた力が少しずつ抜けていく。踵が床から離れたところで軽く爪先を押し、近くの手すりへ指をかけて身体を止めた。
懐かしい感覚だった。
「本当に慣れてるな」
「まあ、それなりには」
俺が育った《児童共同養育施設》は、一般に《群体コロニー》と呼ばれる形式の宇宙居住施設にあった。
一つの巨大な筒の中へ全員が住むのではなく、中央の交通構造体を中心に、大小さまざまな居住モジュールが接続されている。遠くから見れば、宇宙空間に巨大な珊瑚か樹木が浮かんでいるように見えるらしい。
それぞれのモジュールは、住民に合わせて環境が違った。
回転によって重力を作る区画もあれば、重力制御を使う区画もある。低重力を好む種族の居住区と、高重力を必要とする種族の居住区が、同じ中央交通網につながっているのも普通だった。
俺たちの施設はヒト向けの環境だったが、別のモジュールへ移動するときには中央部を通る。
そこはほとんど微小重力だった。
病院へ行くにも、大きな商業区画へ行くにも、途中で足が床から離れる。子供向けの遊戯区画もあったので、俺たちは手すりを蹴って移動したり、空中で身体を回したりして普通に遊んでいた。
「むしろ《ながと》の方が最初は変でしたよ」
「人工重力がか?」
「どこへ行っても、だいたい同じ重さなので」
群体コロニーでは、移動先によって身体の重さが変わることも珍しくなかった。回転式のモジュールなら、同じ区画でも回転軸へ近づけば軽くなるし、物を投げれば回転の影響で思った場所から少しずれる。
その点、《ながと》の重力制御は素直だった。設定が同じ区画なら、廊下を何本歩こうが階を移ろうが、一Gは一Gである。
「便利だろ」
「便利ですけど、最初はちょっと落ち着かなかったですね」
「贅沢な話だな」
それは自分でもそう思う。
◇
師匠が訓練項目を開くと、初心者向けらしい項目が並んだ。
《浮遊時基本姿勢》
《支持点への接近》
《支持点を用いた制動》
《意図しない回転への対処》
師匠は俺を見たあと、その四つをまとめて閉じた。
「そこは飛ばす」
「いいんですか?」
「さっき見た」
代わりに別の課題が表示される。
《課題:対向面への移動》
《接触可能回数:一回》
《到達時相対速度:〇・一メートル毎秒以下》
《姿勢偏差許容値:十五度》
俺の身体の周囲に半透明の線が現れ、重心位置と予測軌道が空間に浮かんだ。壁をどの方向へ押せば、どの姿勢で反対側へ到達するかまで表示されている。
「これ、かなり便利ですね」
「ああ」
《姿勢予測支援:無効》
「消すの早くないですか?」
「見えたからいいだろ」
見えたことと、使えることは別だと思う。
それでもやるしかないので、向こう側の壁を見た。
強く蹴れば速く進む。けれど途中に床はなく、次に何かへ触れるまで速度は残り続ける。
俺は昔の感覚を思い出しながら、かなり弱く壁を押した。
身体がゆっくり進む。
「遅いな」
「速いと止まれないので」
「それでいい」
反対側が近づいたところで身体を回し、足を壁へ向ける。接触に合わせて膝を曲げると、ほとんど跳ね返ることなく止まった。
《到達時相対速度:〇・〇六メートル毎秒》
《姿勢偏差:八・七度》
《判定:達成》
悪くない。
そう思ったところで、次の表示が出た。
《追加条件:到達時間三・〇秒以内》
「急に忙しくなりましたね」
「行け」
今度は強く蹴る。
当然、速く進んだ。
そして当然、途中で困った。
「止まれませんね」
「そうだな」
「ですよね」
反対側の壁がかなりの勢いで近づいてくる。身体を反転させて足を前へ出したところで、壁面から半透明の膜が広がった。
《衝突時運動量緩和場:作動》
《予測接触速度:二・〇八メートル毎秒》
《運動量吸収率:九六・五%》
身体が柔らかい何かへ沈み込むように減速し、最後は軽く壁へ触れただけで止まった。
「これがあれば、ぶつかっても平気そうですね」
「安全限界を超えたときだけだ。普段から当てにするな」
表示を見ると、確かに《訓練者判断を優先》《危険域のみ強制介入》とある。
《追加条件を含む総合判定:未達》
