第八話 事件発生……! 後
手のひらでお汁粉の缶を包みながら、女の子は少し緊張が解けた顔で俺に笑いかけた。
「さっきは、助けてくれて本当にありがとうございました。びっくりして、声出せなくて」
「そうだよね。捕まえられなかったけど、駅員さんに言っておく?」
「もういいです。逃げられたし。一応動画撮ってあるけど」
「え?」
俺が驚くと、その子はコートのポケットからスマホを取り出して軽く掲げた。
「触られて、動画オンにしたんです。動けなくて証拠までは撮れてないかもしれないけど、その後あいつが怒鳴ってた声とかは入ってるから」
「す、すごいね。俺も証拠撮ればよかった。気が回らなくてごめん」
「そんなことないです。誰も気づいてくれないと思ったから、嬉しかった。ありがとうございます」
声は明るい調子だったけど、スマホを握る手にぎゅっと力が入っている。
やっぱり駅員に話した方がいいんじゃないかと思った俺は、立ったまま周りを見回したけど、ホームの見える範囲にはいない。
電車の時間が近づいて人が多くなってきた。
「大丈夫? 事務室まで行って休ませてもらう?」
「いいです。もう夜も遅いから、帰ります」
「電車乗れる? 降りる駅まで一緒に行こうか?」
「ほんとですか? お願いしてもいいですか? ママもパパも帰りの時間遅くて、多分すぐには来れないから」
俺の申し出にほっとした表情を浮かべた女の子に頷いて、二人で乗車待ちの列に並んだ。
なるべく空いている車両に乗るように、一番端っこを選ぶ。
間もなく電車が来て、一緒に乗り込んだ。今度は入り口付近に立ち止まらず、人の間を縫って通路の奥まで入る。
空間にゆとりがある場所を見つけてここだと思い、女性客の前に立てるように女の子を誘導した。
「大丈夫? 気分悪くない?」
「はい。ありがとうございます」
「駅から家まで近い? 一人で帰れそう?」
「あ、お兄ちゃんが来てくれるって」
ホームで待つ間に家族に連絡できたみたいだ。スマホを握っていた女の子が画面に目を落として、安堵が滲む声で教えてくれた。
「ほんと? よかった」
それなら安心、と俺も頷いて、駅に着くまでの間その子とぽつぽつ話をした。
大人びた顔をしているから高校生かと思っていたら、中学三年生らしい。
部活で遅い時間になって、友達は先に降りてしまったから一人で乗っていたそうだ。
あまり個人的なことは聞かない方がいいよな、と思い、当たり障りない話をする。お互いの学校名とか女の子が受験する予定の高校とか、気が紛れたらいいなと思いながら話を繋げていると、そのうちその子が顔を上げる。
「あ、この次で降ります」
俺も表示を見て駅名を確認したら、馴染みのある駅だった。
あ。ここ先輩の家がある駅だ。
夜のホームに電車が滑り込む。
「あの、本当にありがとうございました」
「一応改札まで送るよ。もし必要なら、家族の人に俺の連絡先教えるし」
結局駅員には話さずに来たけど、もしかしたら家族が被害を訴えたいかもしれない。それに自分では説明しづらいかもしれないから、必要があれば状況を話して帰ろう。
そう考えて、女の子と一緒にホームに降りた。
「胡桃!」
聞き慣れた声が聞こえて、思わず立ち止まった。乗降する人混みの向こうに視線を向けて、そこに私服の春川先輩がいたから、えっと驚いた。
「お兄ちゃん!」
俺と一緒に電車を降りた女の子が、真っ直ぐに先輩に駆け寄る。ぎゅっと抱きついたその子を受け止めて、真剣な顔をした先輩が「大丈夫か?」と硬い声を出す。
「帰って来れてよかった。母さん達にも連絡しといたから」
「ありがと。あのね、この人助けてくれた人」
その声で先輩が顔を上げた。
乗降客に紛れて俺が見えなかったのか、人の波が引いた後のホームに立っている俺と目が合って、先輩が目を大きく見開いた。
「みずき……?」
「え! 知ってる人? ほんとに? 痴漢に怒って、助けてくれた」
「みずきが?」
驚いている先輩と、俺も目を丸くしたまま見つめ合った。
「先輩の妹さんだったんですね」
「ほんとのほんとに知り合い? うそ、すごぉい」
先輩の妹さん──胡桃ちゃんのワントーン上がった声を聞きながら、俺はなんで気づかなかったんだろう。と独りごちた。
確かに、言われてみれば先輩に似てる。綺麗に整った顔の雰囲気が同じだ。笑った顔になんとなく見覚えがあると思ったんだ。
妹がいるって、そういえば言ってたもんな。
驚きから覚めた様子の先輩が、真顔で俺を手招きした。抱きついていた胡桃ちゃんが離れると、俺の全身をざっと視線で追ってから微かに表情を緩める。
「みずきが助けてくれたんだ。ありがとう」
「あ、でも、犯人には逃げられたし……」
「お兄ちゃん、私一応動画撮ったよ。鮮明じゃなくて証拠になるかわかんないけど」
