第四話 それは君のことが気になるから
◇
それからまた一週間ほど経って、俺は朝の電車で先輩に聞いてみた。
「今まで読んだ中で好きな本?」
「はい。この前食べ物の話してから気になってました。好きっていうか、刺さった本でもいいんですけど」
「んー、悩むね」
先輩がしばらく思案する。
「今思いついたのはこれかな」
少し考えてからスマホの画面を見せてくれた。ブラウザの入力欄にあるタイトルと、検索欄の表紙を見た俺はなるほどと頷いた。
現役の有名作家の代表作といっていい本だ。
一度聞いたら印象に残るタイトルだから、俺も覚えている。
「これ本屋大賞取った本ですね、確か」
「うん。出たのは前だけど、実際読んだのは結構最近かな。本屋大賞の本では天文学者のやつもすきだったから、多分こういう話が好きみたい」
「なるほど。手軽に読めるライト文芸っていうより、じっくり腰を据えてストーリーを追いたいって感じですね」
「ライトノベルも好きだけどね。みずきは?」
「先輩に聞く前に色々考えてたんですけど、これがダントツで一番っていうのがなかなか思いつかなくて。このジャンルならこれっていうのはあるんですけど」
「推しも変わるしね」
「そうですね。この前みたいにミステリーブームが来てると、短期間に何度も読む本もあるので」
とはいいつつ、聞いておいて自分から何も出さないのも公平じゃないと思うので、俺は先輩が乗ってくる前に調べておいたスマホの検索画面を見せることにした。
「俺は児童書から入ってるのでファンタジー好きなんです。思い出があるのはローワンとか」
「ローワン?」
「これです。だいぶ昔の本なので、もう情報もほとんどなくて。従兄からもらった本の中にありました。児童書なので、小学生向けかも。それか、これですね」
もう一つタブを開いて、スマホの画面を見せた。
目を閉じた男女のイラストが描かれた表紙の画像がトップに出てくる。
先輩がぐっと俺の方に身を乗り出してきて、肩同士が当たった。
今日もいい匂いがふわっと香ってくる。先輩のまつげ長いな、と思わず感心してしまうくらい顔が近くて思わず一瞬息を止める。
「小説? 文庫本の」
「っ、あ、はい。もともとはラノベです。主人公の頭の中に携帯電話があって、それを想像でいじってたら、ある日同じように頭の中に電話がある人と繋がっちゃうっていう話で」
「繋がっちゃう?」
「その人とだけ頭の中で話せるんです。そこはちょっと不思議な話で。でも、ラストの切なさと、最後に明かされる伏線が面白いんですよ。長くないので一気に読めます」
「へぇ、面白そう」
「これも昔の本だけど従兄に勧められて古本で集めたんです。中学のとき同じ作者の本にどはまりして、大体持ってます。別の文庫に入ってる猫の話もいいです。まだ持ってるからもしよければ貸します」
「読んでみたい。みずきが大丈夫なら貸して」
「はい。明日持ってきますね」
「ありがと」
先輩が画面から視線を上げる。
頭同士が近いままだったから、先輩も俺の顔が傍にあって驚いたのか、茶色の目を見開いた。
「あ、ごめん。画面気になりすぎてた」
呟いた先輩が俺から離れる。
「だ、大丈夫です」
俺がすぐに頷くと、先輩は普段あまり変わらない表情を崩してちょっと照れたように笑った。
その顔に見ほれてしまって、うっかりスマホを落としそうになって慌てて視線を逸らす。
「そろそろですね」
「ほんとだ。いつもあっという間」
先輩も窓の外を見て頷く。
心なしか、残念そう? 気のせいかな。自分がそう思うから、そんな風に感じたのかも。
雑談していたら、すぐに先輩の高校の駅についてしまう。
「じゃあ、また明日」
「はい。また」
先輩が電車を降りてから、俺は忘れないようにスマホのスケジュールを開いてメモをした。
『先輩に本を持って行く』
たったそれだけの約束だけど、明日先輩に会うために準備できることがあると思ったら、もう明日が楽しみに思える。
英語の小テスト嫌だなと思ってたけど、今日も一日頑張ろ。前向きな気持ちになれて、電車から降りた。
◇
昼休みが始まってすぐ、手洗いに行って教室に戻る途中、廊下ですれ違った集団に話しかけられた。
「庵野」
「え?」
「前田と同中だっけ?」
「あ、うん。そうだけど」
同じクラスの陽キャグループだった。西野を含む五人連れ。いつもいる前田はどこかに行っているのか、一緒じゃない。
「どうかした?」
緊張しつつ尋ねると、西野はにやっとして俺を手招きした。
