第八話 事件発生……! 前
※注記
話の中で電車に痴漢が出ます。みずきは被害を受けませんが、気分を害する可能性がある方は今回と次回を飛ばしてください。
◇
その日の放課後、俺は図書委員の当番が当たっていた。
期末の前だからか貸し出しはほとんどなく、カウンターに座ってもくもくと課題を済ませた。利用者もほとんどいなくて、静かな部屋でちょうど試験勉強もできたからラッキーだったかも。
当番の時間が終わって帰宅する途中、帰りの電車はサラリーマンのラッシュにぶつかってしまって満員だった。
扉付近にいたら、次に止まった駅で乗り込んでくるサラリーマン達に押されて、言葉通り潰されそうになる。
自分の顔の前の空間を少しでも空けるため、リュックを前に抱えてクッションにした。
だからラッシュは嫌なんだよな。
目の前に迫るおじさんの背中から視線を横に逃がしたとき、ふと、それに気づいた。
……え?
驚いて、見たものに目が釘付けになる。
俺の横にいる中年のサラリーマンが、前に立っている女の子の尻を触っていた。
え? なに? 触ってる?
突然の事態に仰天して、横を見たまま固まった。
髪が長い高校生くらいの女の子は制服の上から膝上のコートを着ているが、コートの上から触っているサラリーマンの手は明らかに女の子の尻の辺りにある。
その子も気づいていて、身体をよじろうとするものの、ほとんど隙間なくぎゅうぎゅうに詰まっている車内で身動きが取れていない。
ど、どうしよう。これ間違いなく痴漢だよな。
みんな気づいていないのか、見て見ぬ振りなのかわからないけど、誰も声を上げないし、サラリーマンはますます密着しようとしている。
俺から顔は見えないけど、俯いた女の子の肩が震えた。
それを見た瞬間、咄嗟に抱えたリュックから手を離していた。
「ちょっと」
俺が痴漢の腕を掴むと、相手はぎょっとした。
神経質そうな中年のサラリーマンだ。同時に周りの視線が一斉に俺に集まる。
大量の目に囲まれていると感じた瞬間、どくっと緊張した。あれだけ密集していたのに、俺達の周りが自然に少しひらける。隣の男の姿が全部見えるようになったら余計に気持ちが強張った。
痴漢が目を見開いて俺を見ているから、何か言わなければと焦ってしまう。
「……その子に、何してるんですか」
喉奥からなんとか出た声は、かなり掠れた。
言ってから気づく。こういう場面で声を出すのって、こんなに難しいんだ。
「は? ……なんだ急に」
値踏みするように俺を見たサラリーマンは、俺の手を強く振り払い、憤慨したような大声を出した。
「突然なんだ、失礼だろう!」
一喝するように怒鳴られて、びくっと肩が揺れる。
喉がカラカラになって頭が真っ白になりそうだったが、舌打ちした男がしらを切るつもりだとわかって、焦りながらも強張る声で言った。
「その子に、触ってましたよね」
言い負かされたらダメだ、と相手を睨むと、痴漢はもっと強い目で俺をギロッと睥睨してくる。
「混んでるんだから手が当たっただけだろう、それだけで痴漢呼ばわりか? 証拠はあるのか?」
「でも」
「わざとなんて触っていない! そんなことするわけないだろう!」
わざとじゃないと言い切られて、俺は言葉に詰まった。
絶対に触ってた。それは確かなのに、大人の強い口調で詰られると、自分が間違っているかもという迷いが僅かに生まれて、押し負けそうになる。
周りの乗客は俺達に注目してるけど、誰も何も言わなかった。
自分の優勢を悟ったのか、サラリーマンはギラギラと目を光らせ、勝ち誇った顔で俺を問い詰めてきた。
「何とか言ったらどうだ! 人に濡れ衣着せて恥ずかしいと思わないのか?」
自分よりも大人の男に一方的に怒鳴られることなんて初めてで、言い返したくても言葉が出てこない。
どうしよう。俺は間違ってないのに、全然上手く戦えない。悔しくて唇を強く噛みしめる。
でもここで俺の勘違いですなんて、絶対に言うもんか。
「触られました」
そのとき、声を出したのは俺じゃなくて、男に痴漢されていた女の子だった。
「私、その人に触られた」
小さいけどきっぱりした口調の声が響いた瞬間、形勢がひっくり返ったのがわかった。
車内の視線は、今度は一斉に痴漢の男に向かう。
振り向いて男に対峙した女の子は、きっと唇を引き結んでいた。泣きそうな顔で眉間に皺を寄せているけど、綺麗な顔立ちでかなり可愛い。
それもあってか車内の視線は、非難する色が強くなって痴漢に集まった。
俺と女の子を見比べた男は、顔を引き攣らせて視線を泳がせる。
「お、お前ら、グルになって俺を陥れようとしてるのか! そうなんだろう!」
なおも言い逃れようとするから、俺は苛立ちがつのって拳を握りしめた。なんだこのおっさん。恥知らずなクズだな。
口を開いて言い返そうとしたとき、俺より先に後ろから声がした。
「おっさんいい加減にしろって。いい年して、あんたが恥ずかしくねーのか?」
後ろを振り向くと、スーツを着た若いサラリーマンが立っていて、スマホから顔を上げて俺に加勢してくれる。
痴漢に視線をやって呆れ顔をしている彼にぎょっと目を見開いて、痴漢が顔を真っ赤にして口ごもった。
よし、やり込めた、と思ったが、ちょうどそれを見計らったようなタイミングで電車が駅に着いた。
開閉音と共にドアが開いた瞬間、痴漢は捕まえる間もなくばっと踵を返し、周りにいる人を乱暴に押しのけて走っていく。あっという間にその姿は見えなくなった。
「あ!」
反応が遅れて俺が声を上げたら、後ろにいたサラリーマンがため息を吐いた。
「ありゃ手慣れてんな……君達、ここで降りて駅員に話したら?」
そう言われて、俺は女の子を見る。俺と同じように痴漢が逃げるのを見ていたその子がこっちを向いて、目が合った。
「悪いけど俺は急いでるから行くけど。もう閉まるよ」
彼の声で、俺はその子を手招いた。
このまま乗っていても車内からの視線が痛いし、この子も気まずいだろう。それに後ろのお兄さんが言う通り駅員に知らせた方がいいかもしれない。
女の子の方も青い顔をしているから、一度降りてこの後どうするか確認しよう。
「一緒に降りよう」
と誘うと、その子もこくりと頷いた。
◇
電車を降りて早々に、女の子は深々と頭を下げてきた。
「ありがとうございました」
「大丈夫?」
「はい」
その子は頷いたけど、まだ青い顔をしていたから一度落ち着いた方がいいと思い、ホームにあるベンチに座ってもらった。
すぐ横に自動販売機があったから、俺は温かい飲み物を買って、女の子のところに戻る。
「これよかったら」
「あ、ありがとうございます」
ぺこっとお辞儀したその子は、俺から缶を受け取って、大きな瞳でぱちっと瞬きした。
「お汁粉……?」
「えっ……あっ、ごめん、間違えた!」
よくよく見たら、その子が持っているのは確かにお汁粉の缶だ。
「ココア買ったつもりだったんだけど」
俺もまだ気が動転してて、隣にあったお汁粉を間違えて押していたらしい。
「でも、あ、甘くて美味いかも……」
と、よくわかないフォローを自分でしたら、お汁粉を持つ女の子は俺をまじまじと見つめた後、小さく噴き出した。
その顔を見て、あれ? と思う。
なんか、表情に既視感があるような。気のせいか。