三秒以内でも、到達速度を守れなければ達成にはならない。追加されたのは条件だけで、前の条件が消えたわけではなかった。
未来の技術は、失敗そのものまでは消してくれないらしい。
◇
次は回転だった。
師匠が俺の肩へ手を置き、そのまま押し出す。身体の中心から外れた場所へ力を加えられたので、俺は前へ進みながらゆっくり回り始めた。
「止めろ」
「何も使わずに?」
「ああ」
少し考えてから、手足を大きく広げる。
回転は遅くなった。
今度は身体を縮めると速くなる。
「そこは覚えてるか」
「子供の頃に散々やりました」
回る速さは変えられるが、師匠から与えられた回転そのものを、身体の中だけで都合よく消すことはできない。
しばらく待って近づいてきた手すりを掴むと、腕を通して手すりへ力が伝わり、ようやく回転が止まった。
《外部支持構造との角運動量交換:確認》
《回転停止》
《姿勢安定:正常》
「昔は、回りすぎた奴を他の子が捕まえてました」
「それでいい」
「遊びですよ?」
師匠に言わせると、子供の遊びも身体操作訓練になるらしい。
当時の俺たちは、そんな立派なことを考えてはいなかった。ただ、回りすぎて気持ち悪くなった奴を助けていただけである。
◇
ここまでは昔の経験がかなり役に立った。
それを確認した師匠が、端末から次の設定を呼び出す。
《局所重力ベクトル制御:有効》
《重力加速度:〇・二五G》
《重力方向:第一基準面》
《重力方向連続変更:許可》
微小重力だった室内で、身体がゆっくりと一方向へ引かれ始めた。
ただし、入口のある面ではない。
さっきまで壁だった場所へ落ちていく。
「これはコロニーでもなかったですね」
「だろうな」
足を向けて着地すると、壁だった面が新しい床になった。
群体コロニーでも区画ごとに重力方向は違ったが、一つの部屋の中で「下」が動き続けるような使い方はしない。少なくとも、普通に生活したいなら必要のない機能である。
《重力方向:連続変更開始》
《角速度:毎秒二・〇度》
身体を引く方向がゆっくり回り始める。
新しい床に立っていたはずなのに、少しずつ横方向へ力がかかり、立ったままでは姿勢を保ちにくくなっていく。
「動いていいぞ」
師匠はそう言うと、何事もないように両腕を下ろした。
嫌な予感がした。
《標準動作系列を開始します》
聞き覚えのある前奏が流れる。
ラジオ体操第一だった。
「ここでもやるんですね」
「始まってるぞ」
師匠はすでに腕を前から上へ動かしている。
仕方なく俺も続いた。
◇
普通のラジオ体操なら、何度もやってきた。
だが、床がゆっくり壁へ変わっていく状況では、同じ動作でも身体にかかる力がまるで違う。
腕を回す反作用で胴体までずれ、脚の運動では足裏へ返るはずの力が斜めへ逃げる。重力の向きが変わるたび、踏ん張る方向まで変えなければならない。
「右肩が遅い」
「足下が動いてるんですけど」
「肩は動いてない」
「それはそうですけど」
環境については一切考慮してくれないらしい。
俺が姿勢を立て直している間にも、重力方向は回り続ける。少し前まで床だった面が斜面になり、そのうち壁になって、最後には頭上へ移った。
師匠は普通に続けている。
見ていると腹が立つほど安定していた。
《重力加速度:〇・四〇G》
《重力方向変化率:維持》
身体へかかる力まで少しずつ強くなる。
重力が強くなるほど、小さな重心のずれが次の動作まで残った。脚の運動で一度外すと、戻す前に次の動きが来る。
一度だけ足が床から離れた。
その瞬間にも重力方向は変わっているため、元の場所へ戻ろうとしてもすでに「下」がそこにはない。
俺は近くの手すりを一度だけ掴み、身体の向きを合わせて離した。
「今のは?」
「ありだ」
それなら先に言ってほしい。
もっとも、聞かなかった俺も悪い。
◇
ラジオ体操第一が終わると、俺は新しい床へ立ったまま息を整えた。
重力は〇・四Gほどしかないので、身体そのものは軽い。それでも、下方向が動き続ける中で全身の動きを揃える方が、普通の一Gで何十回も繰り返すより疲れた気がする。
「終わりですか?」
「まだだ」
予想していた。
《局所重力場:分布制御へ移行》
《下肢領域:〇・八〇G》