「なあ、前田が中学のとき、この子と付き合ってたってほんと?」
そう言って西野が見せてきたスマホには、見覚えのある女の子の画像が映っている。どこから手に入れてきたのか、修学旅行っぽいな、という女子が数人でいる写真だ。
覗き込んで、記憶を確認した。そういえば、前田がこの子と中三のとき付き合ってるって話を聞いたことがあったような。前田は中学でも明るいキャラだったからモテていた。半年くらいのスパンで、彼女は二、三人変わってたと思う。
見せられた画像の子は真面目で大人しいタイプだった。確か高校は別のところに行ったはず。前田と付き合うなんて意外だなって当時話題になっていた。
「うん、そうじゃないかな」
「まじ? ほんとなんだ」
「俺の記憶が合ってればだけど。それが?」
「いや、なんでもない。ありがと」
西野はぽんと肩を叩いてきて、俺の疑問には答えずに待っていた四人と話しながら去っていった。にやにや顔を見合わせて、俺が見送っているとそのうちゲラゲラ笑いながら歩いていく。
その雰囲気がなんとなく嫌な感じがしたから、今のやり取りが胸にひっかかった。
「庵野? どうした?」
教室に戻って、弁当を開いて待っていた黒木が聞いてくる。見てわかるほど、俺は微妙な顔をしていたらしい。
「ううん、なんともない。食べよう」
もやっとした感じは残ったものの、黒木と話しているうちにだんだんテンションが戻ってきて、昼休みが終わるころには俺は西野達と話したことを忘れていた。
「みずき」
と、呼び止められたのは放課後だった。
教室で黒木と別れて、委員会の当番もないので帰宅するつもりで靴箱に行ったら、前田が俺を追いかけてきた。
「なに?」
「ちょっといい?」
前田の表情が硬かったから、なんだろうと不思議に思う。
二人で校舎の外に出て、駐輪場の裏の人が少ない場所に移動した。
「前田?」
「あのさ、西野達に余計なこと言った?」
「え?」
突然だったからぽかんとしたけど、すぐに昼休みのことに思い至った。
「あ……昼休み、前田が付き合ってた子のこと聞かれた」
「伊藤さん?」
「あ、うん。そう、伊藤さんだったね」
「それでそうって言った?」
「うん。……違ったっけ?」
もしかして、二人が付き合っていたという話は間違ってたんだろうか。そしたら俺は嘘を教えたことになる。
青ざめたら、前田はそれには首を横に振った。
「違わない。付き合ってた。でもあいつら、伊藤さんの写真見て普通にブスとか言うから、ムカついて」
珍しく不機嫌な声の前田は明らかに怒っている。
普段の温厚な雰囲気とは違っていて、イラついたような顔を見たら胸の中がツッとつめたくなった。
「ごめん、俺」
「あいつら時々俺をいじってくんだけど、俺を下げるために伊藤さんを悪く言うからムカつく。関係ねーじゃん、あいつらに。元カノのこと悪く言われんの嫌だから、次西野達から何か言われても知らないって言ってくれる?」
「わかった。ごめん。俺勝手に答えちゃって」
「気をつけてくれればいいから。じゃ」
前田は険しい表情を崩さずに、それだけ言って校舎の方に戻っていった。
俺は頭の中で昼休みのやり取りを反芻する。
ヤバい。と、どっと冷や汗が噴き出した。
多分、前田は昼休みに西野達に揶揄われたんだ。グループの中心にいる西野は他人をいじって笑いを取るタイプの奴だから、仲がよくても標的にされたら面倒だということはわかる。
四月から半年以上経って仲良くやっているように見えたから、何の疑いもなく答えてしまった。これがきっかけでグループがこじれて、前田が孤立したらどうしよう……
前田が消えた方をしばらく眺め、駅までの道を歩きながらも、軽率なことをしてしまった後悔とショックで他のことを考えられない。
人間関係で悩むなんて久しぶりで、家に帰ってからも気分が晴れなかった。
前田に言われたことを何度も思い返して、自分が昼休みにしたことを後悔して、バカバカ俺のバカ、と頭の中で自分を罵倒する。
いつもなら本を読むか、先輩と話すネタを考えてたら時間が過ぎるのに、今日は本を開こうという気にもならなくて、ベッドに寝そべったまま意味もなくスマホをいじっていた。
春川先輩からメッセージが来ていて、開いて読んだけどいい返しが思いつかない。
いまいち盛り上がらずに、やり取りもすぐ終わってしまった。
明日、前田にもう一度謝った方がいいのかな。