胡桃ちゃんがスマホを掲げると、先輩はすぐに「送って」と短く言った。
ささっと手元で操作した胡桃ちゃんはさっきの動画を送信したらしく、先輩はすぐにスマホの画面に目を落とし、音量を抑えて確認し始めた。
「お兄ちゃんの知り合いだったんですね。すごい偶然」
と、胡桃ちゃんが俺の方に来て話しかけてくる。
先輩の知り合いだとわかったからか、口調が砕けて年相応に女の子っぽい印象になった。
「俺もびっくりだった。名前まだだったよね。庵野瑞季っていいます」
「春川胡桃です」
にこっと笑った胡桃ちゃんは大人っぽい表情が解けるとますます可愛い。
笑顔のときの口元が先輩に似てるな、と、ほわっとしていたら、先輩がスマホから顔を上げた。
「あ、ママから電話。お兄ちゃん、ちょっと待ってて」
胡桃ちゃんがスマホを手に俺達に背を向けて、少し離れる。心配したお母さんから電話らしい。「うん、うん、大丈夫。お兄ちゃん来てくれた」と頷いている背中を眺めていたら、春川先輩が俺の手首を掴んだ。
見上げると、真面目な顔つきになった先輩が俺を見ている。
「先輩?」
「怪我なかった?」
「あ、はい。大丈夫だと思います。やめさせた後は胡桃ちゃん触られてないし」
「ちがう。みずきが、大丈夫?」
「えっ? あ、はい」
「よかった……揉めてたけど、殴られたりしてないね?」
「はい」
痴漢とは口論しただけで、びびってしまったけど、全然平気だ。
こくこく頷くと、先輩はほっと息を吐いて目を細める。
「無事でよかった。胡桃のことほんとにありがとう。惚れ直した」
最後の言葉にどきりとして、でも、褒められたんだと嬉しく思う前に俺はさっきの自分の情けない振る舞いを思い出した。
「あの……でも俺、全然立ち向かえなくて」
もっと心が強かったら、きっと痴漢にも負けずに言い返せた。
俯きそうになったら、先輩が俺の手をぎゅっと握った。
「何言ってんの。みずきだけが見ない振りせずに助けてくれたんでしょ。大人みんな見て見ぬふりだったじゃん。すごいよ」
茶色の瞳に真っ直ぐ見つめられて、引き寄せられた。
あ、と思う間に俺の身体は先輩の右腕の中に収まり、上着の肩口に顔がつく。
背負ったリュックごと軽く抱きしめられて、心臓が大きく跳ねた。
思わず息を止めると、目の前にある硬いキャンパス地の黒いデトロイトジャケットから先輩の香水がふわっと香った。
目の奥がきゅ、と熱くなる。
多分、痴漢を見つけたあの瞬間から、ずっと緊張していたんだと思う。
先輩のいつもの匂いで、張っていたものが一気に緩んだのがわかった。
落ち着いた声音が耳元で響く。
「みずきがいてくれてよかった。ありがとね」
「……はい」
ちょっと声が震えてしまったけど、こくりと頷くと先輩は空いている手で俺の頭を撫でてくれる。
ほっと肩の力が抜けた。
「先に胡桃を家につれて帰るけど、その後みずきの家まで送ってこうか?」
先輩が俺を見つめて微笑んでくれる。
「いえ、大丈夫です。俺はもうあと三駅だけだし」
先輩がまた家から出てくるなんて大変すぎる。それに胡桃ちゃんも家に一人じゃ不安だろうし、先輩は試験勉強だってあるのに。
答えると先輩は迷うような顔をしていたけど、俺が固辞したら納得してくれた。
そのタイミングでちょうど胡桃ちゃんの電話が終わったので、先輩はさりげなく俺から手を離した。
「じゃあ、先輩、胡桃ちゃん。俺はここで」
「うん、また明日。みずきは帰り気をつけて」
「はい」
「庵野さん、本当にありがとう」
俺は二人に見送られて次に来た電車に乗った。その後は何のトラブルもなく、無事に降りる駅について先輩に『帰りました』と連絡を入れておいた。
この瞬間まで、俺はこれから先のことを深く考えていなかった。
翌日から俺と先輩の日常が変わってしまうなんて、思ってもみなかったから。
俺がそのメッセージに気づいたのは、家に帰って夕食を食べ、風呂に入って寝る前だった。
先輩からだ、とすぐにトーク画面を開いて確認する。
『急でごめん 明日からしばらくいつもの電車に乗れない』
その文字が目に飛び込んできて、スマホを持つ手が固まった。
『胡桃の登下校、俺が一緒に行くことにした』
続けて送られていたメッセージを読んではっとする。
胡桃ちゃんの登下校。
そうだ、明日からも胡桃ちゃんは電車に乗って行かなきゃいけないんだから、先輩もご両親も当然心配だろう。
胡桃ちゃんも一人で乗るのは怖いだろうし、しばらく誰かと一緒に行った方がいい。
『わかりました、大丈夫です 俺もその方がいいと思います』
先輩が付き添うなら胡桃ちゃんもきっと安心だ。
ベッドの中でそう返信したけど、メッセージを送り返した瞬間、何かが終わってしまったように感じた。
明日から、先輩と会えない。
スマホの画面を見つめながら、ぽっかりと胸の奥が空いた気分だった。