《体幹領域:〇・六〇G》
《頭部領域:〇・四〇G》
「待ってください」
「なんだ」
「俺の身体の中で重力が違うんですが」
「そういう設定だ」
知りたいのはそこではない。
足は強く床へ引かれるのに、頭は軽い。身体の中で『下』の強さが違うせいで、立っているだけなのに縦へ引き伸ばされるようだった。
師匠は端末を確認した。
《生体負荷:許容範囲内》
《循環補助:不要》
《局所組織応力:正常》
「問題ない」
「機械的にはでしょう」
「始めるぞ」
再び音楽が流れた。
「また第一ですか」
「動きが同じ方が違いが分かる」
それは納得できる。
納得できるのが少し悔しい。
◇
同じラジオ体操なのに、さっきとはさらに感覚が違った。
脚を曲げ伸ばすと、上体だけが動きに遅れる。身体を横へ曲げれば、左右に加えて上下の負荷差まで意識させられ、考えるほど動きがぎこちなくなった。
「考えすぎだ」
「考えろって言ったの師匠ですよね」
「必要なことだけ考えろ」
「一番難しいやつじゃないですか」
返事はなかった。
代わりに「腰」とだけ言われた。
直す。
今度は肩。
また直す。
やっていること自体は、いつもの訓練とほとんど変わらない。
違うのは、足元の物理法則が少し忙しいことだけだった。
◇
二回目が終わると、ようやく室内の設定が標準状態へ戻り始めた。
《局所重力分布:均一化》
《重力方向:標準基準面》
《重力加速度:一・〇〇G》
足裏へいつもの重さが戻ってくる。
壁は壁に戻り、天井は天井に戻った。何もしなくても同じ方向へ身体を引いてくれるだけで、部屋全体が急に分かりやすくなった気がする。
「次回もここですか?」
「いや。次は通常区画だ」
「戻るんですね」
「一Gで崩れなくなったわけじゃないからな」
そこは前回の測定でも確認済みである。
師匠は出口へ向かいながら、端末に今日の記録を保存した。
《可変重力環境下・標準動作系列》
《完遂》
《姿勢補正回数:二七》
《外部支持使用:三》
《重大逸脱:なし》
《継続訓練推奨》
完遂と書かれている。
その下に二十七回も直された記録があるので、あまり達成感はない。
それでも、重力の方向を好き勝手に変えられる実習室で、やったことは最初から最後までほぼラジオ体操だった。
この科目については、もう驚かないつもりだった。
たぶん、まだ早い。
【TIPS:環境適応幅】
人類を構成する種族は、それぞれ正常に活動できる環境の範囲が異なる。
銀河生物学や軍の環境管理では、温度、気圧、大気組成、重力、放射線量など、外部補助なしで一定時間の生命活動を維持できる条件の広さを《環境適応幅》として扱うことがある。
特定の環境へ強く適応し、その条件下で高い能力を発揮する種族は《環境特化種》と呼ばれる。高重力、高温、高圧、低温、特殊大気などに特化した種族が該当し、適正環境では他種族を大きく上回る活動効率を持つことも珍しくない。
一方、比較的広い条件下で活動できる種族は《広域環境適応種》とされる。
さらに極端に広い環境幅を持つ種族に対して、《汎環境適応種》という分類が使われる場合もある。ただし分類基準は研究分野によって異なり、環境ごとに適応能力の差が大きい種族も多いため、単純な三分類で全人類を整理できるわけではない。
また、環境適応幅の広さは、生物としての優劣を意味しない。
広域環境適応種は設備の整っていない場所でも活動しやすい一方、環境特化種は適正条件において極めて高い性能を発揮する。銀河社会で多環境型の居住施設が広く使われている理由の一つでもある。
なお、《汎環境適応種》にも限界はある。
名称に「汎」と付いていても、恒星内部まで含める研究者はほとんどいない。
お読みいただき、ありがとうございます!
感想や、この銀河に存在してほしい「変なもの」も募集中です。
種族、能力、魔法、超科学、怪異、都市伝説、謎の物体――なんでもどうぞ。
いただいたアイデアは、作品世界に合わせてアレンジして登場するかもしれません。
面白かったら評価・ブックマークもしていただけると嬉しいです。
それでは次回。
今日も銀河は平和です。
たぶん。