でも西野達の前で話しかけない方がいいだろうし、前田はもう俺に話しかけてほしくないと思ってるかも。
気楽に話せる友達だったのに、今日で信頼を失ったかも。
不安になってしまって、どんどん悪い方に傾いていく。
これじゃダメだ、と考えるのをやめて、宿題と予習に集中することにしたけど、結局全然捗らなくて寝たのは夜遅くだった。
◇
「……き。……みずき?」
「っ、あ、はい!」
ぼんやりしていて、名前を呼ばれてハッとした。
いつもの朝の電車の中だ。
先輩が乗ってきて、話していたはずなのに集中できていなかった。しまった、何の話してたっけ。
「すみません、ぼんやりしてて」
「寝不足?」
「そうかもしれません。昨日の夜、ちょっと考え事してて寝つき悪かったので……」
せっかく先輩と話してたのに、気づいたらもう先輩が降りる駅のすぐ手前だ。
昨日から前田のことを引きずっていて、朝もまだモヤモヤしていたから。先輩と何の話をしたのかよく覚えてないなんて、今まで一回もなかったのに。
「あ、俺、そういえば本忘れました……」
今日先輩に貸そうと思っていた小説、スマホにメモして、昨日家に帰ったらリュックに入れようと思っていた。いつもなら寝る前にスケジュールアプリを開いて確認するのに、昨夜はそれも忘れていた。
「すみません。昨日言ってた本、家に忘れちゃいました。明日こそちゃんと持ってきます」
「それは全然いいけど……」
先輩がそう言って、不意に身体を俺の方に向けた。
リュックを抱えて俯く俺に、「みずき」と優しい声がかかる。
「何かあった?」
「え?」
「なんか、今日変だから」
顔を上げると、先輩のキャラメル色の目が真っ直ぐ俺を見つめている。
「どうした? 大丈夫?」
先輩にそう言われた瞬間、つかえたようになっていた胸の奥からじわっと感情が込み上げた。
心臓の辺りが痺れたような感覚があって、それで一瞬、息を止める。
それから自分でも不思議なほど唐突に、水道の蛇口を捻ったみたいに一気にほっとして、肩の力が抜けた。
「……あの」
自然と声が溢れたとき、車内のアナウンスが聞こえた。電車が減速して、ホームが見えてくる。
ハッとして、窓の外を見ると、もう先輩の降りる駅に着くところだった。
「みずき?」
「だ、大丈夫です。ちょっと考え事してただけなんで」
降りる間際に気を遣わせてしまうわけにはいかない。俺は慌てて笑みを取り繕って、首を横に振った。
先輩が俺の様子を気にしてくれたってだけですごく嬉しかった。多分もう大丈夫だ。明日には普通に戻れてる。
「また明日、本持ってきます」
締めの挨拶に入って軽く会釈する。
先輩はそんな俺をじっと見つめた後、電車が止まるのに合わせて座席を立って、床に置いた鞄を肩にかけた。
「放課後、会う?」
その言葉にパッと先輩を見上げた。
「え?」
瞬きすると、先輩が何か考えるような顔で俺を見下ろしていて、軽く首を傾げた。
「今日何か予定ある?」
「あ、な、ないです」
「なら会って話そ。俺も予定ないから」
開いたドアを見ながら早口で言った先輩は、すっと手を伸ばして俺の頭を軽く撫でた。
目を丸くする俺を見下ろして「また連絡する」と言って、扉が閉まる音に合わせて電車を降りていった。
電車が動き出し、束の間放心していた俺は我に返る。
またしても、頭を撫でられてしまった。
しかも、会うって?
放課後会おうって言われた? 俺がいつもと違ったから?
普通にしてたつもりだったのに、俺ってそんなにわかりやすく落ち込んでたのかな。
放課後に会うなんて初めてだけど、いいんだろうか。予定ないって言ってたけど……
躊躇する気持ちが湧く一方で、素直に嬉しいと思う自分がいる。
放課後も先輩に会えるなら、すごく嬉しいかも。帰りの電車に乗る間だけでもいいから、一緒にいられるなら。
スマホが震えて、先輩からメッセージがきた。
『帰りの時間教えて 待ち合わせ場所決めよう』
画面を見つめて、小さく息を止める。
先輩が、本当に会おうとしてくれてる。いいのかな。放課後まで、俺に付き合わせちゃっても。
俺はしばらくそのメッセージを見つめて、それから思い切って返事を返した。
『わかりました 昼休みに連絡しますね』
送ってしまって、ドキドキしていたら、俺の返事はすぐに既読になる。
間を置かずに先輩からスタンプが返ってきた。
いつものブサ猫の、ふてぶてしい顔で『OK』と言っているスタンプ。
それを見たらなんだかほっとしてしまい、ようやく自然に笑えた。




